第十八話:臣従
関白就任の報は、徳川家康にとって、事実上の「詰み」を意味していた。
浜松城の評定の間は、激昂した家臣たちの怒声で満ちていた。
「殿!これは猿の謀略!断じて認めるわけにはいきませぬ!」
「今こそ、雌雄を決する時!天下に、三河武士の意地を見せてやりましょうぞ!」
血気にはやる本多忠勝や井伊直政らを、家康は、ただ一つの手を静かに上げるだけで制した。
その瞳は、嵐の前の海の如く、不気味なほどに凪いでいた。
「もう、戦の勝ち負けではない」
家康は、諭すように言った。
「ここで兵を挙げれば、我らは朝敵となる。それは、徳川の滅亡を意味する。…猿は、戦の土俵そのものを、我らの手の届かぬ天上に移しよったわ」
その言葉に、猛将たちも押し黙るしかない。力では決して屈しない主君が、初めて、力以外の何かによって、完全に封じ込められた瞬間だった。
『徳川家康というファンドは、リターンの最大化ではなく、リスクの最小化を絶対の行動原理とする。彼が、リターンゼロどころか、元本割れ(家の滅亡)のリスクを冒すはずがない』
京にいる仁斎の思考は、家康の行動を正確に予測していた。
『彼は、こちらの軍門に降る。問題は、その“条件”だ』
案の定、関白となった秀吉が、家康に上洛を命じても、家康は何かと理由をつけて動かなかった。
秀吉の苛立ちは、頂点に達していた。
「ワシは関白ぞ! なぜ、あの田舎者が、このワシの前にひれ伏さぬ! 仁斎、今度こそ、あやつを力で…」
「なりませぬ」
仁斎は、静かに首を振った。
「ここで徳川殿を討てば、豊臣様は、帝の権威を笠に着て、私怨を晴らした、と天下に知らしめることになります。それは、関白というブランド価値を、自ら毀損する行為です」
『徳川家康という“超優良企業”を、我々のグループに引き入れるための、最終交渉だ。敵対的買収ではなく、友好的な経営統合を目指す。そのためには、史実通りにこちら側が、最大限の誠意(M&Aプレミアム)を見せる必要がある』
仁斎が秀吉に献策したのは、常軌を逸した「誠意」の示し方だった。
秀吉の妹・朝日姫を家康に嫁がせ、さらには、実の母である大政所までも、人質として岡崎城へ送る。
天下人が、一人の大名に対し、母と妹を差し出す。前代未聞の譲歩だった。
その策の最終承認を得るため、仁斎は、数ヶ月ぶりに、その男の元を訪れていた。
伊賀の山中にある、寂れた古寺。表向きは、病の療養所とされているが、実態は、仁斎が用意した最高機密の隠れ家だ。
「…仁斎か。遅いぞ」
縁側で、素振りをしていた男――織田信長が、汗を拭いもせず、仁斎を睨みつけた。その眼光は、少しも衰えていない。
「猿が、関白になったそうだな。貴様、いつまでワシを、このような穴倉に閉じ込めておくつもりだ?」
「全ては、天下を、再び上様の下へお戻しするため」
仁斎は、平伏したまま、家康への譲歩案を説明した。
途端に、信長の表情が、不機嫌に歪んだ。
「女を人質に送るだと? 貴様のやり方は、まどろっこしいわ! ワシならば、今すぐ兵を率いて浜松を焼き払ってくれるものを!」
「なりません」
仁斎は、初めて、信長に対して、はっきりと異を唱えた。
「今は、力で全てを解決する時代ではございません。天下は、もはや上様だけのものではないのです」
空気が、凍りついた。信長の全身から、殺気ともいえる圧力が放たれる。
だが、次の瞬間、信長は、腹の底から、哄笑した。
「クク…ハハハ! 面白い! 言うようになったではないか、黒澤仁!」
仁斎は、ハッと顔を上げた。その名を、この男が口にするのは、あの夜以来だった。
――本能寺の変、直前の安土城。二人きりの密談の、最終局面。
信長は、仁斎の策を受け入れながらも、その瞳の奥で、まだ最後の疑念を燃やしていた。
「…仁斎。貴様は、一体何者だ。その知恵、その目。到底、ただの祐筆のものではない。何故、そこまでして、このワシに尽くす?」
仁斎は、覚悟を決めた。この稀代の魔王の、絶対的な信頼を得るための、最後の賭け。
彼は、平伏し、己の全てを告白した。
「…私は、この時代の者ではございません。四百年先の未来より、参りました。かの世での名は――黒澤仁。この国の成り立ちと、その行く末を知る者でございます」
常人ならば、狂人の戯言と斬り捨てたであろう。だが、信長は違った。彼は、仁斎の瞳の奥にある、狂おしいまでの真実を見抜いた。
そして、腹の底から笑ったのだ。「未来を知る男か! 面白い! その途方もない与太話、この信長が、信じてやろう!」と。
――その記憶が、仁斎の脳裏をよぎる。
信長は、仁斎の前に座り込んだ。
「よかろう。貴様の挑戦、最後まで見届けてやる。だが、ワシを待たせすぎるなよ」
影の会長の、承認が下りた。
天正十四年(1586年)十月。
ついに、徳川家康は、大坂城へ上洛した。
秀吉の前に、家康が、静かに頭を下げる。日本の歴史が、大きく動いた瞬間だった。
仁斎は、その光景を、末席から見つめていた。
『徳川家康の臣従。これで、小牧・長久手に端を発したディールは、こちらの完全勝利でクローズした。織田家の内部整理、そして競合他社の無力化は、完了した』
彼の視線は、もはや、国内の誰にも向けられていなかった。
『残るは、この“株式会社・日本”の、本格的な経営フェーズ。そして、その先にある、世界という名の、巨大な市場だ』
天下統一という名の、国内市場の独占は、仁斎にとって、通過点に過ぎなかった。
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