第四章 八月上旬~九月中旬 39
39
九月も半ば、暑さはなかなか去ってくれないが、春夫の頭の中から明美の子守り役という言葉は、どんどん離れつつあった。相変わらず営業部の飲み会などではいじられたりするものの明美の仕事ぶりが、営業部員としてすっかり安定した感があったからだ。
ところが、「子守り役」が、また近づいて来そうな気配に陥ったのである。
その日、春夫は、会社からの帰り、たまたま駅までの道のりで業務の貫井夏子と一緒になった。
「あのさ、佐伯さん、西野さんから何か聞いてない?」
肩を並べて歩く夏子が、突然、問いかけて来たのだ。
「特別なことは、何も」
「九月になってから、ヒロタさんという人から幾度か電話がかかって来たのよね。それがさあ、お仲間さんの感じだったのよ」
彼女が言うお仲間さんとは、ニューハーフの意味に違いなかった。口調は、女性だが、声質は、男性。親しい間柄だったら、本人の携帯にかけて来るはずである。けれど、明美の転職先を知っていて会社までかけて来る。
「どんな関係の人だろう?」
「私、ちょっと心配してるのよね」
夏子は、沈んだ声で言った。
「何で、ですか?」
「明美ちゃんに言わなくていいからね」
「言いませんよ」
「うん。明美ちゃんが働いていたニューハーフのお店って凄くショーに力を入れてる所って聞いてる?」
「聞いたかなあ、センターで踊っていたったって言うのは知ってますよ」
夏子が、どこまで知っているのか、匙加減が難しい。明美は、ラウンジスリーの名前までは女子会のメンバーには教えていない。春夫は、そう思っている。
「私がちょっと心配しているのは、ヒロタって人が店のママさんじゃないかってこと。お店のショーには、やっぱり、明美ちゃんが必要と思って連れ戻そうとしているんじゃないかなあ。塚田社長経由で明美ちゃんに取り次いだことも一度あったけど、社長に明美ちゃんを返して欲しいって頼み込んだ可能性も考えられるのよね」
「考え過ぎじゃないですか。戻ることはないと思いますよ」
「根拠は?子守りとしての勘とか」
「西野さん、営業に生きがい感じてますもの。フェルシアーノのコーナーゲットもトップだし」
「だけど、女子会で刈谷係長が、スポットライト浴びて踊ったり歌ったりするのって気持ちよくない?って、聞いたら、陶酔感に浸ることもありますよっていう答えだった。業務の仕事をしていても、外回りのお仕事に高揚感があるのは理解出来なくはないけど、お客さんの前でスポットライトを浴びる高揚感は、ずっと上だと思うのよね。気になる」
気になる、に対する強く早い口調が、辞められるのは嫌だ、という夏子の気持ちを表しているように春夫には感じられた。
「貫井さん、西野さんの初出社の日の自己紹介覚えています?」
「えっ、西野明美です。よろしくお願いします、でしょ?」
「いろいろあって、普通のOLやりたくなりました、って言ったんですよ。いろいろあっては、お店でいろいろあって、だと僕は思っています。一度だけ聞いた時、本人、黙っていたんで、二度とは聞いていませんけど」
「つまり、いろいろあったお店に幾らスポットライトが恋しくなったからって戻らないだろう、というのが子守りの佐伯さんの見解なわけだ」
「ええ、現在の営業の仕事に対する西野さんの満足度、プラスいろいろあった過去の出来事。大丈夫でしょう」
春夫は、自信たっぷりに答えたのだった。
両親が、昼間の会社に息子が転職して喜んでいたことやアネキの結婚についての話を付け加えれば、夏子はより安心するだろうが、明美の個人情報をそこまで明らかにするのに抵抗を覚えて触れなかった。




