単片 皇帝の覚醒
あの瞬間まで俺様はこの世に存在していなかった。
けれど、結局のところ岩崎陽奏は死んで、怪人『皇帝』がこの世に誕生した。
岩崎陽奏は存在感が極端に薄い存在だった。いっそ欠落していたと言っても良いだろう。
家族構成は両親と妹と弟。それから猫の「エボシ」。だが家族の中で俺様の存在に気が付いていたのは母さんぐらいではないだろうか?
二階に上がって廊下の突き当りにある自室に誰かがノックをしにきたことは一度だって無かった。飯時だって妹たちからすれば、誰のものかも分からない一人前の食事は気が付いたら片付いていたのだろう。エボシだって餌は虚無から突如発生すると思っていたのではないだろうか?
知らないわけでもない。
見えていないわけではない。
聞こえていないわけではない。
触れていないわけではない。
存在しないわけではない。
そのはずなんだ。……そのはず。
――推測するに、俺様の存在感は家族にとって、遠い親戚ぐらいのものだったのだと思う。頭の片隅に確かに鎮座しているが冠婚葬祭やら特別なタイミングでもないと意識しない。そんな存在。
一度、自分はとっくに死んでいて、そのことにずっと気がついていないだけの幽霊なんじゃないかと思って戸籍謄本を確認したこともあったが、生憎まだ死んでいないらしかった。
学校でもそれは変わらなかった。小中高、クラスメイトからも担任教師からもまったく存在を意識されていなかった。出席は確認されているし、グループ分けのときだってグループに常に所属できていたのだから認識されていないわけではまさかないだろう。俺様は主役はもちろん脇役ですらなかった。情報としてクラス一人にカウントされているけれども、一生語られることのない存在。役無しのブタだ。
「あんた、最近学校はどうなのよ?」
「どうってないよ。いつも通り。空気のように生きてるだけ」
時折、母さんは気がついたかのように俺を買い物に誘う。そこまで大したものじゃない。スーパーとか、たまにショッピングモールに行くとかそんな感じだ。こういうとき決まって、俺様と一対一で出かけるのだ。上手く言い表せないけれど、日常の中で何となく生きてるって実感できる限られた瞬間だった。
この日もそんないつも通りの買い物だった
「はっは―。あんたなら、女風呂に入っても捕まらなさそうね」
「……やめてくれ。こっちは思春期の男子なんだよ。母親とそういう話はあんまりしたくないわけ」
「この前までこんなちっこかったのに」
左手の親指と人差し指で作った豆粒程の空間を示す。
運転に集中してくれ……。
しかも、流石にそんなにはちっちゃくは無い。いや、胎児の時はそれくらいか? ……だから、あんまりこういうことは考えたくないんだって。
「なんか食べたいのある〜?」
「ポテトサラダ」
「それじゃメインになん無いでしょ」
「食べたいもの聞いたのはそっちだろ。そういうのはそっちで考えて」
「じゃあ肉詰めにでもしようかしらね」
この信号機の先がもうスーパーだという位置に差し掛かったころ。
――妙な感覚があった。まるでこの世界がひっくり返ったような
「陽奏……」
母さんが俺様の方を向いて名前を呼んだ。記憶にある限りでは初めて人から名前を呼ばれた。名前というものは集団の中で他者と区別される必要が生じてはじめて意味が生まれるのだ。
だから、つまり。
バンッッ!!!!
左肩から右脇腹にかけて強い衝撃が伝わる。少ししてから理解する。これはシートベルトが正常に動作したのだ。それが意味することは一つ。
事故だ。
「母さん!!」
「うぅぅぅ…」
幸いエアバックがこれまた正常に動作したようで軽く気絶しているだけで済んだようだ。ほっとすると同時に嫌な衝撃が車に走ったことを思い出す。
道路が赤く染まっていた。
その後のことはよく覚えていない。母さんは入院したあと過失致死で捕まった。
この瞬間から俺様は存在感が著しく大きくなった。
コントロール出来るようになるのはもう少し後のことになる。
目の前から人が消えた。見間違いでは無い。確かに消えた。これは気になる事象だ。
深夜の住宅街に怪しい一団がいた。
ブカブカの黒いコートを着た女とこれまたサイズの大きな白衣を着た女。そして、全身オレンジの囚人服のようなコートを着た男。
未だに友人というものができたことがない俺様だが何となく声をかけたい衝動に駆られるのだった。どれ、ここは一つ冗談でも言って盛り上げてやろうか。




