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第十七話:豊臣創設

堺という、新たな、そして、無尽蔵とも思える資金源キャッシュ・エンジンを確保した仁斎は、その莫大な富を、朝廷への「投資」へと、惜しみなく注ぎ込んでいった。

そして、ついに、その“投資”が、最初にして最大の果実を結ぶ日が、やってきた。

――帝への、拝謁である。


紫宸殿ししんでんの、しんと静まり返った空気は、戦場の喧騒とは、全く異質な重みを持っていた。古く、そして、かぐわしい香の匂いが、満ちている。磨き上げられた床板に、衣冠束帯いかんそくたいの裾が擦れる、微かな音だけが、やけに大きく聞こえた。

百戦錬磨の猛将である秀吉ですら、その場の雰囲気に、完全に呑まれていた。額には、脂汗が浮かび、慣れぬ装束の重みが、全身に、鉛のように、のしかかる。

御簾みすの向こうに座す、顔も見えぬ帝という存在が放つ、人知を超えた威圧感。それは、力や、富といった、分かりやすい価値基準が、一切、通用しない、絶対的な「格」の違いだった。

秀吉は、仁斎に叩き込まれた通りに、恭しく頭を下げ、忠誠と、御所の修繕や祭事の復興を約束する言葉を述べた。声が震え、汗が背中を伝うのが、自分でも分かった。

『帝は、企業のCEOではない。市場そのものを定義する、ルールの擬人化だ。査定は不可能。影響を与えることしかできない』

仁斎は、遠く離れた場所で、静かにディールの成否を待っていた。


拝謁は、つつがなく終わった。だが、本当の闘いは、ここからだった。

仁斎と秀吉は、すぐさま関白・近衛前久との交渉に入った。目的は、秀吉を「関白」に就任させること。

前久は、優雅に茶を一口すすると、扇子の向こうでやんわりと笑った。

「内府様。この国のいただきには、二つの天がございます。一つは、帝。そして、もう一つが、我ら藤原氏が、千年にわたり、血で、紡いできた、この『摂関家』という、もう一つの、天。武家の頂点である、征夷大将軍ですら、この天の下にある。ましてや、養子という、我らの血の仲間にならぬ限り、関白の座など、夢のまた夢…。それは、この国の、ことわりそのものなのでございますよ」

それは、丁寧な、しかし絶対的な拒絶だった。


交渉を終え、自室に戻った秀吉は、悔しさに顔を歪ませていた。

「仁斎…! やはり、ワシは、近衛殿の、養子に入るしかないのか…。天下人が、あの公家どもの、血筋の権威に、頭を下げねばならぬとは…!」

秀吉が、その選択肢を口にした瞬間、仁斎の脳裏に、前世の記憶が、鮮烈に蘇った。

日本の、旧態依然とした大企業。会議室に、淀んだ空気。能力ではなく、家柄と学閥だけで、全てが決まる、取締役会。黒澤仁が、渾身の力で作り上げた、完璧な買収案を、ただ、一人の、創業家出身というだけで、何の能力もない老社長が、鼻で笑い、こう言ったのだ。「前例がない。我が社に、君のような若造の、奇抜な発想は、必要ないのだよ」と。

『…ダメだ。この男(秀吉)は、まだ、分かっていない。この、古いルールに、頭を下げることが、何を意味するのか。それは、俺が、前の人生で、唾棄すべきものとして、戦ってきた、全ての旧弊そのものだ。断じて、認めない』

仁斎は、静かに、しかし、断固として、秀吉の言葉を否定した。

「内府様。養子に入るなど、とんでもない。それは、我らが、彼らの権威の下に付くことを、天下に認めるようなものです」

「ならば、どうすると言うのだ!」

「古いルールに従うのではありません。帝に、新しいルールを、お作りいただくのです」

仁斎は、秀吉に、その、あまりにも大胆不敵な計画の、全貌を明かした。

「内府様。養子に入るということは、しょせん、他人の家に、名を連ねるということ。しかし、『豊臣』を創設するということは、内府様ご自身が、藤原に、源に、平に、比肩する、**新しい、武家の、そして、公家の、頂点となるうじ**を、お作りになる、ということでございます。格が、違います。今後、この国の頂点に立つ者は、血筋ではなく、この日ノ本を、豊かにするとみ、すなわち、『豊臣』を名乗るに、ふさわしい者となる。我らが、その、新しい『ことわり』そのものになるのです」

『史実の秀吉は、ここで、近衛家の養子になる、という“妥協案”を受け入れた。だが、それでは、永遠に、藤原氏という、巨大な“ブランド”の、傘下に入ることになる。…違う。俺がやるべきは、既存の市場マーケットで、シェアを奪うことではない。ルールそのものを書き換え、全く新しい、独占市場ブルー・オーシャンを、創り出すことだ!』


その夜、仁斎は、京の、とある料亭の一室で、一人の男と、差し向かいで、座していた。

相手は、二条家の当主、二条昭実。かつて、関白の座にありながら、秀吉の台頭により、その地位を、ライバルである近衛前久に、譲らざるを得なかった男。

「…して、長谷川殿。私に、一体、何の御用かな。近頃は、何かと、近衛の者が、羽振り良くしておるようだが」

その言葉には、隠しきれない、嫉妬と、皮肉が滲んでいた。

「単刀直入に、申し上げます」

仁斎は、本題を切り出した。

「このままでは、内府様の後ろ盾として、近衛家が、宮中での権勢を、独り占めにいたしましょう。それは、二条様にとって、面白きことでは、ありますまい」

「…何を、言いたい」

「新しい『秩序』を、お作りになるのです。二条様、あなた様のお力で」

仁斎は、そこで、「豊臣」創設の、壮大な計画を、打ち明けた。そして、囁いた。

「もし、貴殿が、この『豊臣』の姓の創設にご賛同いただけるならば、内府様は、近衛家ではなく、二条家を、新たな時代の、筆頭パートナーとして、お迎えいたしましょう。もちろん、それに伴う、財政的な支援は、お約束いたします」

