第二十二話:宝玉防衛
越中・富山城を十万を超える豊臣の大軍が、完全に包囲した。
だが、その包囲は、奇妙なほどに静かだった。鬨の声も鉄砲の音も一切しない。ただ、圧倒的な軍勢が、城を無言の圧力で押し潰そうとしていた。
本陣で秀吉は苛立たしげに仁斎を問い詰めた。
「仁斎! なぜ攻めかからぬ! 佐々の脅しに怖気付いたとでも思われるぞ!」
「関白殿下。あの男は本気です」
仁斎は、静かに答えた。
「力攻めは、我々が手にするものを灰に変えるだけ。それでは、この戦、我らの負けにございます」
仁斎の脳裏には、佐々成政が突きつけてきた、狂気の「条件」が焼き付いていた。
『これ以上、ワシを追い詰めるならば、この城と領民、そして金銀山もろとも、全てを火の海に沈めてくれるわ』
それは、仁斎が知る、究極の買収防衛策だった。
『佐々成政は、自社の企業価値そのものを人質に、買収を拒んでいる。“クラウンジュエル”(※企業内で最も価値のある事業や資産)を、自ら破壊すると脅すことで、買収者の意欲を削ぐ、最終防衛策だ』
仁斎は、この手詰まりに見える状況を冷徹に分析していた。
『だが、この手には致命的な欠陥がある。それは他の株主(家臣)たちの利益を完全に無視していることだ』
仁斎は、もはや、城主である佐々成政を交渉の相手とは見なしていなかった。
彼は、数人の腕利きの忍びを呼び寄せると密書を託した。宛先は城内にいる成政の筆頭家老たち。
その書状に書かれていたのは、脅しでも命令でもない。
一つの、冷徹な「ビジネス提案」だった。
『汝らの主君は己の保身のために、領地と民、そして汝ら自身の未来を、全て道連れにしようとしている。このまま狂気と運命を共にするか』
『あるいは、賢明なる判断を下し、我らと新たな契約を結ぶか。主君をその座から引きずり下ろし、この城を無傷で我らへ明け渡せ。さすれば、我らは汝らの地位と家、そしてこの領地の未来を保証する』
それは、企業の経営陣(家臣団)が、外部の投資家(豊臣家)の支援を得て、現在のオーナー(佐々成政)から、経営権を買い取る、という「レバレッジド・バイアウト(LBO)」の応用だった。
仁斎は家臣団に自らの未来を「買わせる」という、選択肢を提示したのだ。
密書が城内に届けられて、三日後の早朝。
富山城の大手門から一本の白旗が上がった。
だが、それは佐々成政が揚げさせたものではなかった。
やがて、城門が内側からゆっくりと開かれていく。
現れたのは甲冑をまとった数人の重臣たち。そして、彼らに縄で縛られ、引きずられてくる一人の男。
佐々成政、その人であった。
彼の瞳は怒りよりも、ただ信じられない、という絶望の色に染まっていた。
城は、一滴の血も流れずに、開城した。
仁斎の元へは、すぐに領内の金銀山も民も全てが無傷である、という報告が届いた。
秀吉は、本陣からその光景を呆然と眺めていた。
戦わずして、勝つ。いや、戦う以上の完璧な勝利。彼は隣に立つ、この底の知れない軍師の存在に改めて畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
仁斎は縄を打たれた佐々成政を一瞥すると、すぐに、興味を失った。彼の視線は、すでに次なるディールの算段へと向いている。
『ディール、完了。不良債権の処理とクラウンジュエルの保全を同時に達成した。最小のコストで最大のリターンを。これこそが俺のやり方だ』
彼は空を見上げた。この厄介な案件を片付けたことで、いよいよ本題へと進むことができる。
信長から課された、真の試験。
『さて、肩慣らしは終わった』
仁斎は地図の上で南の果て、薩摩の地を指でなぞった。
『――“本番”を、始めるとしようか』
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