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6.能動は慣性を伴い往く


6.能動は慣性を伴い往く。


九月も過ぎて、今や十月の木枯らしが吹く。

例え巷でどんな騒動が起ころうとも、儚くも時は流れゆく物。



庭師父子の衝突に、あまりにも寒いこの風に。

窓を引っ掻き、耳を劈くあの枝に。


それら些細な事象の重なりで、この私の器量は溢れかえり、心は乱され…。

今や、全てを投げ出し、寝台の上で縮こまりたくなる…。



幾ら厚い布団の中で、眠れぬ日々を過ごせども、目下の問題は、目下の問題である。


命を脅かすほどの事柄では無けれども、煩わしいのならば切り落としてしまいたい…。



…そんなことを切望するのも、私の業であると言えるかもしれない。



睡眠不足の私はただ一人、静寂の中でそう考えるが…ふと床材の軋みの音が私を現実へ呼び戻す。



恐らく…いや、確実にピシカであろう。

今日もあの銀色のトレイに載せた、朝食を運んで来たのだろうか…。


「旦那様。…御朝食をお持ち致しました。」


そんな掛け声と共に、銀色のトレイを持ったピシカは現れた…。



……両手が塞がっているからか、あの心地よいノックの音は聞こえなかったが。それでも、この声に、一瞬だけ肩の力が抜けるのを感じていた。



朝食の内容は恐らく豪華だ。

しかし、今朝は酷く吐き気がする。

果物を甘く煮込んだ物、白い小麦のパンに熟成チーズ。


何故だか…目前に並べられたそれらの、匂いや味を想像することが出来ずに、ただ胸が焼けて、

酷く無色無地の静物に見えた。




「……旦那様?…御気分でも優れないのでしょうか。」

カトラリーをいつも通り、寸分違わずに並べ終わったピシカはそう言う。



気分は全くもって正常だ。

身体は相変わらず重いが、動かせない程ではない。


しかし、私は体を動かしたく無いのか、動かさないのか。


運動を始める為の意義が無い。

考え直しても、やはり見当たらない。


「ただ…食欲が湧かないだけだろうから…これらは下げてしまって構わない…。」私は当て付けもなく、天井を眺めて寝台に倒れながらそう言った。


「…わかりました、よろしければ、御食事をお下げ致します。」


…そうは言っても、何故だか、未練があった。

それが食事に対してなのか、ピシカに対してなのか…。

……わからないが、私は気が付くと、トレイを持って部屋を去ろうとするピシカを呼び止めていた…。


どんな言葉を使って呼び止めたのかすら、わからない……。


…ピシカは何か言いかけたようだったが、結局何も言わず、この部屋に留まり、花瓶に水をやり、暖炉の白くなった灰をかき混ぜ、整えている。



人が居ない間はまだ気が抜けるが、私も貴族のミハイを演じることにすっかり慣れてしまっていた。

人の視線がある間は、まるで劇場の名演者のように、自分はミハイとして振る舞えるのだ。



それに他者に本性を見せるなんて、ありえない。

人の本性を悪意と仮定するなら、

それはきっと、自分から腹を裂いて獣の潜む檻に入るようなものだ。


疲労と寒さで神経がどうにかなってしまったんだ。どうにも調子が乗らない。

なるほど、本調子じゃないんだ、抑圧から解放を求めるのも当然の肉体反応じゃないか。


一つ一つ自分に出来る事をまずこなすべきだったのか?

