絶妙なタイミング
「ちょっと作り過ぎちゃったかなぁ……」
キッチンにある調理台には、オーブンから出したばかりの焼きたてのアップルパイと籠に入ったクッキーが並んでいる。
その傍には紅茶の缶とティーポットなどが。
今日は匠くんがうちに来てくれる日。
そのため、私は匠君に食べて貰うためのお菓子やお茶の用意をしていたのだ。
最初はアップルパイだけにしようと思っていたのに、気づけばアップルパイだけじゃなくてクッキーや冷蔵庫に入っているプリンもあった。
二人で食べるには多い量なので、クッキーの一部は美智さんにおすそ分けするためにラッピングしてある。
――プリンはお隣の小春ちゃんにおすそ分けをしようかな。小春ちゃん、プリンが大好きだし。
竜崎さんが私の元を訪れた時、小春ちゃんが公園で見ていて私の事を心配してくれたので、そのお礼に。
あと、ちゃんと匠君に伝えたから……という報告も兼ねて。
小春ちゃん、今日いるかなぁとぼんやりと思っていると、キッチン内に電子音が鳴り響く。
玄関に設置されているドアホンが来客を告げる音だった。
「あっ」
私が顔を上げてリビングへと向かって壁時計を見ると、匠君との約束の時間だった。
来客はおそらく匠君だろう。
そのため、私はドアホンのモニターを確認することなく、真っ直ぐ玄関へと向かうことに。
玄関のたたきで靴を履き、施錠を外して玄関の扉を開ければ、予想通り匠君だった。
匠君は私を視界に入れると、「朱音」と名を呼び微笑んだ。
竜崎さんの事でちょっと不安だったけど、不思議と彼を見たらほっとする。
なんでだろう……?
匠君の微笑みにつられるように、私も顔を綻ばせると「いらっしゃい、匠君」と告げた。
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私と匠君は玄関からリビングへと移動した。
匠君にはソファに座って貰い、私は準備していたお茶とお菓子をテーブルの上に並べていく。
ティーポットから紅茶をカップへと注ぐとテーブルへと並べ、私は自分の席へと座った。
私はテーブルを挟んで匠君とは反対側のソファへと座っている。
皿に切り分けたアップルパイからは、シナモンの甘い香りが。
匠君に勧めようと思えば、彼が先に口を開く。
「朱音。これ良かったら……」
匠君は手にしていた風呂敷を開けると、中に入っていた箱を私へと差し出してくれた。
「うちで良く食べている和菓子なんだ。美味しいから朱音にも食べて欲しくて」
「ありがとう。あまり気を使わないでね。私、いつも匠君にご馳走になっているし……」
「俺だって朱音にお菓子を作って貰っているから。今日だって朱音、俺のために作ってくれただろう?」
私が作るのはあくまで素人のお菓子であって、プロのものではないから全然比べられない。
「私のは素人のお菓子だから……」
「俺は朱音の作ったお菓子が世界で一番旨いと思っているよ! 今、テーブルの上に乗っているアップルパイも旨そうで気になっているし」
匠君がちらちらとアップルパイを眺めていたため、私はたまらずに笑みが零れてしまう。
それと同時に不安が広がった。
――こんなに穏やかな時間が続けばいいのに。私が竜崎さんの事を話してしまって、匠君の表情が曇ってしまうかもしれないのは心苦しい。
私は胸が痛んでちょっとだけ視線が俯いてしまう。
でも、言わなければならない。匠君のお祖父さんが言っていたように、後で知られてしまった方がきっと彼は傷つくから。
「匠君。あのね、お茶とお菓子を食べながらでいいから聞いて欲しいことがあるの」
「あぁ」
匠君はゆっくり頷く。
「ちょっと前に竜崎さんが私の所に来て……――」
私は匠君にこの間公園で起こった出来事を話した。
話している間は、やたら自分の鼓動が大きく感じ、膝の上で握りしめている手にはうっすらと汗が。
どうしても匠君の事を気にしてしまう。そのため、私が口を動かしている間は、匠君の顔を見ることが出来ず。
全て話終わった後。私はゆっくりと顔を上げると、やっと匠君の顔が見られた。
彼は「話してくれてありがとう」と微笑を浮かべたので、私は目を大きく見開いてしまう。
まさか、お礼を言われるなんて思ってもいなかったから。
「朱音がちゃんと伝えてくれて嬉しいよ。ちゃんと対策が打てるし、頼りにされているように感じるからさ。ごめんな、巻き込んでしまって……」
「匠君は悪くないよ!」
私は大きく首を左右に振る。
「俺がもっと早く対応をしていればよかったんだ。まさか、朱音の所まで来るなんて……小春ちゃんにも言われたよ。朱音が大変だったって」
「小春ちゃんって、うちのお隣の……?」
「そう。実は朱音の家の前で会ったんだ」
「小春ちゃんが……」
「あぁ、朱音の事を心配してくれていた。頼もしいお隣さんだな」
「うん」
私は視線を右手へと向け、カーテン越しに窺えるお隣の家を見ながら、心の中で小春ちゃんにお礼を言った。
後でお菓子を持って行った時に、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
「俺は佐緒里との事は過去の事だと思っている。だから、彼女とはよりを戻すつもりはない」
匠君がはっきりと言い切った台詞を聞き、私は胸がほっとした。
……ん? なんでほっとしたんだろう?
