隠すための授業
午後の空気は、朝と少し違った。
明るい。
けれど軽くはない。
屋敷の中はいつも通り動いている。
厨房では夕方の仕込みが始まっているし、廊下には使用人の足音がある。
ミリアの笑い声も、遠くで一度聞こえた。
なのに、家の中心に薄い膜が一枚張ったみたいだった。
王都から使いが来たせいだ。
俺は部屋で灰色の本を開いたまま、三ページ目から先へ進めずにいた。
『初級魔術理論・導入』
文字は読める。
内容も、昨日までなら面白かったはずだ。
でも今日は駄目だ。
王都。
検分。
早すぎる。
観察対象。
最後の視線。
頭の中で、その言葉だけがぐるぐるしている。
「……よくこんなんで読めって言えるよな」
小さく呟く。
返事はない。
いや、本当はある。
たぶん、先生ならこう言う。
“こういう時ほど、読むの”
午前中、たしかにそう言われた。
その時は強いなあと思った。
今も思う。
でも、それと素直にページが頭へ入るかは別問題だ。
本を閉じる。
駄目だ。
進まない。
窓の外へ目をやる。
中庭には誰もいない。
朝の稽古が終わった時間だから当然だ。
石畳は午後の光を受けて白く見える。
風は弱い。
枝先が少し揺れるだけだ。
風。
朝は確かに通った。
紙の端が動いた。
ミリアの髪も揺れた。
あれは本物だった。
でも、あれを誰にも見せるなと言われると、急に別のものに見えてくる。
ただの魔術じゃないみたいに。
俺の中だけの、ちょっと面倒な何かみたいに。
「レオンさま」
扉の外から声がした。
クララ・ヴァイスだ。
「はい」
「フローレンスさまがお待ちです」
「……今行く」
「お顔」
「分かってる」
「本日は特にですね」
「そこまで?」
「かなり」
便利な言葉だな、本当に。
本を閉じて立ち上がる。
机へ置く。
そのまま部屋を出ようとして、ふと止まった。
本当は持っていきたかった。
でも、持っていかないほうがいい気がした。
先生はたぶん、最初にそこを見る。
“逃げ道にしない”とか言いそうだ。
だから置いていく。
クララ・ヴァイスは扉の外で俺を待っていた。
いつも通り、背筋が真っ直ぐだ。
今日だけ特別に表情を変えることもない。
その平常が少しありがたい。
「先生、どこに?」
「書庫です」
「……静かなところ選んだな」
「静かなほうが、逃げられませんので」
「その言い方、ほんとに侍女か?」
「使用人ですので」
「最近それ、だいぶ万能だな」
廊下を歩く。
屋敷の昼は、朝より少し音が広い。
誰かの話し声。
食器を運ぶ音。
遠くで窓が閉まる音。
でも俺の頭にはそれがあまり入ってこない。
書庫。
先生。
二人きり。
前世の俺なら、こういう“二人きりで話す”はかなり苦手な部類だった。
相手が先生ならなおさらだ。
何を見られる。
どこまで分かる。
何を言わなきゃいけない。
でも今の俺は、ただ怖いだけでは終わらない。
むしろ気になる。
そこが一番ややこしい。
書庫の前で、クララ・ヴァイスが扉を開けた。
「どうぞ」
「中まで来ない?」
「来てほしいのですか」
「……いや」
「でしたら、失礼いたします」
きっぱりしてるな。
扉の向こうには、やっぱり紙と革の匂いがあった。
落ち着く。
少しだけ。
フローレンス先生は、長机の向こうに座っていた。
灰色の本が数冊。
青い冊子。
白紙の紙。
細いペン。
その全部がきっちり並んでいる。
「遅くはないわね」
と、先生。
「かなり急いだ」
と、俺。
「その返しは好きじゃない」
「え」
「かなり、は便利すぎる」
「うわ」
「誰の真似?」
「家族全員」
「悪い家ね」
「でもちょっと楽しい」
「でしょうね」
先生は本を一冊閉じた。
その音が、妙に静かだった。
「座って」
「はい」
俺は向かいへ座る。
机を挟んで先生と二人。
近い。
やっぱり少し緊張する。
少し、いや、かなりか。
「まず確認」
と、先生。
「はい」
「王都の件で、頭の中はいま何割持っていかれてる?」
「え」
「数字で答えなさい」
「数字」
「そう」
うーん、と少し考える。
「六」
「低いわね」
「ほんと?」
「朝から顔はもっと重かった」
「いまは先生がいるから」
「何、その理由」
「先生に聞けば、少しは形になるかもしれない」
「……なるほど」
先生が少しだけ目を細める。
笑ってるのか、見てるのか、ちょっと分かりづらい。
「その考え方は嫌いじゃない」
「かなり?」
「六くらい」
「細かいな」
先生はペンを指で転がした。
