Ⅲ194.王弟は通す。
「あっ……あの、聞きました。サーカスのチケット、ありがとうございました……」
「礼には及ばない。楽しんでくれたならば幸いだ」
親しみを持って駆け寄ってきた女性に、セドリックは柔らかく笑んだ。
貧困街を良くは思っていないセドリックだが、力の無い女性にまでその目を向けようとは想わない。特に首領達に対して自分個人が快く思っていないだけだ。
むしろ正体を隠した仮の姿のお陰か、親しげに話しかけてくれる相手には純粋に嬉しいとも思う。普段は特に女性が相手だといつも恐れ多いと緊張されるか、心奪われ興奮状態で上手く話せない者も多い。しかし仮の姿の自分には誰もが警戒状態ではあっても、それ以上肩を張ることもない。自然体で民と話すことができるのはセドリックにとっては貴重な機会でもある。たとえそれが、憎むべきラジヤ帝国の領地であろうとも。
今は自分へわざわざ礼を言ってくれる女性の礼儀正しさにも少し驚いたが、それ以上に自分からの提供だと彼女らが知っていることに驚いた。
サーカス当日に観客席を見回して、貧困街で見覚えのある人間がある程度訪れていることは遠目にも気付いたがてっきり全てエルドが自分の手柄にしていると思っていた。
護衛の騎士と共に貧困街に入ってからすぐにセドリックに気付いた民も、今は大した警戒はしていない。既に首領から許可を通達されている上に、二日前も自分達の元に訪れていた彼をもう見慣れた者も多かった。
それよりも彼らの話題は昨日評判のサーカスについてで持ちきりだった。貧困街内で住まう女性も子どもも皆、今までよりも顔色の生気が溢れているとセドリックは記憶と照らし合わせて思う。自分達が初めて立ち入った時の警戒状態を抜いても決して生気がなくなっていたという訳ではないが、今は明らかに活気づいている。
一歩、中に入れば「それで昨日のサーカスがさ」「いいなぁ」「仮面の下見たい」「私サーカス初めて」と一日経った今も話題は尽きない。彼らにとっては数少ない道楽だった。
「その話は、エルドから聞いたのか?無事女子どもに配ったようだが」
「?はい……。「自己責任だ」と。エル……首領もホーマー達と行きましたし、なら平気かなと……お陰で子ども達も皆少し前向きになれました」
ほっと嬉しそうな笑みを浮かべる女性は、途中でこれ言って良かったのかなと口を覆った。うっかり幹部のことを話したことに気付いたのだろうと見当付けたセドリックから「大丈夫口外しない」と断れば、そこでほっと息を吐いた。
決して口止めされたわけではないが、エルドからもあくまで彼らの立入りを許可しただけで彼らを仲間と認定したわけではない。
セドリックもそれを理解した上で、彼女の言う「自己責任」という言葉を頭で反復した。集落内で話題にしている者達の数から考えても、女子どもに分配されたらしいことは察しがついたが、だからといって自分への警戒を解いたわけでもないと再認識する。むしろどういう理由であろうとも、女子どもだけでなく首領本人も訪れたというのならば、それなりに責任の一匙程度は覚えているのかと見当付ける。
あれだけ偉そうにふんぞり返っていた男が〝サーカスが見たい〟という理由で自分が与えたチケットを使ったとも思えない。
「ところで、エルドは今どこに?話しがしたいのだが、いつものテントか」
「た……多分……?」
ごくん、とそこで女性は喉を鳴らした。
これ以上彼女も自分が言って良いか悪いかの判断も付かないのだろうとセドリックも理解し、一言礼を返して切った。エルドのテントの場所は覚えている。仮にも首領である男の居場所を常に貧困街の全員が理解しているわけもない。ここは自分の足で直接確認するのが一番早い。
