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財閥御曹司の愛人に離婚を迫られましたが、私は彼の継母です

作者: 熾星
掲載日:2026/07/07

 


 午前三時。港区の上流圏に、とんでもないゴシップが流れた。


 見出しはやけに刺さるものだった――《神崎家の跡取り、六本木の会員制ラウンジでインフルエンサーの誕生日を祝う。正妻は深夜に避妊具を届けたか》。


 私は画像を開き、そのまま靴を履いた。こんな大ネタを目の前にぶら下げられて、見に行かない理由がない。午前三時の東京に失礼というものだ。


 写真の女は、たしかに目を引いた。オートクチュールのドレスをまとい、フロアの中央で水蛇みたいに身をくねらせている。周りでは二世の坊ちゃんたちがグラスを掲げ、面白がってはやし立てていた。


 私はバーカウンターでロングアイランド・アイスティーを頼み、静かに見物するつもりで腰を下ろした。ところが彼女は赤ワインのグラスを手に、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「あなたが佳奈さん? 藤堂家が地方から見つけ出した、本当の娘さんなんですってね。蓮司さんに頼まれて、あれを届けに来たんでしょう? 品物は? どうしてここでお酒なんか飲んでいるの?」


 私は一瞬、反応が遅れた。人違いだと手を振ろうとした瞬間、彼女はいきなり私の手首をつかみ、そのまま自分から床へ崩れ落ちた。


 がつん、と乾いた音がした。彼女の腕につけられていたパテックフィリップの文字盤がテーブルの角にぶつかり、見事にひび割れる。


 顔を上げた彼女の目には、もう涙が浮かんでいた。ラウンジの照明より早い演技だった。


「佳奈さん……私のことが気に入らないのはわかっています。でも、どうして時計まで壊すんですか。蓮司さんが誕生日のために、わざわざスイスから取り寄せてくれたものなのに。どうしても私が邪魔なら、私が身を引きます」


 あまりの展開に、私は言葉を失った。手元のグラスから酒がこぼれ、床に広がる。


 深夜に避妊具を届けに来た、哀れな正妻?


 冗談じゃない。


 私は昨日、日本有数の財閥会長、神崎清隆と入籍したばかりだ。立場でいえば、神崎蓮司の継母である。



 1



 私が口を開くより先に、派手な服を着た二世の坊ちゃんたちがぞろぞろと集まってきた。


 ここは六本木でも名の知れた会員制ラウンジだ。出入りできるのは、財閥の子息か、政財界の家とつながりのある若者ばかり。けれど、こういう場所ほど、金だけで育った愚か者には事欠かない。


「どこの田舎女だよ。自分の立場もわからずに、パテックに触るなんて」


「地方の小さな町から戻ってきたばかりなんだろ? この時計の値段なんてわかるはずないよな。美玲、相手にするな。壊れていなくても、触られただけで縁起が悪い」


 白石美玲は目元を赤くし、そう言った男の肩をそっとたたいた。


「そんな言い方しないで。佳奈さんも、わざとじゃないと思うの。あのワンピースだって、量販店で数千円くらいのものに見えるし……こういう高い時計を見たことがなくても、仕方ないでしょう?」