「じゃあ、残り四は何」
「授業」
「魔術?」
「それも」
「他は?」
「俺のことを先生が何て見るか」
「おや」
「“おや”って顔やめてくれ」
「どんな顔?」
「ちょっと面白がってる」
「ええ。少し」
そこは認めるのか。
先生はそこで、急に真面目な声になった。
「レオン」
「はい」
「今日は二つ教える」
「二つ」
「伸ばすことと、隠すこと」
「……隠す」
「ええ」
「魔術を?」
「それも」
「他は?」
「顔」
うわ。
思わず口元を押さえたくなった。
でも、それをやると余計に図星みたいで嫌だ。
「そんなに出てる?」
「出てるわ」
「全部?」
「全部ではない」
「よかった」
「でも、大事なところが一番出る」
「それ、よくないな」
「今まではね」
「今までは?」
「家族の中ならいい」
「……あ」
「でも王都では違う」
そこへ来るのか。
書庫の空気が少し冷えた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、先生の声の温度は確かに下がった。
「あなたは、感じたことが先に顔へ行く」
と、先生。
「うん」
「嫌なことはすぐ引く」
「……うん」
「気になることは目が動く」
「うん」
「嬉しいと少し前へ出る」
「……それも」
「それが悪いわけじゃない」
「じゃあ何」
「外では、読まれる」
読まれる。
その言い方は、少し嫌だった。
でも分かる。
午前の使いの男も、最後に俺を見た。
確認された感じがした。
たぶん先生は、あれを言っている。
「じゃあ、どうすればいい」
「まず、自分で気づく」
「難しいな」
「難しいわ」
「そんな即答で」
「簡単だなんて言わない」
先生は立ち上がった。
「立って」
「え」
「顔からやる」
「顔から?」
「そう。魔術の前に、今日はそこ」
うわ。
今日の授業、本当に変な方向から入るな。
でも言われた通りに立つ。
先生も立つ。
書庫の窓から入る光が、机の端を白くしていた。
「今から質問する」
「うん」
「返事」
「……はい」
「質問された瞬間の顔を止める」
「無茶言うな」
「やるの」
「はい」
先生は一歩だけ引いた。
距離を取る。
俺を見る。
「レオン」
「はい」
「王都、行きたい?」
「え」
きた。
心臓が先に鳴る。
その次に、“違う、顔”と思った。
遅い。
絶対もう出てる。
先生が即言う。
「今の」
「うわ」
「まず驚いた」
「した」
「次に怖いが来た」
「……来た」
「そのあとで、少し楽しみ」
「そこまで!?」
「ええ」
やばい。
本当に全部見えてる。
「もう一回」
と、先生。
「同じ質問」
「意味ある?」
「ある」
先生は同じ声で訊いた。
「王都、行きたい?」
今度は息を一つ入れる。
答えを先に決める。
顔を先に動かさない。
「……少し」
先生が頷く。
「今のはまし」
「ほんと?」
「最初の顔が短かった」
「短かった」
「ええ。消えた」
「消せるんだ」
「少しはね」
それだけで、妙に手応えがある。
魔術じゃない。
でも、できることが増える感じは同じだった。
「次」
と、先生。
「はい」
「父が怖い?」
「え」
「答え」
「……時々」
「時々」
「いや、かなり」
「正直ね」
「今それ隠すの無理だろ」
「そうでもない」
「先生が言うとほんとに嫌だな」
先生は真顔のまま続ける。
「ガレスが怖い時、あなたは先に目を逸らす」
「うわ」
「次から、一拍だけ残しなさい」
「見ろってこと?」
「ええ」
「難しい」
「でも、できます」
「なんで分かる」
「今、もうやったから」
あ。
たしかに。
さっき先生の質問に、二回目は少しだけ残せた。
先生はそこでようやく、椅子へ戻った。
「顔はここまで」
「ここまでなのか」
「初日だから」
「初日?」
「ええ」
「これからもやるの?」
「当然」
うわあ。
でも、それが完全に嫌じゃない自分がいる。
そこが問題だ。
いや、問題じゃないのか。
たぶん今の俺には、こういうのが必要なんだろう。
先生は青い冊子を開いた。
水と風の頁。
その横へ、別の白紙を置く。
「次、隠す」
「魔術?」
「ええ」
「隠すって、出さない?」
「半分」
「残り半分は?」
「出る前の流れを細くする」
「……それ、できるの?」
「だから教えるの」
先生はペンで紙へ簡単な線を引いた。
一本の線。
途中で太くなる。
また細くなる。
「水は出したい時、こう」
「うん」
「いまのあなたは、気持ちが乗ると太くなる」
「分かる気がする」