最短距離で貧困街を進みながら、耳を澄ませれば奥へ進めば進むほどやはり入ってくるのはサーカスの評判だ。「楽しかった」「バレエっていうらしい」「また見たい」と楽しげに言葉を交わす彼女達は、街に降りた民とも変わらないとつくづく思い知る。気を抜けばここが犯罪集団の巣窟であることを忘れてしまいそうな穏やかさに、セドリックは一人口の中を噛んだ。
ただ貧しい者同士が肩を寄せ合い、外部からの勢力から身を守るだけであれば立派なものだというのに何故それを軽犯罪に染めるのかと思う。そして何よりも、〝そうしないと〟生きていけないこの国の現状もまた腹立たしい。侵略し奴隷制度を押しつけておきながら、その上での治安を歯牙にもかけない。考えれば考えるほど、この地がラジヤ本国にとっても「奴隷生産国」以上の何物でもないのだと思い知る。
貧困街内の奥に進めば進むほど、にぎやかさもサーカスの評判も耳に入るにも関わらずセドリックの表情が険しくなっていくことに、護衛のジェイルとマートは無言のまま顔を見合わせた。
昨日まではエリックが声を掛けていたが、今は自分達しかいない。本来騎士ではあってもあくまで護衛である自分達が親しげに話す必要はない。何より今のセドリックの険しさが体調によるものではないことはこの数日の様子で理解もできた。
眉を寄せたまま互いの顔色を確認し、また護衛対象の背中を見つめれば掛ける言葉を見つけるよりも早く首領テントに着いた。見張りの男が一人立っているそこに、セドリックは迷わず要件を告げる。
既に顔を覚えられている彼の訪問に、見張りも一度テントの中へ顔を覗かせた。ほんの一枚布を捲った先にいるにもかかわらず、まだ王族気分が抜けていないかのように見張りを介すエルドにセドリックはテントの先へと低めた声を張る。
「ダリオだ。契約上は協力を惜しまない以上、集落の者達にのみ課して首領本人は非協力とは言うまい」
おぉ……、と、あまりに敵対心この上ないセドリックの言葉にジェイルは口が引き攣った。普段の彼からは考えられない高圧的な話し方は、プライド達にどころか騎士である自分達に向けても発せられたことがない。唯一ここの首領と会話する時だけのギスギスと歪さの聞こえそうな話し方だ。遠征までは、王族としては腰の低い印象のあったセドリックだが、誰にでもないのだと思い知らされる。
喧嘩腰の問いかけに、すぐには返答もなかった。見張りの男も口を結びセドリックへ振り返る。
失言に威嚇を込めて槍を構えれば、その瞬間にマートが刃下の根元を素早く掴み止めた。剣を抜くまでもない、大して腰も入っていない武器は見張りの男がどう引っ張り込もうともびくともしなかった。身体が出来上がっているだけの男と鍛え抜かれた騎士では本来の筋力だけでも差が大き過ぎる。
沈黙こそが答えのように返ってこない中、見張りが呼びかけたことからも中に本人がいることは間違いないと考える。
「聞こえているのだろう。こちらは礼儀を通しに来ただけだ」
「…………その割には随分な喧嘩腰だな」
セドリックに応じるように低めた声がテントの先から溢される。その声に、セドリックもすぐにエルド本人だと確信した。
もう良い、入れ。と、続けた投げやりな声が続けられ、見張りの男も構えていた槍から力を抜いた。
同時にマートも手を放し、テント内へ入るセドリックの後に続く。テントの中へ入る寸前に睨むような眼差しを見張りに向けつつ、一礼をした。あくまで自分達は護衛同士であり敵対はしていない。
テントの中に入れば、いるのはエルドだけではない。椅子に掛けるエルドと共に男性一名女性一名が並んでいれば、その二人も幹部だったとセドリックはすぐに記憶から思い出す。男性はホーマーではなく、そして女性の方は昨日のサーカスの観客席にもいた女性だと思い返す。
いつもと変わらず足を組んで見せるエルドの前には、今は古びたテーブルが置かれていた。来客の立つ場所を作る気もないと言わんばかりに配置されたままのテーブルの上に置かれているのは片付けるのも難しくない地図一枚だ。
