7.漆黒の幸せ
あれから数年がたった秋晴れの日。
夏美は相変わらず、共働きで家事に追われる毎日を送っていた。俊哉との関係は劇的な変化はなかったが、以前のように「寂しい」と感じることは少なくなっていた。
朝のコーヒーの香り。
仕事帰りのスーパーで特売品を見つける小さな喜び。
休日に俊哉と「一緒に見よう」と声をかけて、他愛ない会話をしながら観るテレビ。
家の庭を通り過ぎる近所の猫。
俊哉からの言葉も、徐々に「ああ」「うん」以外が増えてきたような気がする。
それら日々の「なにげない出来事」一つ一つに、夏美は小さな感謝を感じていた。
寂しさは自分から行動を起こせば薄れる。それは退屈な日常があってこそ。
それを教えてくれたのは、あの夜、公園で出会った不思議な女性、冬香だった。
夏美は俊哉と、郊外のアウトレットモールに来ていた。テレビで紹介していたのを見て「一緒に行こう」と俊哉を誘ったのだ。前よりも自然にこういうことができるようになっていて、俊哉も前ほどめんどくさそうな空気を出さなくなっている。
高い雲と秋の柔らかな日差しが夏美の髪を穏やかに照らしていた。人が行き交うアウトレットモールの雑踏の中、ふと目に入った親子連れに、なぜだか目が釘付けになった。
母親と手を繋ぎ、小さい子、おそらく二歳ぐらいの男の子が、笑いながら歩いている。
母親は、かつて夏美が見た金色のロングではなかった。艶やかな黒髪のボブカットになっている。落ち着いたアースカラーを基調としたカジュアルな服装。でも決して地味ではなく、穏やかで安心感のある印象。
しかし、その横顔、そして夏美の心に焼き付いた強い眼差しは、間違いなくあの時の冬香だった。
「あ……」
思わず夏美の口から声が漏れた。
冬香は、おどけた顔で子供を抱き上げ、頬にキスをした。子供がキャッキャと笑い、冬香も優しい笑顔を返した。
その表情は、かつて夏美の隣で焼酎を飲んでいた、虚ろで派手な女性の顔ではなかった。
そこには、かけがえのない「日常」の中にいる、満たされた女性の顔があった。
夏美は手を振って、走り出そうとした。あの夜から変わった自分、そして変わった冬香と話したい。あれからのことを話したかった。
「冬香さん、久しぶり!」
「おー、夏美さん!元気そうじゃん!」
きっと冬香さんはこう返してくれるだろう。そしてあれからのことをいっぱい話そう!
……だが、ギュッと胸が締め付けられるような感覚が夏美の体に走り、足は凍りついたように動かなかった。
あの夜、冬香が言っていたこと。きっと私だけが知っている刺激的なこと。
ーー私は、あの時、変わることができた。それは冬香さんのおかげ。
ーー冬香さんも……きっと、想像もできないような苦労の積み重ねで。
子供と楽しげに手を繋ぐボブカットの女性……、かけがえのないものを見るような優しい眼差しを子供に向けた冬香は、秋の日差しの中で一際輝いて見えた。
あの夜、冬香が切望した、夏美の「退屈」という宝物。
夏美はそっと、その場の空気を乱さないよう、一歩後ろに引いた。
声をかける必要はなかった。いや、彼女の前に出て行ってはいけない。
冬香は、自分自身の力で、「金色の虚無」を、誰にも上書きできない「漆黒の幸福」に変えたのだ。
夏美は静かに立ち尽くし、ただ見送った。冬香が、どうやって今の生活を手に入れたのか知らない。いや、知ってはいけない気がした。
ーーどうしてだろう?
再会すればきっと彼女は驚き喜んでくれるだろう。だがそれは同時に彼女の宝物を壊しかねない危うさがある、そんな感じがした。
彼女がやっと手に入れた宝物を壊してはいけない。
夏美の頬を、熱い涙が伝った。俊哉がびっくりした顔で見つめていた。
「なんでもないの、ただこうしていられるのが幸せで」
俊哉がそっと手を握ってくれた。
なにげない日常への感謝……。
「……俊哉」
「ん?」
「……今晩さ、さっきのお店で売っているお弁当にしない? さっき美味しそうなのあったから……」
「うん、いいね」
夏美は前を見つめた。そしてその横で微笑んでいる俊哉。
夏美は俊哉の手を持って、いま来た道を逆の方向へ歩き出した。
ーーバイバイ。
空いた片手で、小さく胸の前で手を振る。
それは、かつての友への、二度と会うことのない友への、そして自分へのエールだった。
風が吹き抜けて、やさしく夏美の髪を撫でている。
きっと冬香にも届いている。この、やさしく幸せを運ぶ風が。
<金色と漆黒 完>