 たいした女優ぶりだった。


 かばっているように見せかけて、一言ごとに「地方出身」と「世間知らず」の札を私に貼っていく。



 2



 周囲はすぐに、私を追い出せと騒ぎだした。


 店の黒服が二人、私の腕をつかんで入口のほうへ引きずる。美玲は止めに入るふりをしながら、わざと私の体にぶつかった。


 ぱさり、と音がして、彼女のバーキンのファスナーが開いた。黒いランジェリーが床へ落ちる。


 場が半秒だけ静まり返った。


 美玲はそれを拾い上げ、頬を赤らめた。けれど声量だけは、周りに聞こえるよう絶妙に整えられていた。


「これ、蓮司さんがくれたんです……デザインは佳奈さんが選んでくださったものですけど」


 ラウンジに一斉に笑い声が広がった。口笛を吹く者もいれば、口元を隠して私を見る者もいる。まるで汚れたものを見るような目だった。


「安物の服で浮きまくってるくせに、そういうものを選ぶ目だけはあるんだな」


「そりゃ蓮司様も、夜中にあれを届けさせるわけだ」


 私は黙って彼らを見ていた。


 この人たちがどこまで踊ってくれるのか、少し見てみたくなったからだ。



 3



 実のところ、私は最初からラウンジの一番奥にいる女に気づいていた。


 周りが立ち上がって騒ぎを見物する中、その女だけはボックス席の影に縮こまっていた。深くかぶったキャップで顔を隠し、何も言わず、ただ一杯また一杯と酒を飲んでいる。背中は薄く、今にもくしゃりと丸められそうな紙みたいだった。


 私がその女を見ていると、美玲が耳元へ近づいてきた。彼女の手のひらには、高級ホテルのカードキーが載っている。冷たい光を反射するカードを、彼女はわざと私の目の前に差し出した。