自分達のいる地を中心とした地図はいくつもバツ印も書き足されているのを一目で確認したセドリックは、普段の金稼ぎの為の犯罪場所かそれとも奴隷狩りのはびこる危険地帯かと見当付ける。今は大人しいのも、あくまで自分が金を払って止めているだけだ。そうでなければサーカス団の周りには今も彼らが蔓延り、軽犯罪が繰り返されていた。そしてそれは今後止められたわけではない。
「で?何の用だ。礼儀を通したいならさっさと通せフリージア」
「そっちがその気ならば俺も呼ばれたくない名をお前に使うぞ」
チッ!と直後には舌打ちがエルドから落とされた。王族らしからぬ憎々しげな表情を隠さず露わに顎を上げる。
セドリックはフリージア王国の騎士の仲間だということは想像がついているエルドだが、まさか別国の王族とは思ってもいない。あくまで大商人の一人だ。しかし自分の正体を知っている目の前の男はこの上なく不快に思う。
今も過去を脅しに掲げる男に、自分のことは棚に上げて苛立つ。組んだ上の足先を揺らしながらセドリックを睨み付けた。
憎々しげな表情とはいえエルドが口を止めたことで、セドリックも一呼吸分会話を止めた。彼を前にするとつい喧嘩腰になってしまう自分を自覚しつつ、もう一度本題へと試みる。
「……まず、チケットは無事行き渡らせてくれたようだな。そこは感謝しよう」
「別に信用してやったわけじゃない。ウチじゃ手に入った以上は有効活用と決まってる。お前に従ってやったと思うなよ?」
「貴様がそんな殊勝なものか」
喧嘩口調に喧嘩腰で返す。セドリックとエルドとの会話はもう初めてではないジェイルとマートだが、やはりまだ慣れない。相も変わらずの言葉の掴み合いだ。
実際は無償でサーカスのチケットを提供したセドリックへ礼があっても良いくらいなのに、互いに全くその気配を見せない。むしろ当時セドリックがチケットの束を出した時のエルの顔の歪みようを思い出せば、屈辱ですらあったのだろうと騎士二人は思う。自分達が知る身近な王族は全員人格者だが、エルドは違う。彼にとっては見下した相手に施しを受けたような感覚だったのだろうと考える。
「なんのつもりだ?」「偽善か?」と平坦な声でチケットを見下ろしたエルドに、セドリックが告げた言葉を騎士達もよく覚えている。
『少しは労ってやることも、統率者と名乗るならば必要なことではないのか』
あれは間違いない挑戦状に近かったと、マートとジェイルは思う。
結果、本当に貧困街の女子どもを中心にサーカスの前売り券が配られたが、それがエルドの首領としての懐の深さかそれともセドリックへの言葉に乗せられただけかは考えものだと二人は思う。それまではチケットを手に取ろうともしなかった男だ。
そして先ほどの女性の言葉から考えても「自己責任」と首領が発言して相手の罠の可能性も理解した上で大した注意喚起もせずに配ったのは、むしろどうかと自分達が思う。今回はセドリックだから良かったが、貧困街のことをよく思わない者からの罠という可能性も充分にあり得る。
力のない女子どもを本拠地から誘い出し、一網打尽にする。奴隷狩りが横行するこの地では充分考えられる手法だ。彼がセドリックを良く思っていないことから考えても、信用できない相手からの誘いによく乗る気になったものだと関心よりも呆れが強い。
既に祖国で大罪を犯しているエルドを、騎士二人は懐疑的な目でしか見れない。しかも今は犯罪集団の首領だ。
「要件が終わったならさっさと出て行け。恩着せがましい」
「もう一つ。脱したサーカス団員達には、もう関わることはないのだろうな?」
「アンガス達か。ああ、あいつらはな。お前らと違って礼儀をわかっている奴らだったな」