昭実は、絶句した。

『この男は…何を言っているのだ…? 千年の、掟を、壊す…? 藤原氏を、飛び越え、新たな、公家の、頂点を、作ると…? 正気の沙汰ではない。これは、もはや、はかりごとではない。天道そのものへの、挑戦だ…! だが…だが、もし、万が一、この男が、それを、成し遂げたとしたら…? 二条家は…近衛を、超える…!』

昭実は、長く、長く、沈黙した後、扇子を、パチン、と閉じた。

「…よかろう。その話、乗った」


仁斎は、同様の交渉を、他の摂家の当主たちとも、それぞれ、相手の弱みに付け込みながら、進めていった。


数週間後。京で開かれた、一つの歌会でのこと。

仁斎が、秀吉の名代として、上座についていると、公家たちが、次々と、挨拶に訪れた。その中に、一条家、そして、九条家の当主がいた。

彼らは、仁斎の耳元で、他の者には聞こえぬように、こう囁いた。

「宰相殿の、新しい“かたち”を創るというお考え、実に、興味深い。我らも、何か、お力になれることが、あるやもしれませぬな」

その言葉は、彼らが、仁斎のディールに「乗った」ことを、明確に示していた。


仁斎は、再び、近衛前久と、対峙した。

「近衛様。もはや、古い掟に、意味はございません。一条様も、二条様も、私の考えに、ご賛同くださっております。新しい時代の、新しい秩序を、貴殿が、自らの手で、お作りになるのです。その中心に、近衛家が、あり続けるために」

前久は、全てを悟った。この、若き怪物は、自分一人のみならず、公家社会そのものを、すでに「買収」し終えていたのだ、と。


近衛家の屋敷を、仁斎は、夜の闇の中、一人、辞した。ディールは、成立した。だが、彼の思考は、すでに、その、遥か先を見据えていた。

『俺が、本当に“買収”したのは、近衛前久という、一人の男ではない。五摂家という、千年間、この国の“権威”を独占してきた、巨大なカルテルそのものだ』

仁斎は、まず、リスクの根絶を、計算する。

『彼らの最大の武器は、その血筋という名の、絶対的な“拒否権”だった。だが、もう、それも終わりだ。俺は、彼らの結束を、嫉妬と、金で、完全に、破壊した。もはや、彼らは、一枚岩の“抵抗勢力”ではない。豊臣家という、新たな大株主の顔色を窺い、互いに、利益供与を求め合う、ただの、個別の“弱小株主”に過ぎん。これで、将来、何者かが、帝や、公家の権威を担いで、我々の経営権に、揺さぶりをかける、というリスクは、永久に、根絶された』

次に、彼は、新たな支配構造の、確立を、思考する。

『そして、新たな支配が、始まる。彼らの、経済的な、生殺与奪の権利は、完全に、俺の、掌中にある。近衛家には、年間、一万貫の“コンサルティングフィー”を支払う。だが、一条家には、五千貫。その差が、そのまま、宮中における、彼らの、新しい“序列”となる。彼らの、バランスシートは、完全に、俺の、支配下に置かれた』

最後に、彼は、その資産の、最大活用について、考えを巡らせた。

『だが、無力化し、支配するだけでは、三流のディールだ。彼らは、もはや、政治的な脅威ではない。ならば、次はこの、プライドだけが高い、収益性の低い“資産”を、どう、バリューアップさせるか、だ。和歌、蹴鞠…。一見、無価値に見える、これらの“無形文化資産”こそが、世界と渡り合う上での、強力な“ソフト・パワー”となる。彼らには、今後、死んだような目で、古い儀式を繰り返すのではなく、株式会社・日本の、ブランド価値を高めるための、専門家として、働いてもらう。コストセンターから、プロフィットセンターへ。これこそが、真の、M&Aだ』


天正十三年(1585年)七月。

帝は、秀吉に、新たな姓「豊臣」と、そして、関白の位を、同時に、宣下した。

農民の子・藤吉郎は、千年の掟を、自らのために、上書き(オーバーライト)させ、天皇の代理人「関白・豊臣秀吉」となったのだ。


その報は、遠く、徳川家康が待つ浜松城にも届いた。

家康は、碁盤に向かい、一人、碁石を並べていた。

全てを聞き終えても、その表情は能面のように変わらない。ただ、ゆっくりと、白石を一つ、指でつまみ上げた。

そして、パチリ、と、乾いた音を立てて、碁盤の上に置いた。

家康は、静かに、目を閉じる。

『…養子ではない。創設、だと…? 猿めは…いや、あの物の怪(仁斎)は、ただ、頂に立ったのではない。頂そのものを、己がために、作り替えたというのか。…恐ろしい。これでは、もはや、徳川も、他の誰も、あの男に、家格で、物申すことなど、永久に、できぬわ。彼は、ルールの中で、勝ったのではない。ルールの上に、立ったのだ』

小牧・長久手で得た、軍事的な優位は、この一報で、完全に、意味を失っていた。

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