最終章 「残る音」
床を、拭いている。
一定のリズム。
ゆっくりと。
翔は、手を動かしていた。
新しい家。
静かだ。
整っている。
余計な音は、ほとんどない。
昔とは、違う。
でも——
悪くない。
手を止める。
少しだけ、腰を伸ばす。
窓の外では、夕方の光が少しだけ傾いている。
どこかの家から、ラジオの音が流れてくる。
少し古い音質。
ノイズが混じる。
懐かしい声。
『——それでは、次の曲です』
流れてくるのは、あの頃よく聞いた歌。
商店街の店先。
夕方の台所。
坂の下のあの場所。
いつも、どこかで鳴っていた音。
そのとき——
ふと、重なる。
別の音が。
耳の奥で。
ガン、という金属音。
機械のリズム。
誰かの笑い声。
怒鳴る声。
呼ぶ声。
全部が、混ざっている。
あの路地の音。
雑で、うるさくて、
でも——確かに生きていた音。
翔は、動かない。
目を閉じる。
逃さないように。
その中に——
はっきりと、聞こえる。
フミの声。
「ほら、手ぇ止めてんじゃないよ」
あの調子。
少し強くて、でもどこか笑っている声。
「仕事はな、音で覚えろって言ったろ」
ガン、ガン、と機械を叩く音が重なる。
「リズム外したら、全部崩れんだからさ」
笑い声が混じる。
誰かが返す。
またフミが言う。
「いいかい、こういう場所はね——」
一瞬、間があって。
「うるさいくらいが、ちょうどいいんだよ」
はっきりと。
いつもの調子で。
その声が——
胸の奥に、まっすぐ入る。
懐かしい。
痛いくらいに。
でも——温かい。
翔は、少しだけ口元を緩める。
ほんのわずかに。
笑う。
その音は、しばらく続く。
消えそうで、消えない。
遠くで、ラジオの歌が重なる。
昭和の声。
どこかで、まだ流れている。
この町じゃなくても。
どこかで、誰かが聴いている。
やがて——
音は、ゆっくりと遠ざかる。
静かになる。
新しい家の、静かな空気だけが残る。
もう、あの場所はない。
戻らない。
どこにも、存在しない。
それでも——
翔は、もう一度、床に手をつく。
布を持つ。
ゆっくりと、拭き始める。
一定のリズムで。
さっきより、ほんの少しだけ——
迷いのない動きで。




