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「俺が身勝手なのは、お前がよく知っているだろう?」
精悍な顔が子供のようにくしゃりと笑う。
そんな顔が愛しくて、胸が苦しくなる。
不安さえ押し流されるほど、幸せな気持ちになる。
この人は、いとも簡単にわたくしを、いいように丸め込んでしまうのだわ。
突然の変化も、不安も戸惑いも全部もうどうでもいいとさえ思えるほどに、ただ愛しさが胸いっぱいに溢れる。現状に流されて、今目の前の幸せを得ればいいと思えてしまう。
笑った顔に手を伸ばせば、そのまま国王からすり寄せるように頬に押しつけられる。ざらりと手の平全体に触れる無精髭のある頬の感触が心地よく思えた。
「存じております」
そう答えると、甘えるように手の平に頬を何度もすり寄せ、国王の細められた眼がクリシュナを見つめてくる。
「それでも俺が好きか?」
「そんな陛下が、好きです」
「そうか」
国王が笑った。その顔が思いがけず嬉しげで、ドキリとする。
かぁぁぁっと、顔に血が上るのを感じた。
心も、頭の中も、何もかもが理解できないほどいっぱいいっぱいだった。今、クリシュナが何とか自覚できているのは、国王への想いと、国王が今自分を求めてくれている、という事だけだ。
「へ、陛下は……?」
クリシュナは激しく打つ動悸を感じながら国王を見る。
「何だ?」
「陛下は、わたくしの事、その……」
「クリシュナ」
恥じらって言葉を続けられない彼女の言葉を遮るように、国王が名を呼ぶ。
「はい……」
国王は何かを言いかけていたが、突然口をつぐんだ。そして立ち止まると探るように辺りを見渡し、壁の一部に背中をもたせかける。すると薄暗い通路の壁の一部はゆっくりと切り取られたように動き、そこから光が差し込んできた。
隠し通路から、目的の部屋に出たのだろう。
クリシュナは、自分が今どこにいるのか皆目見当もつかず、国王の腕の中で、まぶしさに眼を細めながら、きょろきょろと辺りを見渡す。
初めて目にする部屋だが、落ち着いて上質な家具で取りそろえられた室内に、大きく美しい装飾を施されたな寝台があるのを見つけ、ここは国王の寝室なのではないかと想像する。
驚きで緊張する間もなく、そのままベッドまで連れられ、ゆっくりと下ろされた。
横たえられた体の上に国王が被さるようにして見下ろしてくる。
「愛している」
「え」
ベッドに押し倒され、真剣な瞳で見下ろされれている状況での囁きに、クリシュナは動揺する。
「俺がお前をどう思っているかだろう?」
先ほどの問いかけのこたえ。国王は話を逸らしたわけでも、誤魔化したわけでもなかったのだ。
「お前が、俺の唯一人愛した女だ」
静かに囁かれた言葉は、歓喜と共に、そんなわけがないと不安が頭をもたげさせる。
「うそ、です。だって、王妃、様、が……」
動揺と不安に声を詰まらせると、国王が首を横に振り、苦く呟いた。
「……あれは、確かに俺にとって大切な存在だった。人として、王妃としては愛していた。……だが、女としては愛せなかった。あれの思いには応えることが出来なかった。なのに俺は自分の子供と大して変わらない年のお前に惹かれていた。……お前だけだ……」
苦しげに響く声が、クリシュナの胸に突き刺さる。
もしかしたら、この人は王妃を愛せなかったことに、ずっと苦しんできたのだろうか。国王は、王妃を愛したかったのだろうか。
……でも、愛せなかった?
