第十四話:権威への投資
小牧・長久手からの撤退は、羽柴軍の兵士たちに、敗北という名の重い影を落としていた。士気は低く、誰もが浮かない顔で、故郷への道を歩んでいた。
その最後尾を、仁斎は静かに馬を進めていた。
『損切り(ストップ・ロス)は完了した。市場の短期的なセンチメントは最悪だが、問題ない。我々は、より大きなリターンが見込める、新たな市場に資本を再配分する』
一方、徳川家康は、深追いをしなかった。彼は、秀吉という巨大な鯨が、自ら尾張の海から去っていくのを、小牧山の上から静かに見送っていた。そして、がら空きになった織田信雄の領地を、その保護下に着々と組み込んでいく。彼の領土は、一滴の血も流さずに、確実に広がっていた。
数日後、秀吉は、その巨大な軍事力を背景に、京へ入った。
だが、そこは、戦場とは全く異なる理で動く世界だった。武力や石高が、必ずしも絶対の価値を持たない、公家たちの世界。
秀吉は、まず、関白(当時)の近衛前久に面会を求めたが、にべもなく断られた。武家の成り上がりが、やすやすと踏み込めるほど、伝統という名の壁は、甘くなかった。
「仁斎、どうなっておる。ワシは、今や日ノ本に最も近い男ぞ。なぜ、麿ごときに、このような扱いを受けねばならぬ!」
憤る秀吉に、仁斎は一枚の帳面を見せた。そこには、荒れ果てた御所の修繕費、滞っていた宮中行事の開催費などが、膨大な金額と共に記されていた。
「羽柴様。ここは、戦場とは異なる理で動く場所にございます。そして、ここの者たち(公家)は、常に、新たな後ろ盾を求めているのです」
『公家社会は、独自の経済圏を持つ、閉鎖的な市場だ。ここで影響力を買うには、現金での直接投資が最も効率的。これは、非公開企業への、友好的な資本注入に等しい』
仁斎の策は、単純明快だった。
「金です。圧倒的な金の力で、彼らの心を、そして帝の信頼を、我々が買い取るのです」
その日から、秀吉による、朝廷への凄まじい「投資」が始まった。
荒れ果てていた御所の修繕が、驚異的な速さで進められ、その費用は全て秀吉が支払った。途絶えていた祭事が、次々と復活する。近衛前久をはじめとする有力公家たちの元へは、毎日のように黄金や名物の茶器が届けられた。
公家たちは、最初こそ成り上がり者からの金と侮っていたが、その金の奔流は、彼らの矜持を洗い流し、淀んでいた宮中の空気を、瞬く間に華やかなものへと変えていった。
仁斎は、修繕が進む御所の庭で、その進捗を確認していた。
一人の若い公家が、彼を遠巻きに眺めている。
(あの男は、一体何者だ。この歴史ある庭を見ても、何の感慨も抱かぬかのような、あの無機質な目。まるで、建物の価値を、金と木材の量でしか見ておらぬようだ…)
その時、仁斎は、今はなき安土城の天主を思い出していた。
『信長様なら、この古びた御所を焼き払い、黄金の城を帝に献上しただろう。だが、俺のやり方は違う。既存の権威を買収し、再利用する方が、圧倒的に低コストで、リターンも早い』
彼のやり方は、破壊と創造の天才だった信長とは、対極にあった。だが、目指す場所は同じだ。
やがて、仁斎の「投資」は、最初のリターンを生み出す。
秀吉の財力に、そしてその裏にある仁斎の計り知れない知性に、ついに近衛前久が屈したのだ。彼は、自ら秀吉の元を訪れ、帝への正式な拝謁を取り計らうことを約束した。
数日後。
慣れない衣冠束帯に身を包んだ秀吉が、緊張した面持ちで、宮中の廊下を歩いていく。その姿は、戦場での覇気とは程遠く、まるで初めての場所に戸惑う子供のようだった。
仁斎は、その姿を、遠くから静かに見送っていた。
『近衛前久という、最も重要な“ゲートキーパー”との交渉は成功した。だが、これは、権威市場への、入場券を手に入れたに過ぎない。これから、御所の修繕、祭事の復興、そして、公家たちへの“贈答”という名の、莫大な先行投資が始まる』
仁斎は、この壮大なディールを成功させるには、圧倒的な資金が必要不可欠であることを、冷静に計算していた。
彼の視線は、すでに、その莫大な資金を生み出す、次なる“打ち出の小槌”へと向けられていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