「分かるなら早い」
「褒めてる?」
「少し」
「先生の“少し”は信用していい?」
「半分は」
そこは崩さないのか。
「隠したい時は逆」
と、先生。
「流れを太くしない。先に形へ行かない。届く前に整える」
「難しいな」
「ええ。かなり」
先生が立ち、今度は自分でやって見せる。
手を上げる。
呼吸。
詠唱はない。
なのに、何も起きない。
「いま、やった?」
と、俺。
「ええ」
「全然分からない」
「そう。それが隠す」
「うわ」
「でも、内側では流れてる」
「確認できないだろ」
「本人は分かる」
「それって、慣れ?」
「かなり」
便利すぎる。
「やってみなさい」
と、先生。
俺は手を開く。
水を出す時の感覚を思い出す。
胸の下。
流す。
手へ。
でも途中で止める。
細くする。
見えなくていい。
一回目。
何も分からない。
「それでいい」
と、先生。
「え」
「今は、出なかったかどうかを外へ探しに行かない」
「……ああ」
「あなた、それをすぐやるでしょう」
「やる」
「だから今日は、外じゃなく内側」
二回目。
少しだけ、胸の奥で流れた感じがある。
でも指先までは来ない。
「どう?」
と、先生。
「分からない」
「それも正しい」
「魔術の授業って、こんなに正解が曖昧でいいの?」
「初歩はね」
「先生、いまの顔ちょっと楽しそう」
「ばれた?」
「かなり」
先生が微かに笑う。
三回目。
今度は、たしかに来た。
手の中まで。
でも出ない。
出さない。
そこに留まる感じ。
不思議だ。
何も起きていないのに、やった感覚だけがある。
「……あ」
「それ」
と、先生。
「分かった?」
「少し」
「どこまで?」
「手前で止めた」
「ええ」
「これ、使うの?」
「使うわ」
「王都で?」
「それもある」
「……ああ」
分かってきた。
先生は魔術そのものだけを教えているんじゃない。
見せること。
見せないこと。
答えること。
答えないこと。
その全部を一緒に教えようとしている。
それが少し怖くて、かなりありがたかった。
「レオン」
と、先生。
「何」
「ひとつ聞く」
「うん」
「あなたは、自分が五歳の子どもだと思ってる?」
「え」
急にそこか。
びっくりして、顔が先に動いた自覚があった。
先生がすぐ言う。
「今の」
「うわ」
「戻す」
「……はい」
息を入れる。
戻す。
でも、質問のほうが頭に残る。
五歳の子どもだと思ってるか。
それは、難しい。
身体はそうだ。
鏡を見れば子どもだ。
息も短い。
手も小さい。
剣も重い。
眠くなるのも早い。
でも中身は違う。
前世の俺が残っている。
母さんの「いってらっしゃい」も、由菜の顔も、死ぬ前の感覚も、ちゃんとある。
「……分からない」
と、俺。
先生は頷いた。
「そう」
「それだけ?」
「いまはそれで十分」
「先生」
「何」
「その質問、ずるい」
「どうして?」
「答えたら、何か決まる気がする」
「決まるわ」
「ほら」
「でも、今はまだ決めなくていい」
その言い方に、少しだけ助かった。
先生は椅子へ深く座り直す。
「私はね」
と、先生。
「あなたの中に、子どもじゃない考え方があると思ってる」
「……うん」
「でも、それを今ここで暴きたいわけじゃない」
「なんで」
「今のあなたに必要なのは、告白じゃないから」
「え」
「技術よ」
「……ああ」
そうか。
そこを先にされると、かなり困る。
前世のことを全部話すなんて、自分でもまだ整理しきれていない。
でも先生はそこを無理に開けようとしていない。
ちょっと、信じてもいいかもしれない。
「ただし」
と、先生。
やっぱり続きがある。
「隠すなら、中途半端はだめ」
「うん」
「黙るなら、黙り切る」
「うん」
「話すなら、自分で選ぶ」
「……うん」
「人に引きずり出されるな」
「それ、かなり難しいな」
「ええ。だから練習する」
先生は白紙を一枚、俺の前へ滑らせた。
「今から質問を書く」
「書く?」
「口で答えない」
「なんで」
「顔が出るから」
「うわ」
たしかに。
先生は短い文を三つ書いた。
一つ目。
好きなもの。
二つ目。
怖いもの。
三つ目。
守りたいもの。
「書いて」
「いま?」
「いま」
「三つも?」
「三つだけ」
「先生、やっぱり容赦ないな」
「教師だから」
「それ本当に便利だな」
ペンを持つ。
手が少し重い。
好きなもの。
これは書ける。
本。
魔術。
兄に追いつくこと。
いや、追いつくことは好きなものか?