心の底から出たよくわからない感情に戸惑ったけど、匠君が話を続けたので今は匠君の事だけに集中することにした。
「佐緒里の意図がつかめず、同じ七泉の佐弥香にも調べて貰ったんだが詳しくはわかっていない。ただ、佐緒里には付き合っている彼氏がいる。そいつのことを大切に思っていることも事実だ。佐弥香が言うには、もしかしたら竜崎家の事業に関する事が関係しているんじゃないかって」
「事業……?」
「あぁ。新規事業がうまくいっていないらしい。佐緒里の付き合っている相手は、宮坂鋼くん」
匠君の話を聞いて、私はますますわからなくなった。
どうして彼氏さんがいるのに、あんな事を言ったのだろうか?
「竜崎家の新規事業がうまくいかなくて、周りの大人達から佐緒里が五王と付き合っていれば……とか言われて追い詰められているんじゃないか? って、いうのが佐弥香の推理だ。自分が言われるならいいけど、自分の大切な人が自分のせいで誰かに悪く言われるのは耐えられないからな」
「あっ」
私はそれに関して心当たりがあった。
佐緒里さんが私の所に来た時に言っていたから。
「竜崎さん、大切な人がいるって。その人の事を守りたいと言っていたの。自分の大切な者が何か言われるのは耐えられないとも言っていたわ」
「そうか……やっぱり佐弥香の予想が当たりなのかもしれない」
「竜崎さんの彼氏さんはこの件に賛成しているの?」
「知らないだろうな。彼にも話をしなければならないだろう。ショックを受けるかもしれないが……俺なら、好きな子が形だけでも他の人と付き合ったり結婚したりするのはメンタルにくる。再起不能だ」
「そうだよね」
家同士の婚約も六条院では珍しくないと聞いたことがある。
お金持ち同士でも家のランクにより、結婚やお付き合いが難しい場合があるのかもしれない。
そういう時ってどうすればいいのだろうか。
当人同士が周りを説得するとかして、地道に外堀を埋めていく打開策しか浮かばない。
でも、竜崎さんのように追い込まれてしまったら……?
「竜崎さんは周りを巻き込んでも別れたくはないんだよね。彼氏さんのことが好きだから」
「そうだろうなぁ」
竜崎さんは彼氏さんのことを悪く言われるのが嫌だけれども、好きだから離れたくない。だから、匠君と表では付き合って裏では彼氏さんと……
「冷たい言い方をするけど、これは佐緒里と宮坂君の問題だ。俺達は関係がない。二人で話をして乗り越えなきゃならないんだ」
匠君が強い口調で告げた。
「だから、佐緒里にちゃんと言うよ。返事を聞かずに立ち去られて、俺はまだ返事をしていないんだ」
「私もまだしていないの。考えて欲しいと言われてそのまま帰っちゃったから……」
「なら、二人で佐緒里に断ろう。今日はさすがに無理か……朱音、来週時間作れる?」
「うん」
「ありがとう。時間とか決まったら連絡するよ」
匠君はそう言うと、深い息を吐き出した。
彼の表情は険しく、疲れているように感じる。
匠君にはやっぱり負担になっているのかもしれない。
――何か私に出来ることはないかな?
「匠君。私に出来る事って何かある? 匠君の力になりたいの」
私の問いかけに、匠君は大きく瞬きをした後、顔を緩める。
そして、自分が座っている隣の席をポンポンと軽く叩いた。
どうやら隣に座ってということらしいので、私は匠君の隣へと移動することに。
私が隣に座ると、匠君は体を少し斜めにして私の方を向く。
すると、腕を伸ばして私の手に触れた。
「朱音は十分俺の力になっているよ。朱音が傍に居てくれれば、俺は何でもできるから」
「匠君」
「朱音の事は俺が絶対に守る。五王は基本的に恋愛結婚で問題ないし、家族も朱音の事が大好きだ。だから、ずっと俺のそ――え」
匠君の言葉を遮るかのように、何の前触れもなく電子音がリビングへと広がった。
「あっ、誰か来たみたい」
ドアホンのチャイムだったため、私は立ち上がるとドアホンの元へ。
ディスプレイを見れば宅配便の制服を着た人だった。
私は宅配便の人に返事をすると、振り返って匠君の方へと体を向ける。
「匠君、宅配便の人みたい。ごめん、ちょっと席外すね」
「え、あぁ……うん」
匠君は困惑した表情を浮かべながらも頷く。
彼の了承を得た私は、匠君に背を向けてリビングを出ようとすれば、「絶妙なタイミングだ」という匠君の呟きが背に届いた。