「これも蓮司さんがくれたんです。誕生日が終わったら、今夜は私のところへ来るって。安心してください。私がちゃんとお世話しますから、佳奈さんにご負担はかけません」


 正直、吐き気がした。


 理性より先に体が動き、私は彼女の手を振り払っていた。



 4



 次の瞬間、美玲は小さく悲鳴を上げ、後ろへ倒れ込んだ。膝が床にぶつかり、薄く皮膚が擦りむける。


 周囲の人間は、待っていましたとばかりに彼女を囲んだ。


「佳奈さん、叩いたんですか? いくら私のことが嫌いでも、手を上げるなんてひどいです」


 薄い金髪に染めた若い男が飛び出してきた。着ているものと態度だけで、家に甘やかされてきた坊ちゃんだとわかる。


 その指先が、ほとんど私の顔に突きつけられた。


「おい、調子に乗るなよ。蓮司様の店で人に手を出して、ただで済むと思ってるのか。今すぐその足、使えなくしてやろうか」


 私はその指を一瞥し、返す手で彼の頬を打った。


 乾いた音が、ラウンジの重低音をきれいに切り裂いた。金髪の坊ちゃんは半身を持っていかれ、左頬に赤い跡が浮かぶ。


 私は彼の人差し指をつかみ、後ろへひねった。


「次にその指を向けたら、明日にはあなたをお祖母様の前で土下座させるわよ」



 5



 場が一秒だけ凍りついた。


 金髪の坊ちゃんは頬を押さえ、怒りに任せて背後へ手を振った。各方向から十数人の黒服が集まり、私を取り囲む。音楽は鳴り続けていたが、その場の空気は一気に張り詰めた。


 美玲は黒服の後ろから顔を出した。得意げに歪んだ表情は、さっきまでの涙ぐましい顔とは別人のようだった。


「ここが誰の場所かわかってる? 神崎家の跡取り、蓮司様の店よ。ここであなた一人を消すくらい、虫を踏みつぶすより簡単なの」


 彼女はヒールの音を響かせ、私の前に立った。罠に落ちた獲物を見るような目だった。


「佳奈さん、チャンスをあげる。跪いて、謝って、床に散った破片を片づけなさい。私がいいと言うまで立たないで。そうすれば、今夜は歩いて帰してあげる」


 美玲はバッグから未開封の避妊具を取り出し、テーブルに叩きつけた。


「あなたが夜中にのこのこ来たのは、私と蓮司さんを認めるためでしょう? 私が神崎家に入ったら、少しくらい面目を残してあげてもいいわ」



 6



 その言葉が落ちた瞬間、奥の席から鈍い音がした。


 キャップをかぶった女が立ち上がり、椅子が床に倒れる。けれど次の瞬間、彼女はまた座り込んだ。かき集めた勇気が、一瞬で抜け落ちたようだった。


 胸の奥が沈んだ。


 あの女は、十中八九、藤堂佳奈だ。神崎蓮司の法律上の妻で、藤堂家が最近見つけ出した実の娘。今夜の茶番は、そもそも彼女を潰すために用意されたものだった。


 私はただ、面白そうだから見に来ただけの野次馬だ。同じような安いワンピースを着ていたせいで、彼らに取り違えられたにすぎない。


 とはいえ、今はそんなことを考えている場合ではなかった。周りを見れば、十数人の黒服はどれも体格がいい。力ずくで勝てる相手ではない。


 それでも、黙って殴られる趣味はない。



 7



 私はカウンターの上にあったイエーガーマイスターの瓶をつかみ、テーブルの角へ叩きつけた。


 割れた瓶の半分を握り、鋭い切り口を先頭の黒服の喉元へ向ける。


「最初に来た人から、怪我をするわよ」


 声は自分でも驚くほど静かだった。瓶を握る手は、刃物のようにぶれない。


 先頭の黒服は気圧され、隣の仲間と目を合わせた。誰も先に動こうとしない。


 美玲が苛立った声を上げた。


「役立たず! 何かあっても蓮司様が何とかしてくれるわ。やりなさい!」


 言い終わるや否や、特殊警棒が風を切って私の頭上へ振り下ろされた。私は横へかわし、黒服の膝裏を蹴り込む。男はうめき声を漏らし、床に倒れた。


 私はボックス席の角へ下がり、背中を壁につけた。割れた瓶を握る腕が重くなり、呼吸も荒くなる。


 夜中にゴシップを見に来たはずが、気づけば私自身が騒ぎの中心になっていた。


 私は片手でポケットのスマホを探った。清隆につながれば、この茶番は終わる。


 けれど指先がスマホに触れた瞬間、誰かに強く叩き落とされた。床に弾んだ画面には、蜘蛛の巣のようなひびが走る。



 8



 礼服姿の少女が、私の前に立っていた。


 整えられたメイク、少し上がった顎、全身からにじむ金と甘やかしの匂い。美玲は彼女を見るなり、腕にすがりついた。


「若菜さん、来てくれたんですね。この人、私の時計を壊したうえに、蓮司様のお店で暴れたんです」


 私は顔を上げた。


 この子が藤堂若菜。佳奈の名目上の妹で、藤堂家の娘として育てられてきた養女だ。


 若菜は私の前に立ち、頭の先から足元までゆっくり眺めた。そして鼻で笑う。


「佳奈、お父様たちから生活費はもらったんでしょう? それなのに、どうしてそんな量販店のワンピースを着ているの。藤堂家の顔に泥を塗らないでくれる?」


 彼女は私の袖をつまみ、汚いものでも触ったように放した。


 若菜なら、さすがに私が佳奈ではないと気づくと思っていた。


 どうやら、彼女も相当見る目がないらしい。



