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変化

一筋の光も差さぬ精進屋の中へ幽閉され、果たしてどれ程の時間が過ぎたのか。少女自身にはまるで永遠の様に思われたが、もしかしたら然程長くは経っていないのかも知れない。

どちらにせよ、今が昼か夜かすらも解らぬ程に混濁した意識の中に祝子の乙女は居た。

胸を貫かれた痛みも、吹き出す血潮に濡れて重くなる身体も、眼前に迫る大蛇の大きく開かれた赤い口も、すべてが遠い世界のことのように思えた。後の方は、身体から多くの血が失われたからなのかも知れないが。


大蛇に咥えられ、そのまま湖の中へと引きずり込まれた瞬間。祝子の乙女は水面を介して見えた日の光に、思わず目を瞬く。


ひかり、きらきら。きれい。

ーーもっと、みていたい。


それが、彼女が最期に抱いた思い。



……の、筈だった。



+ + +



暫しの微睡みの後に酷い眩しさとかすかな水音を覚え、祝子の乙女は目を覚ました。眼前には、青々とした緑の木々と木漏れ日、それから澄み渡った空と、湖の深い青色が広がる。先程まで居た湖畔の地に良く似ているが、しかしどこかが違う。

また、嵐の如き様相は嘘のようになりを潜め、そよ風が優しく頬を撫ぜていた。


暗がりと、嵐の予兆と、血の宴の記憶。それらは全て悪い夢であったのか。いや、俄かには信じられない。


ーーでは、今ここで覚える感覚こそが夢なのだろうか。

可能性は捨てきれない。命有るものは、死した時に黄泉なる国に向かう、とかつて聞いたことがある。だとしたら、ここは黄泉の国という事になる。


(黄泉とやらは、随分と明るく、清々しいのですね)


その昔、養父より聞いた話では、黄泉の国とは地下にあり、又の名を「常夜」とも言われているとのことだった。

……ここは、聞いていた話と、随分と違うでは無いか。


(そう言えば、あの蛇は……水潟の主様は、何処へ?)


辺りを軽く見回した限りでは、あの翡翠色の巨躯は見当たらない。

ぼうっとしていても埒が明かないと思い、祝子の乙女はその場から立ち上がり……ふと、違和感に気付いた。


視界は若干高くはなったが、両脚を動かした感覚が一切無いのだ。前進しようとしたら今度は視界はがくんと下がり、まるで這って移動しているかのようになってしまう。


(一体、どうしてしまったのでしょうか)


疑問を胸に抱きつつ、先ずは湖を目指すことにした。水潟の主が居るとしたら、湖の中が妥当だと考えたからだ。

或いは、水温が許すなら泳いで探してみようか、とも。この地に来る前は、養父である海の神に育てられた身。泳ぎも息継ぎもしっかり習っただけに、腕には自身があった。


湖には直ぐに辿りついた。石が転がる湖畔の地を踏み越え、岸辺をぐるりと見回す……それらしき影は、見当たらない。

ならば湖の中か、と水面を覗く。確かにそこには蛇の姿が映っていたが、それは紅い瞳の白蛇。大きさも然程では無さそう……否、待て。


この蛇は、水中に居るのでは無い。水面に映っているのだ。


まさか、と祝子の乙女は慌てて首を捻る。

彼女の目が捉えたのは、見慣れた四肢ではなく、後方まで続く、白い鱗に覆われた長い躰。

そして恐る恐る、再び水面を覗き込む。

そこに映るのは矢張り、紅玉の眼をした白い蛇だ。


(どういうことなのでしょう……わたくしが、蛇に?)


頭がくらくらする。今、こここそが夢の世界なのだと思いたい気持ちが胸に広がる。


ーー蛇はね、豊穣と子孫繁栄を司る神様なのよ。とても有難く、貴いものなの。


頭の中に谺する、遠い昔に聞いた母の言葉。そう、蛇は決して悪いものではない。有難く、貴い神の化身。

でも、まさか、自分がこんな姿になってしまうだなんて。

大きく裂けた赤い口。二つに割れた長い舌。腕も脚もなく、鱗に覆われたうねる躰。


嫌だ、嫌。どうしてこんな事になってしまったんだろう。

幽閉されて、わけもわからないまま胸を貫かれて、大蛇に飲み込まれて、湖の中に引きずり込まれて。かと思えばいつの間にかよくわからない場所に居て、しかもどういうわけか蛇の姿になってしまった。

叫びたい気持ちで一杯で、でも声が出なくて、出るのはシャアともシュウとも着かぬ威嚇音のみ。


(せめて元の姿に戻りたい……お願い、戻して……水潟の、主様)


半ば自棄になって、自分をここに連れてきた者へと乞う。

すると、祈りは通じたのだろうか。身体が縮むような感覚が頭の先から尾の先まで奔ったかと思うと、手足がばたつく慣れた感覚を覚えた。

久方ぶりに見た自分の掌は、酷く白かった。


何にせよ、元の姿に戻れて良かった……と安堵する間もなく、祝子の乙女は盛大に、水面へとすっ転んだ。

幸い深さは精々膝下程度だったので、はからくも直ぐに体制を立て直すことは出来たが、全身はほぼずぶ濡れだ。本当に、先程から碌なことが無い。


はぁ、と溜息をついて、改めて祝子の乙女は立ち上がろうとする。ここで不貞腐れていても、何にもならないのだから……と、顔を上げると、兼ねてより探していた翡翠色が彼女の目前に飛び込んだ。

どうやら探していた者は、直ぐ近くに居たらしい。


但し、それは巨躯の蛇身ではない。

翡翠色の鱗に覆われた、ひとの掌、ないしは腕。

その腕の主は、祝子の乙女へ手を差し伸べるように、大柄な身体を屈めていた。

長く伸ばしたざんばらの黒髪。日に焼けたのか、うすらと赤みの有る屈曲な四肢。

無造作に下ろした前髪の隙間から、蛇を思わせる鋭い黄金色の瞳が光り、乙女の円い紅玉の瞳を覗き込む。その目の下の頬には矢張り翡翠色の鱗が光り、幅広の薄い唇の隙間からは、きざぎざの歯がちらと垣間見えた。


彼は今、一匹の大蛇ではなく、ひとりの異形の青年の姿をしていた。


「貴方が……水潟の、主様?」

おずおずと、乙女は尋ねる。


青年は暫し逡巡すると、

「……君は、僕をそう呼ぶんだね。

まぁ、いいけど」


厳つい見た目に似合わず、酷く優しげな声で答えた。

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