背負いきれないものを掻き集めて、演じ切れない役割に心を痛めるよりも、まずは実直に行動をするべきだったのだろうか。


……そんな内省を重ねて行動をしない因果を考えるのも、たった今辞めようじゃないか。


私は寝台から身を起こし…、腕や関節を捻って慣らしつつ、毛皮のコートを手に取りピシカに、こう告げる。


「私は庭へ出るぞ。」

私は不遜にもそう軽く告げると、


ピシカはその顔色を崩さず、すぐに頷いてみせて、こう言った。


「…かしこまりした、お供いたします。」


しかし、私には思慮の伴わない魂胆があった。


「ありがとう。しかし、庭へは一人で行く。付き添いは必要ない。」


ピシカの表情には…珍しく硬直が見られる…。

少し怪訝そうにもみえる。


人を引き止めておいて、

我ながら身勝手な事を言うものだ。

なんて奴だろうか。


しかし、人格の変化とは痛みを伴うものだ。

図々しい子供は、目を覆いたくなる失態や、遅効性の恥や鈍痛から教訓を学ぶ物じゃないか。


「…旦那様お一人で向かわれるのですか…?」


「…そのつもりだ。いや、なに、少し食欲を取り戻すために軽く歩くだけさ…。

その食事は、帰ってきてから食べるつもりだから、そこに置いておいてくれ。」


「畏まりました。…今朝の風は一段と強くなっておりますので、毛皮のコートとフェルトの帽子をお忘れのないよう願います。」


私は手に持っていたコートを羽織り、掛けてあるフェルトの帽子を被り。

チュズメと呼ばれる牛皮のブーツに毛皮の裏地のついたものに履き替え、気を引き締めて襟を正す。


…不安感はどうにも拭えない。


何しろ…私は幽閉の身であり…。なにか、どうにも、この屋敷から逃げ出そうとしてるだとか、誤解されて始末される可能性だってあり得る話だ。


……だが、何時までも行動を恐れている場合じゃない。

ヨーゼフは今この瞬間にも、ケルテースに追い掛け回されているかもしれないし…。


この前庭で見かけて気になった…、あの生垣の白い小さな花の名前なんかを、ケルテースに尋ねなくては事が始まらない。


「では、君も自由に過ごしてくれ。」

私はそう言い、重厚な古びた木の扉を押し開ける…息を吸う。


すると何故だか、しかめっ面の庭師、ケルテースがまるで立ちはだかる様に…背筋を伸ばして目前に居た。


私は…私は声こそを上げなかったものの、酷く滑稽に狼狽えて、腰を抜かしてしまった……。


「……すみませんな、旦那。ノックをする間もなくドアが開きやがったもんですからな…。」


「いや、大丈夫だ…。いや、少し驚いただけだ。」


庭師ケルテースは、狼狽える私に手を差し出してくれた…。


そのケルテースの掌は、柔らかいようで硬く。

枯れ木の枝のような老年の腕と手であるが。

何処か生命力に満ちていて、血も躍動するかの様な太い血管も見える……。


…さぞやこの手で庭師の莫大な仕事量を押し返して来たに違いない。

職人の腕と呼べるだろう。


「…旦那。無事に立ち上がられたってんなら。そろそろこの腕を離して貰いてぇものですな。」


「あぁ…これまた、すまないな。

…しかし、どうして君がここに居るんだ…?」

庭師が主人の寝室に訪れる用事なんて、きっと思いもよらない物事だろう。


「用があるのは旦那じゃなくて、奥にいる女中の方に詰まらねぇ話があるんですよ。」


「…ピシカに?それは一体何事なんだ?」


退屈そうな表情を終始変えずに、庭師のケルテースは肩を竦めて、乾いた苦笑をする。


「そりゃ、余計な厄介ごとばっかり増やしやがるのが仕事の愚息めが、切った菩提樹の件ですがね。…新しい苗木を買い足す資金でもと思った所用でございますよ。」


「…それは庭園の維持費からは引けないのですか?」

ピシカは冷たく理知的な声色を響かせた。



「……無茶を言われちゃあ困るってんだ。

バカ息子は余計な物ばっか買い付けやがるし、あんな低額じゃ庭の維持費で手一杯ってもんだ。」


家計や帳簿はピシカが付けている。

…そりゃ、気狂い公なんて呼ばれてる人間に帳簿を弄らせるなんて馬鹿げた事だが、どうにも歯がゆい。


「…高価なだけで身の丈に合わない調度品なんて物を売り払ってしまって、その金で苗木を買うっていうのは…どうだ?」


思いもよらなかった相手による、予想外の提案にさぞや驚いた事だろうか…?


至って深刻そのものである、黄金が絡む話は一糸を切るように途絶え…辺りは静けさを取り戻し、

ケルテースが一歩後ろに右足を下げて、床材を軋ませる音だけが響く…。


ケルテースは片方の口角を少し上げて、小さく乾いた笑みを見せたが…、恐らくそれは嘲笑ゆえの笑みではなかったであろう。


私はそう感じとるが、依然として空気は冷たく張り詰めている……。


当惑しきったピシカは長いスカートの裾を揺らして、こう言った。

「…本心で仰っているのですか?」


「そのつもりだ。」

私は内心苦しみながらも、そう繕った。



「…旦那はこう仰っていますがね、主人の判断にアンタはどう従うんだかな。」


ケルテースは再び視線をピシカに揺り戻す。



「…物事はそう簡単にたった一つの思慮で収まるほどに単純な物では無いのです。」


今のピシカには平時の無害な女中らしさはない。

決して欠陥を許さない徴税官でもあり、飼い慣らされた肉食獣としての猫科の血だ。


しかし…それも忠誠や献身といった善意が為に執り行われるものだろう。


家計簿は私情や一時の感情などで揺るぐべきではない。ピシカの心労を増やすべきではない。


しかし今この瞬間、私は私情という意志を抱いている。それが愚かにも誇らしい。



「君の心労も理解できるさ、この提案は完全なる私のエゴだ。

正直、後の展望だってわからないさ。

資金を密かに貯めて何かを企てていると、憎むべき我が弟領主はそう疑るかもしれない。

…だが、私がそうしたいんだ。

どうせ…私はここで枯れ果てるまで押し込められる訳だし、結局の所なにも変わりはしないさ。」


図々しくも本心からそう言った。

胸は痛いし、肺はやや苦しいが、生きている実感がある、痛快と呼ぶべきか。



ピシカは怪訝そうに目を細め、頬に手をやり、顔を俯かせ、半歩後ろへ下がる。



少し本心というものを発し過ぎたかもしれない。


女中に主人の極めて個人的な心中なんぞを喚いて何になるって言うんだ?


『善性は無知に宿る』と何処かで読んだ言葉が俺の人生に於ける指針じゃなかったのか?


居心地悪く、頻りに首元を触り、身を翻してみる静寂の中、床材が再び滑稽に鳴く。

それを皮切りにケルテースが口を開く。


「いんや、気分が変わりましたよ。」


…何故だか機嫌が良さそうで、口角を少し上げながら、場の空気を一変させるかの様にしてこう言った。


「最初こそは何がどう転ぼうが、絶対に高けぇ菩提樹の苗木でも買わせるつもりでしたがね。

旦那…アンタのおっしゃる言い分は実に庶民的で面白いもんですよ。」



「幸い、まだダメになってねぇ部分がありますから。そこを切っちまって、水に浸けて窓辺に置いときゃあ差し木には出来るってもんです。

…伝統が崩れるってのはバカげた話だが、思ったほど悪かねぇ話かもしれませんからな。」




「差し木か…なるほど…。

しかし…、本当にそれでいいのか?何かあの木に拘りがあったんじゃないのか?」



「また馬鹿げたことを言うもんですな。あの木に執着していたのは旦那の方でしょうに。」



「……そうだったか?…まぁ、嫌いじゃないがな。」


こうしてみると…思わぬ展開になって来たものだ。確かに差し木なら私の調度品を不必要に売らずに済むし、必要以上に金もかからない。一番穏便なんじゃないか?




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