第十三話:損切り(ストップ・ロス)
長久手での惨敗の報は、秀吉の本陣を、絶望という名の氷で覆い尽くした。
武具を破壊し、怒号を上げ続けた秀吉は、やがて抜け殻のように自室に閉じこもった。その背中は、天下人に最も近い男のものではなく、全てを失った敗者のそれだった。
諸将は、遠巻きに天幕を眺めるだけで、誰一人として声をかけられない。
その重苦しい沈黙の中、仁斎は、一人、自室で地図を睨みつけていた。
『長久手の敗北…。誤算はあったが、史実通りだ。ここから、歴史では、泥沼の睨み合いが、数ヶ月、続く。秀吉は、家康を攻めあぐね、結局、家康が戦うための大義名分である、織田信雄と、単独で和睦を結ぶことで、この戦を、尻すぼみな形で、終わらせた』
仁斎は、拳を、強く握りしめた。
『…ダメだ。そんな、不格好なディールは、認めない。俺が、この手で、歴史を、もっと、美しい形で、作り変える』
仁斎は、一人、秀吉の天幕へ向かった。
「……何をしに来た」
床几に座り、虚空を見つめる秀吉が、低い声で呟いた。
「貴様のせいだ、仁斎。貴様が、あの愚かな策を止めきれなかったからだ!」
それは、理不尽な責任転嫁だった。だが、仁斎は表情一つ変えず、静かに頭を下げた。
「はい。羽柴様の、お気持ちを制しきれなかった、私の落ち度。この度の損ないは、全て、この私が引き受けるべきものにございます」
その、あまりに感情のない謝罪に、秀吉は逆に毒気を抜かれた。怒りをぶつけても、この男には暖簾に腕押しだ。虚しさが、こみ上げてくる。
「…もう、終わりだ。ワシは、天下の笑い者よ」
「いいえ」
仁斎は、はっきりと言い切った。
「この一戦には敗れました。なれど、天下を巡る大局で見れば、まだ勝負は互角。そして、ここから先の戦こそ、私の真骨頂にございます」
仁斎の言葉に、秀吉は目を見開いた。
「羽柴様。この戦、これ以上は無益です。直ちに兵をまとめ、大坂へ帰還します」
「馬鹿を申せ!」
秀吉が、激昂した。
「負けたまま、尻尾を巻いて帰れと申すか! 断じて、ならん!」
「これは、退くのではございません。戦のやり様を、根底から覆すのでございます」
仁斎の言葉に、秀吉は息を呑んだ。
「我々は、この小牧・長久手という、骨折り損の戦場から、潔く手を引くのです。そして、我らが圧倒的に有利な、別の土俵で戦いまする」
『史実の秀吉は、信雄を、寝返らせるという、いわば、敵の“共同経営者”の一人を、切り崩すという、地道なやり方で、この場を凌いだ。だが、それでは、家康という、最大の競合の価値を、少しも、削ぐことはできない。…違う。俺がやるべきは、そんな、小さな工作ではない。この“ゲーム”の、ルールそのものを、書き換えるのだ』
仁斎は、秀吉の目の前で、指で一つの文字を空に書いた。
「――それは、**『権威』**にございます。その力をもって、徳川殿を屈服させます」
仁斎の新たなプランは、秀吉の想像を絶するものだった。
第一に、小牧の軍を速やかに撤収し、主力を大坂へ帰還させる。これにより、家康は、戦いたくとも相手がいない状況に陥り、その大義名分を失う。
第二に、その軍事力と、蓄えた莫大な富を背景に、京の朝廷へ接近する。
『朝廷は、この国の最終的な許認可権者だ。彼らからの承認(お墨付き)は、どんな軍事的勝利よりも強力な、絶対的な正当性を生む』
そして、最終目的。
「羽柴様には、**関白**の位を狙っていただきます」
関白。それは、天皇を補佐し、政務を司る、人臣における最高位。
「戦わずして、勝つのです。力ではなく、この日ノ本における“位の定め”そのものを、我らに都合よく作り変える。さすれば、徳川殿は、手も足も出せなくなります」
『単なる関白の就任ではない。歴史を超えるM&Aだ、その為には"あの手"が必要だ』
秀吉は、仁斎の言葉を聞き終えると、しばし呆然とし、やがて、わなわなと震え始めた。
それは、怒りや絶望の震えではなかった。
歓喜だ。
「…ククク…ハッハハハ! そうか、その手があったか! その手があったわ!」
軍事的敗北を、政略的勝利へと昇華させる、逆転の発想。秀吉は、目の前の男の底知れぬ智謀に、改めて戦慄すると同時に、最高の道具を手に入れたという確信を深めた。
その夜。
仁斎は、一人、自室で思考に耽っていた。
『俺の計算モデルに、“CEOの感情”という変数を、もっと高いウェイトで組み込む必要がある。彼の野心と焦燥感が、今回は最大の不確定要素となった』
ふと、脳裏に、もう一人のCEOの顔が浮かんだ。影の会長、織田信長。
この失態を、あの男はどう評価するだろうか。
(…フン、仁斎。貴様も、人の子か。猿一匹、手懐けられぬとはな…)
信長の、嘲るような声が聞こえた気がした。仁斎は、静かに目を閉じた。
『フェーズ3、徳川ファンドとの資本衝突は、一時中断。これより、フェーズ4、朝廷を介した、非対称な市場支配へと移行する』
新たなディールの計画書が、仁斎の頭脳の中で、静かに、しかし確実な光を放ち始めていた。
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