第九話
北国のウォルド王国の中でも、西部に位置するベルド地方は『風の大地』と称されるほど風と縁の深い土地だ。最も風の精霊に愛され、その恩恵を受けた人々は北国にあっても穏やかな気候の中健やかに暮らしていた。
そのベルド地方を治めるのは、大領主・ドラフト公爵である。
現在、当主であるベルメール・ドラフトは両足の不自由を理由に、そのほとんどの権限を嫡男であるグランスリードにゆだねている。
当主代理とはいえ、グランスリードは三十路になろうかという年齢で、すでに四大公爵家の中でその存在感を大きくしていた。その理由は、風の守護竜と風の精霊使いを復活させたことにある。
大地の力が弱くなった昨今のウォルド王国は魔力の低下が著しく、魔術師はもちろんのこと、精霊使いや召喚士の数が激減していた。国力の象徴である神竜を守護竜に戴く四大公爵家にあっても、各々の守護竜を単なる『伝説の生き物』としてしまうありさまだ。
しかし、彼だけは違っていた。冷静に現状を把握すると、大地の力を取り戻すため、力の象徴である翼竜を飼育し、人との関係性を再び取り戻すことを決め、実行したのだ。
その結果、彼の大事な親友であり同志でもあった、ロシーヌの姉・アレーナを失ってしまったが、今でもグランスリードは心折れることを自ら許さず、前へ進み続けている。
その強靭な精神力を自負していたはずの貴公子は、今、草を食む馬の首筋を撫でている少女の後ろ姿を、寂寥感を面に滲ませてじっと見つめていた。
目を覚ましたロシーヌが別人となってしまっていたあの晩、侍女頭に事情を説明しただけで、王都にいるキャメロット公爵の許しを得ることなくドラフト家へと連れ出すことを独断した。少しでも目を離したくないというグランスリードの気持ちを理解し、また、現時点で彼の傍にいることが最善であるという賢明な侍女頭のはからいで、眠ったままの狼共々、こうして目の届く場所にいるわけだが、実際には、どのようにしてロシーヌの魂を呼び戻すことができるのか全く分からなかった。
やがて、穏やかな陽光が降り注ぐなか少女の白金の豊かな長い髪が揺れ、白い肌の美しい横顔が見えると、グランスリードは表情を改め、にこやかに歩み寄った。
「ロシーヌ、いや、聖天使・ダニエルだったか。馬が珍しいか」
そう問いかけると、ロシーヌの体を借りた聖天使・ダニエルは、青い瞳を輝かせ、笑顔で肯いた。最近のロシーヌがけっして見せてはくれなかった表情だ。
「珍しいといえば珍しいな。地上に降りるには、私の魂の器となる者が必要であったから、こうして直に触れることができたのも久方ぶりなのだ。グランスリードよ、翼竜隊なるもの、大変興味深い。そなたが私をここへ案内してくれたことを嬉しく思う」
グランスリードは大きなため息をついた。
「何だ、私は何かそなたを落胆させるようなことをしたのか」
「いいや。ただ、その口調はなんとかならないのか。あなたがロシーヌの体を借りていることを知っている俺は良いが、ここの第四級翼竜隊の連中が聞いたら混乱する。それでなくてもその美貌がかなり目立つのだからな」
「では全て話せばよい。ここは魔法王国ウォルドぞ。有翼人の存在くらい心得ておろう」
気楽な物言いのダニエルに、グランスリードは呆れて肩をすくめた。
「今のウォルドは、かつてあなたが見知っていた頃のものとは違っている。風の精霊使いが珍しいくらいなのだからな」
「……なるほど。どうりで私の器が見つからないはず。それにしてもこの少女は逸材だ。魂に穢れがないばかりか、聖属性の波動を感じる。居心地が良い体ぞ」
わざとだろうか、ダニエルが片眉を跳ね上げ、グランスリードをからかうように見上げた。当然、青年貴公子は苦々しい表情でそれを見下ろす。
「ロシーヌの魂に穢れがないことくらいこの俺が一番よく知っている。願わくは、あなたがその大事な魂の汚点とならないうちに、本人に体を返してほしいものだ」
グランスリードは本心からそう言っていた。ロシーヌが生まれた時から知り、その成長を兄のように見守ってきたのだから。その彼女が、自分の知らない表情を目の前で見せていることは、思った以上に堪えられない現実だった。
「天からの客人を追い出そうとは、まったく不遜極まりない。そなた、このロシーヌを一番知っていると申したな」
グランスリードの発言に少々気分を害したといった口調で、ダニエルは青年の胸に人差し指で触れ、優しく微笑んだかと思うと引導を渡すかのように無表情になってこう言った。
「ロシーヌを一番理解しておらぬのはそなたぞ」