第85話
今すぐに立ち上がって逃げ出したいのに、足がガクガクと震えてその場から動けない。
聖女の力で対抗すればいいとわかっているのに、何も出来ない。
その血の眼から、目を逸らすことが出来ない。
『 余の手を取れ、聖女よ 』
魔王の手が、ゆっくりとこちらに伸びてくる。
『 愛が欲しいのなら、余がくれてやろう 』
愛が、欲しい?
……違う。
私は、愛が欲しかったわけじゃない。
私は愛を知らなかったから。
だから欲しいと思ったことはなかった。
リューと、再び会うまでは。
――コハル、愛している。
でもリューが、私を愛してくれた。
ずっと、罪悪感があった。
愛を知らない私が、ちゃんとリューを愛せているのか。
愛してくれるリューに、ちゃんと応えられているのか。
だから、リューを初めて“愛おしい”と思えて、嬉しかった。
私にも誰かを愛せるのだとわかって、心がいっぱいに満たされた。
……そうか、私は。
私はずっと、誰かを愛したかったんだ。
『 だから余のモノになれ、聖女よ 』
だから今は、私に愛を教えてくれた彼を。
私をずっと待っていてくれた彼を。
私をずっと呼んでくれていた彼を。
(リューを、愛したい……!)
「いや! 私は、リューじゃなきゃ嫌なの!」
伸びてきた手が私に触れた、その瞬間だった。
『 !? 』
キィンっというような高い音と共に、その手がはじかれた。
『 なっ、なんだ!? 』
(え?)
魔王が己の手を掴み苦悶の表情を浮かべていた。
見れば、その手が爛れたように溶けかかっていて驚く。
『 オマエ、一体何をした!? 』
わからない。私は何もしていない。聖女の力も使っていないはず。
なのに身体が……お腹のあたりが、とても熱い……?
(なに……?)
私が震える手でそこに触れると、魔王は目を剥いた。
『 ま、まさかオマエ、既に竜帝の子を宿しておるのか……!? 』
(え?)
私はもう一度、自分のお腹を見つめる。
――竜帝の、子……?
(リューの子供が、私のお腹に……?)
そのとき、私の身体がぼんやりと輝きを帯びていることに気付く。
その輝きはどんどん強くなって広がって、周囲の闇を明るく照らしていく。
これまで見えなかった周囲の様子がはっきりとして、この場が驚くほど巨大な鍾乳洞なのだとわかった。
昔ここに竜が棲んでいたという話も頷ける、まさに『竜の洞』だ。
『 なんだ、この凄まじい力は。魔と聖の力が合わさると、これほどまでの力になるのか!? 』
明るくなっていく視界とは逆に魔王の声がどんどん切羽詰まった苦しげなものに変わっていく。
美しかったその姿がどんどん醜い魔物の姿へと変貌していく。
『 やはり欲しい! その力、余も欲しいぞ! 早く余の元に堕ちて来い聖女よ……! 』
恐ろしい魔物の手が幾本にもなってこちらに伸びてきて、私は咄嗟にお腹を庇う。
「いや、来ないで!!」
この子は。
リューの子供は、私が絶対に守る……!
「竜帝くんだけじゃなく聖女とその子まで欲しがるなんて、さすがに欲張りが過ぎるんじゃないかな?」
聞こえてきたその声に、私は目を見開く。
「エル!?」
『 妖精王!? ぐあっ!? 』
顔を上げてすぐ、私に伸びていたいくつもの手が目の前でザンッと斬り落とされた。
そして、私の前に立ったのは凛々しい背中。
「コハル様。ご無事で何よりです」
「ローサ!」
「コハルさま、お怪我をされているのです!? すぐにメリーが癒してさしあげます~!」
「メリー!」
メリーの癒しの光の中で、私は皆の姿を呆然と見つめる。
……これは、幻だろうか。
エル。
ローサ。
メリー。
いつの間にか、私の周りには皆がいた。
「みんな、どうして……っ」
格好悪く声が震えてしまった。
だって、さっき皆、炎の中に……。
「いやぁ、さすがにもうダメかと思ったけどね」
「カネラ王子!」
「あのとき、妖精王さまが咄嗟に姿を消して逃がしてくれたんだよ」
カネラ王子が相変わらずのマイペースな口調で教えてくれる。
(じゃあ、これは幻なんかじゃなくて、本当にみんな無事だったんだ)
みんな、生きてるんだ……!
『 なぜ、この中で平気なのだ、貴様ら……! 』
魔王の声を聞いてハっとする。
そうだ。さっき穴の前で皆あんなに苦しそうだったのに。
「これのお蔭さ」
エルが手にしていたのは薄いピンク色の花の形をした宝石だった。
「『花の王国』特製の魔法石よ」
その鈴を転がしたような声に、私は驚き振り返る。
「ティーア!?」
「遅くなってごめんなさい、コハル」
相変わらず“清楚可憐”という言葉がぴったりで、この場には到底似つかわしくない友人が、綺麗に微笑んでいた。
『 花の女王!? なぜ貴様まで……! 』
「7年前、コハルがあなたを封印してくれてから、私たちが何もしていなかったと思う?」
悔し気な魔王に向かって、ティーアは凛とした声で続ける。
「花の王国ではね、この7年の間、あなたの魔力に対抗出来得る魔法石を生成していたの。妖精の国にも協力してもらってね。7年前はあなたに近づくことが出来なくてコハルに任せっきりになってしまったから、もし次があったら今度は私たちも力になれるように」
そして、ティーアが私に優しい微笑みをくれた。
「だから、今回は私たちも一緒に戦うわ。コハル」
「ティーア……っ」
涙で、久しぶりに会う友人の顔が良く見えない。
と、その後ろからもうひとり、背の高い人物が姿を現した。
「おっと、アタシもいるからね。忘れないでおくれよ!」
『 氷の女王!? 』
「ブランカ!?」
「久しぶりだねぇ、コハル!」
バチンっとウインクをしたカッコいい女性は、『氷の国』の女王、ブランカだ。
ナイスバディを惜しみなく魅せた衣装。豪胆な態度と喋り口調も相変わらずだ。
7年前、私の中の『氷の女王』のイメージを良い意味で壊してくれた女性。
その彼女が、なぜここに。
そんな私の驚きが伝わったのだろう。ブランカはにかっと笑って続けた。
「説明は後だ、コハル。さっさとそこの醜い魔物を封印しちゃうよ!」
「コハルさま、立てますか?」
人の姿をしたメリーが私を支えてくれて、私はゆっくりと立ち上がる。
癒しの力のお蔭で痛みもなく、両脚でしっかりと立った私は皆に笑顔で言った。
「ありがとう、みんな!」