元気か?と、そこで軽い投げ掛けと共に頬杖を付いたエルドは口角を上げた。悪い笑みにもただ笑みをくれているようにも見える口元に、セドリックも狭めた眉間を緩めない。
貧困街に昨日まで身を寄せていた元サーカス団員は無事ケルメシアナサーカスに昨日から復帰している。彼らからは何も語られなかったが、一度懐にいれた人間の脱退を貧困街が安易に許すのかがセドリックには気にかかった。そういう組織に一度入れば、脱退すると共に見返りを求めるか始末という手段を選ぶ組織も裏家業では珍しくない。
今後またこの地にケルメシアナサーカスが訪れる度に、貧困街に関わった過去を明かさないのと引き換えに金銭を要求することだって難しくない。実態がどうであれ、この街では犯罪組織という認識は民全員のものだ。昨日の夕食会でもサーカス団に戻れたことを心から喜んでいる様子だった彼らが、そういった脅迫の標的にされて欲しくない。
じっと炎の眼差しを揺らしながら腹の奥を見定めようとするセドリックに、その疑念の意志だけを受け取ったエルドはフンと鼻を鳴らしてから足を組み直した。
「裏切り者でもない奴らを追いかける方針はねぇ。……基本はな」
「その〝裏切り〟の定義はなんだ」
貧困街から脱することも組織の裏切りと数えることはできる。
遠回しに言うエルドに、上手く躱させはしないとセドリックも言及を強めた。基本という言い回しも引っかかる。
ここでの口約束が意味を成すとは思っていないが、それでも首領本人の口から確認しないと納得いかない。もう、サーカス団に戻った彼らは団長のいるそこで安心しきっているのだから。彼らの今後の生活を脅かさせたくはなかった。
無駄に覇気を放ち言葉の端を掴むセドリックに、エルドは馬鹿にするように溜息を吐く。しつこい、という言葉がよぎりながらも向こうが自分達を驚異と見なしている様子に少しだけ気分が良くなった。報復を恐れている相手にこのまま不安を煽ってやりたくもなったが、これ以上無駄話の時間を長引かせたくもない。
「資金や食料の持ち逃げ、貧困街や仲間を売る見捨てる脅迫する襲う殺す。喧嘩は別だな。あとは貧困街やその情報を売る、……くらいか?どれも連中はしていない」
安心したなら出てけ、と。視線を斜め上に浮かべながら指折り数えたエルドはその手でパタパタとセドリックへ手を払った。
どうやら本人の主張では本当にもう元サーカス団に関わる気はないらしいと判断できたセドリックも、気付かれないように息を吐く。これで残す聞き取り調査に戻れると考え、そこで一言返した。踵を返し、騎士達と共にテントの外へ向かう。
「今日も長居はさせてもらうぞ。まだサーカス以外にも聞き回りたいことが増えた」
「好きにしろ。無法地帯に戻るまではな」
あくまで大人しくしてやるのは金で約束した期間のみ。
それをわざと強調するように言い放つエルドに、セドリックも振り返らない。彼がそういう人間なのはわかりきっている。
何も言い返さないセドリックを冷めた目でエルドも眺めるだけだが、そこで初めて傍に立っていた女性が一歩前のめった。
「な……何を聞き回るつもりよ?」
セドリックと会話もしたくないエルドと違い、同じ貧困街の幹部として彼女にはまだ不安が残った。もともとサーカスのことを知れれば良かった筈の相手が、まだ入り浸る理由を作ったことに他の目論見があるのではないかと疑う。元サーカス団員がサーカスに戻り、もう部外者も入ってこないと安心していた彼女にはとても落ち着けることではなかった。
張りつめた女性の声に、セドリックも一度足を止める。首だけで振り返り、自身の潔白を示すべく口を動かした。
「フリージア人の奴隷や元奴隷についての情報だ」
直後、形相を変えたエルド達に声を揃え「出ていけ!!」と怒鳴られた。
目を丸くしたセドリックも、流石に虚をつかれ剣をぶん投げられた後もすぐには言葉が出なかった。