二人の並んだ姿を思い出すと、その想像はとても切なく思えた。互いに大切に、愛し合っていたと思っていたから、尚更に。
なのに。
クリシュナは亡くなった王妃を思う反面、込み上げる感情に後ろめたさを覚える。
嬉しいと、思って良いのだろうか。ずっと王妃に勝つことなど出来ないと思っていた。けれどそうではなかった。
苦しさがよぎる国王の告白を、嬉しいなどと思う自分は、心ない人間なのだろうか。王妃の思いも、踏み躙っているのではないだろうか。
けれど、良心の呵責を覚えながらも、国王の表情を見ながら、心に決める。
わたくしは、心ない人間でいい。あなたが王妃様を愛せなかった事に負い目を持っているというのなら、それがわたくしを愛する事で尚のこと重くなるというのなら、わたくしはそれを共に背負う。
「陛下」
クリシュナは腕を伸ばし、その頭を包み込むように絡める。
指に触れる男の髪の感触に、夢ではないのだと現実味を帯びる。
「愛しています。たとえ陛下が王妃様を愛せなかった事が苦しかったとしても、わたくしは、あなたに唯一人愛された女性であると言って下さったことが、嬉しいです」
言い切った瞬間、目が合った国王が優しく微笑んだ。少し悲しげな、甘えるような微笑みだった。
「……そうか」
噛み締めるように呟く国王に、「はい」と肯けば、ゆっくりと、けれど縋り付くように抱きしめられる。
大きな体に包み込まれて、安堵と共に、この人の心を少しでも受け止めたいと、背中に自らの腕を伸ばした。
「お前だけだ、クリシュナ……愛している」
「わたくしも」と、囁くと、国王の抱きしめる腕は更に強くなる。陛下、と呼びかけると問いかけるようにのぞき込んでくる瞳と出会う。
「わたくしも、愛しています」
互いの気持ちが重なっていくのを、ようやく感じられた気がした。
何度も互いを呼び合って、何度も気持ちを確かめた。
触れて、抱きしめ合ってその喜びを伝えた。
触れる指先も、漏れる吐息も、触れ合う肌も全てが互いの気持ちを伝え合う手段だった。
クリシュナは望んだ一夜を、これから続く一生分得たのだ。
それからは怒濤の日々が続いた。
クリシュナと伯爵の婚約は正式な発表前であったためにそのまま白紙に戻り、代わりに、国王とクリシュナの婚約が発表された。二人の周りは祝福と反発と両極端な反応が多かったが、大きな問題は起きずにクリシュナは国王の正式な婚約者になった。そして式の準備などいろいろあるために、式を挙げるのは一年後に決まった。
それらの出来事は、わずか一ヶ月の間に行われ、そこに国王の本気と執念が見て取れる。
若い婚約者に骨抜きなのだと影で笑う者もいたが、噂を聞いた国王は「本当の事をいわれたところで、何か問題でもあるか?」と笑っている。
そして国王から以前と変わらない様子でかわいがられているクリシュナであったが、今はもう、それが子供扱いしていると切なくなる事はない。
何もかもが突然の変化で、戸惑う事も少なくはなかったが、それでも何よりも焦がれていた場所に立てたのだから、幸せだった。
隣で地べたに座り込む国王が、立ちすくんでいるクリシュナを見上げて屈託なく笑うと、ぽんぽんと地面を叩いた。
隣に座れと言っているらしい。
それこそが、彼女の望んだ場所だった。
困った様子で国王を見下ろしていたクリシュナだったが、諦めたように微笑む。
なんだかんだと国王の行動に慣らされているクリシュナは、今日はとうとう国王に言いくるめられて、王妃教育から抜け出し、一緒になって城の庭にまで逃げてきていたのだ。
「わたくしまで巻き込まないで下さい」
そう言いながらも、ドレスが汚れるのも気にせずに隣に座るのを見て、国王が破顔した。
「それでこそ俺のお転婆娘だ」
楽しげに国王は小さな肩を抱き寄せてから、被さるようにして口付ける。
同じ隣でも、同じ言葉でも、以前とは違う距離だった。触れていてもあんなに遠く感じた存在が、今はこんなにも近い。
口付けの後、クリシュナはコトンと頭を国王の肩にもたせかける。
何もかもが急激に変わってしまって、まだ夢でも見ているような気持ちになる事もある。
けれど隣にいる国王の存在が、これは現実だと教えてくれる。
自分だけに見せてくれる表情も、優しい言葉も、無骨な手の優しい触れ方も、自分が望んだ幸せ全てが確かにここにあるのだと教えてくれる。
「お前と初めてあったのは、ここだったが……覚えているか?」
えっとクリシュナは驚く。城の庭だとは覚えていたが、正確な場所までは覚えていなかった。
「あの時、お前の警戒心のなさが、懐かしかった。あれからずっと、お前の隣は今も昔も、俺にとって一番居心地の良い場所だ」
「ほんと、ですか?」
懐かしげに語る目が優しくクリシュナに向けられて、国王は小さく肯くとクリシュナの髪を弄ぶように撫でた。
「お前と居ると俺は自由でいられた。お前の居るところが、俺が俺でいられる場所だ」
国王の静かな告白が、クリシュナの胸に染み渡る。自分にだけ見せる顔が誇らしかった。けれど、そんな顔を見せるのは自分が子供故だとずっと思っていた。
違っていたのだ。子供だったからではなかった。
胸に込み上げてきたのは歓喜だった。当時の国王の想いは恋ではなかったかもしれない。けれど、その頃からクリシュナは誰よりも認められていたのだ。
報われた気がした。苦しかった気持ちも悲しかった気持ちも流れて行ってしまうぐらい。それらが涙となって込み上げてきて、すぐ隣の国王の顔が滲んで見える。
「これからもそばにいてくれ」
そう囁いた国王に、クリシュナは言葉にならず、涙を流しながら何度も肯いた。
庭の一角で二人並んで腰を下ろし、出会った場所で寄り添いながら気持ちを確かめる。
ほんの一月前まで、諦めなければならないと思い詰めた事さえ嘘のように、幸せが優しく降り積もっていた。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。