違うかもしれない。
でも、やりたいことではある。
怖いもの。
これもすぐ浮かぶ。
置いていかれること。
見抜かれること。
何も言えなくなること。
守りたいもの。
そこで手が止まった。
家。
母。
父。
兄。
ミリア。
前世の記憶。
いろいろ浮かぶ。
でも、何を一つ目に書く。
先生は急かさない。
ただ見ている。
その静けさが、逆にありがたい。
俺はゆっくり書いた。
好きなもの。
魔術。
怖いもの。
何もできないまま止まること。
守りたいもの。
この家で始まった毎日。
書き終えて、少しだけ息を吐く。
先生が紙を受け取った。
読む。
何も言わない。
長い。
「……先生」
「何」
「その沈黙やめてくれ」
「どうして?」
「ちょっと怖い」
「そう」
先生は紙を机へ置いた。
「悪くない」
「ほんとに?」
「ええ」
「かなり?」
「かなり」
それは少しだけ嬉しかった。
「でも」
と、先生。
「やっぱり続くんだな」
「続くわ」
「何」
「“守りたいもの”が、もう少しで弱くなる」
「え」
「王都は、そういう場所よ」
「……うわ」
先生はそこで、初めて少しだけ視線を外した。
窓の外を見る。
書庫の外。
中庭の光。
「だから、その前に強くする」
「何を」
「あなた自身を」
その言葉は、思っていたより静かに入ってきた。
大げさじゃない。
熱くもない。
でも、まっすぐだった。
俺は机の上の紙を見た。
好きなもの。
怖いもの。
守りたいもの。
前世の俺なら、こんなものを書かされたらたぶん嫌になっていた。
自分の中を言葉にするのが苦手だったからだ。
今も得意じゃない。
でも、さっき書いた三行は嘘じゃなかった。
先生が紙を折る。
細く。
二つ折りにして、俺へ返してくる。
「持っていなさい」
「これを?」
「ええ」
「なんで」
「迷った時の顔が出る前に見なさい」
「そんな使い方なの?」
「いま決めた」
「先生、そういうの多くない?」
「多いわ」
そこで、書庫の扉が叩かれた。
三回。
間隔が正確だ。
先生が「入りなさい」と言う。
扉が開いた。
クララ・ヴァイスだった。
「失礼いたします」
「何?」
と、先生。
「ガレスさまより。フローレンスさまへ」
「ええ」
「王都の使いが、もう一つ忘れ物をしたとのことです」
「忘れ物?」
と、俺。
クララ・ヴァイスは俺を見て、それから先生を見る。
「小箱です」
「小箱」
と、先生。
「中身は?」
「まだ」
小箱。
昨日の革箱とは別か?
それともその中身か?
先生が立ち上がる。
その顔が少しだけ硬くなったのが分かった。
「レオン」
「何」
「今日はここまで」
「え」
「続きは夜に考えなさい」
「いや、それ雑に投げるなよ」
「必要なことよ」
「小箱って何」
「行けば分かる」
「うわ、またそれ」
先生は扉のほうへ向かった。
でも、すぐには出ない。
振り返って、俺を見た。
「紙、なくさないで」
「……うん」
「返事」
「はい」
先生が出ていく。
クララ・ヴァイスも続く。
書庫に一人残される。
机。
灰色の本。
折られた紙。
窓の外の光。
そして、小箱。
何だ、それ。
王都から来たものが二通で終わらない。
しかも忘れ物だなんて、そんな都合のいい話があるのか。
あるいは、忘れ物なんかじゃないのか。
俺は折りたたんだ紙を握りしめた。
好きなもの。
怖いもの。
守りたいもの。
その三行が、さっきまでより少しだけ重くなる。
何かが来る。
そんな気がした。
しかも、次は手紙じゃない。




