第一章 そこへ行くな
目を覚ましたとき、外はまだ暗かった。
天井の換気口から、一定の間隔で低い音が響いている。
ブーン、ブーン。
この音を聞くと、透はいつも、自分がまだ安全な場所にいるのだと確認する。
壁の向こうには、厚さ数メートルの隔壁がある。
そのさらに向こうには、もう人間が暮らせなくなった世界が広がっている。
少なくとも、そう教えられてきた。
透はベッドから起き上がり、壁に取り付けられた小さな端末を見る。
午前六時三十二分。
居住区の一日は、六時四十五分に始まる。
食事。
仕事。
配給。
帰宅。
決められた時間に、決められた場所へ行く。
それでいい。
透は昔から、そう思っていた。
自分で何かを決めると、いつも不安になる。
間違えたらどうする。
誰かを怒らせたらどうする。
危険な場所へ行ってしまったらどうする。
だから、誰かが「こうすればいい」と言ってくれることに、透は安心していた。
着替えて部屋を出る。
廊下には、すでに何人かの住民がいた。
誰も大きな声では話さない。
この居住区では、それが普通だった。
「おはよう、透」
背後から声がした。
振り返ると、白石恒一が立っていた。
「おはようございます」
「眠れたか?」
「まあ……普通です」
「ならよかった」
恒一はいつものように笑った。
透がこの場所で一番信頼している人だった。
食料が不足したときも、仕事を失ったときも、透が体調を崩したときも、恒一はいつもそばにいた。
何をすればいいのか分からないときは、いつも恒一が教えてくれた。
「今日の仕事、昨日と同じですか?」
「そうだ」
恒一は少し考えてから言った。
「それと、今日は南区には行くな」
「南区?」
「ああ」
「何かあるんですか?」
「昨日、設備の故障があったらしい。まだ修理が終わっていない」
「そうなんですね」
透は、それ以上聞かなかった。
「分かりました」
「それでいい」
恒一は透の肩を軽く叩いた。
「余計なことに首を突っ込まないほうがいい。ここで普通に暮らしていれば、それで十分だ」
「……はい」
その言葉に、透は安心した。
何も考えなくていい。
誰かが危険を避けてくれる。
それなら、それでいい。
そう思っていた。
昼休みまでは、何も起こらなかった。
午後になって、透は資材倉庫で一つの箱を見つけた。
棚の奥に置かれた、小さな金属製のコンテナだった。
表面には古い管理番号が貼られている。
透は端末をかざした。
表示された文字を見て、手が止まった。
――配送先:南区第七居住棟。
南区。
今朝、恒一から「行くな」と言われた場所だった。
透はもう一度、画面を確認した。
配送日時は、昨日。
だが、南区第七居住棟は三年前に閉鎖されたはずだった。
「……なんで?」
小さく呟いた。
その瞬間、背後で足音がした。
透は反射的に振り返った。
誰もいない。
ただ、遠くの廊下で扉が閉まる音だけが聞こえた。
透はしばらく箱を見つめていた。
開けるべきか。
誰かに報告するべきか。
それとも、見なかったことにするべきか。
いつもの透なら、迷わず誰かに聞いていた。
けれど、そのときだけは違った。
端末を持つ手が、わずかに震えた。
そして、画面にもう一度目を落とした。
――配送先:南区第七居住棟。
閉鎖されたはずの場所へ。
昨日、物資が送られていた。
透は箱から手を離した。
「……恒一さんに聞こう」
そう呟いて、倉庫を出た。
まだ、何も知らなかった。
ただ一つ。
その日から、透が信じていた世界には、少しずつ小さな亀裂が入っていった。




