第十六話:業務提携
堺の会合所は、水を打ったように静まり返っていた。
今井宗久をはじめとする商人たちは、仁斎から提示された、あまりに常識外れの提案を、すぐには理解できずにいた。
やがて、宗久が、震える声で最初の問いを発した。
「…長谷川様。その『朱印状』、まことに、我らの商いを、諸国の関所や、水軍から守ってくださるのか。そして、見返りは、本当に儲けの一割だけでよろしいので?」
彼らの問いは、これまで武士たちから、いかに理不尽な要求を突きつけられてきたかを雄弁に物語っていた。
仁斎は淀みなく答えた。
「お約束いたします。殿下の名において、羽柴家の支配が及ぶ、全ての湊、全ての関所において、朱印船の通行を保証する。これに逆らう者は、殿下への反逆と見なします」
彼は言葉を続けた。
「そして、お納めいただく冥加金は、あくまで皆様の儲けの中からの一割。損が出た年には、納めるに及びません。我々は皆様がより多くの儲けを出すことを望んでおります。皆様が富めば羽柴家もそして、この日ノ本も富むのですから」
その言葉に商人たちの顔から、恐怖と猜疑の色がすうっと引いていく。代わりに宿ったのは、信じられないような取引を前にした、商売人としての熱い高揚感だった。
『彼らは理解した。俺が彼らを単なる金蔓ではなく、共に成長を目指す、対等なパートナーとして見ていることを』
仁斎は、差し出した書状に、彼らが署名することを、確信していた。
交渉は、その日のうちに、まとまった。
仁斎と堺会合衆を代表して今井宗久が分厚い起請文に互いの血判を押し、ここに、武家政権と巨大商業都市との前代未聞の「業務提携」が成立した。
今井宗久は署名を終えた後、仁斎の手をしわくちゃの両手で固く握りしめた。
(信長様は、我らを力でねじ伏せた。羽柴様は、我らを金蔵としか見ておられなかった。だが、この男は…この男は、我らを国を富ませるための“要”と見ておられる。…時代の潮目か変わったわ)
この提携がもたらした効果は、仁斎の予測すら、遥かに上回るものだった。
第一に、羽柴家の財政は、劇的に改善した。
堺の商人たちが、自ら進んで納める冥加金は強制的に徴収する御用金よりも、遥かに安定的かつ巨大なキャッシュフローを生み出した。
第二に、仁斎は堺の鉄砲鍛冶たちに羽柴家直轄の「技術開発工房」としての地位を約束。最新の欧州製火縄銃をサンプルとして提供し、その改良と量産を依頼した。堺は、羽柴家の、技術開発の心臓部となった。
そして、第三に、朱印状という国家の信用を得た堺の船団は以前にも増して、活発に海外交易を行い、日ノ本に莫大な富と貴重な海外情報をもたらし始めた。
仁斎は堺から送られてくる、膨大な収支報告書を、自室で確認していた。
帳面上の数字が、美しい曲線を描いて、右肩上がりに伸びていく。
『堺のディールは成功だ。単なる資金調達ではない。貿易、技術、金融…この国に、新たな成長エンジンを組み込むことに成功した。そして、この“エンジン”こそが、いずれ株式会社・日本を、世界という遥かに巨大な市場へと押し上げる推進力となる』
仁斎は立ち上がると、窓の外に広がる大坂の夜景を見下ろした。
無数の灯りはこの国が力だけでなく経済という新たな血液を得て、力強く脈動し始めている証だった。
『資金は確保した。舞台は整った』
彼の視線は、大坂のさらに東。
京の夜の闇へと向けられる。
そこには、彼が次に買収すべき、最後のそして最大の「権威」が眠っている。
『――いよいよ関白という名の究極の“称号”を手に入れるための最終交渉を開始する』
仁斎の次なるディールが、今静かに幕を開けようとしていた。
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