 9



 私は深く息を吸い、若菜の目を見た。


 彼女は顔を近づけ、二秒ほど私を見つめた。瞳孔がかすかに縮む。さすがに気づいたのだろうと、私は思った。


「目が悪いなら眼鏡を作りなさい。自分の姉まで見間違えるの?」


 けれど、私はこの養女の頭を買いかぶっていた。


 完全に油断していたところへ、平手打ちが飛んできた。爪が口元をかすめ、左頬が熱く痛み出す。


「途中から藤堂家に戻ってきた女が、私の前で顔を上げていいと思っているの?」


 私は足を上げ、反撃しようとした。


 その瞬間、背後から四人の男が飛びかかってきた。腕をねじ上げられ、私は床へ押し倒される。膝が割れたガラスにぶつかり、視界が一瞬白くなった。


 生温かい血が、ふくらはぎを伝っていく。


 美玲が前に出てきた。細いヒールで私のワンピースの裾を踏み、ゆっくりとにじる。


 彼女は腰をかがめ、耳元に口を寄せた。


「大人しくしていなさい。蓮司様の車はもう着くわ。今夜のあなたは終わりよ」



 10



 私は床に押さえつけられ、乱れた髪で顔の半分が隠れていた。


 若菜はシャンパンのグラスを手に取り、すでにこの騒ぎの勝者気取りでいる。


「今日は私が神崎家のために、余計なものを片づけてあげる。蓮司様が来れば、誰が一番ふさわしいかおわかりになるでしょうね」


 美玲はつま先で私のサンダルを蹴り、私の足元へ転がした。それからしゃがみ込み、私の顎をつかむ。


「藤堂佳奈、あなたって本当にかわいそう。犬以下の扱いを受けているくせに、まだ蓮司さんにしがみつくつもり?」


 奥の席から、また押し殺したような音がした。


 私は振り返らなかった。


 けれど、本物の佳奈が聞いていることはわかっていた。



 11



 ばん、と扉が開く音がした。


 ラウンジにどよめきが走り、誰かが蓮司様だと叫ぶ。床に押さえ込まれた私には、乱れた足音から彼が来たのだと判断するしかなかった。


 神崎蓮司は、取り巻き二人に肩を回しながら大股で入ってきた。酒の匂いをまとい、シャツのボタンを三つも外している。いかにも自分が世界の中心だと思っている御曹司の姿だった。


 美玲は私の顎から手を離し、蛇のように彼へ絡みついた。


「蓮司さん! 佳奈さんが急に暴れたんです。あなたがくれたパテックを壊して、私まで叩いて……見てください、膝も血が出ているんです」


 蓮司は彼女の膝に視線を落とし、顔を険しくした。


 それから私のほうへ二歩近づき、眉間にしわを寄せる。


「藤堂佳奈。俺は品物を届けろと言っただけだ。ここで騒ぎを起こせとは言っていない。美玲に手を出すなんて、誰に許された?」


 黒服たちの手に力がこもった。腕が外れそうなほど痛む。



 12



 そのとき、割れたスマホから耳障りな着信音が鳴り響いた。


 全員が一瞬だけ固まる。私は黒服たちの隙をつき、身をよじって抜け出した。よろめきながらスマホを拾い上げ、通話をスピーカーに切り替える。


 顔に貼りついた髪をかき上げると、蓮司が面倒そうにこちらを見た。


 その目が、次の瞬間、大きく見開かれる。


 私は彼を見据え、ゆっくり口を開いた。


「神崎蓮司。目を開けて、私が誰かよく見なさい」


 受話口から、怒りを押し殺した清隆の声が響いた。


「蓮司。私の妻に指一本でも触れてみろ。神崎家から叩き出す」


 蓮司のスマホが、ぽとりと床に落ちた。


 ようやく彼は、私の顔を見た。


 藤堂佳奈ではない。


 昨日、神崎家の親族チャットに現れたばかりの女。


 神崎澪。


 彼の父が新しく入籍した妻であり、つまり彼の継母だった。



 13



 どさり、と音を立てて、蓮司の膝が割れたガラスの上に落ちた。


 美玲は青ざめ、本能的に彼へ手を伸ばした。だが蓮司はその手を乱暴に振り払う。


 彼は私を見上げ、声を震わせた。


「み、澪さん……? どうして、ここに……」


 私は赤く締めつけられた手首をさすり、彼の前へ歩いた。そして一気に足を上げ、蓮司を床へ蹴り倒す。


 さっきまでふんぞり返っていた跡取り息子は、膝から血をにじませたまま、少しも動けなかった。


「ねえ、蓮司。今、私のことを何て呼んだの?」


 彼は喉を鳴らした。顔に浮かんでいるのは、媚と恐怖だけだった。


「お、お義母さん……」


 その呼び方は、やけに大きくラウンジ中へ響いた。


 さっきまで私の足を潰すと騒いでいた連中の顔から、一斉に血の気が引く。


 私は何も言わず、蓮司を見下ろした。


 若菜は顔を青くし、後ろへ下がろうとした。けれど足は床に縫いつけられたように動かない。



 14



 私は数歩で若菜の前に立ち、左右の頬を続けて打った。


 若菜はよろめき、床に崩れ落ちる。頬を押さえたまま、もう声も出せない。


「一発目は、さっきの分。二発目は、佳奈の分の利息よ」


 私は振り返り、十数人の黒服たちを見渡した。


 彼らの足は震え、特殊警棒はとっくに床に落ちている。最初に耐えきれなくなったのは、先頭にいた男だった。膝をつく音が響くと、二人目、三人目も続き、あっという間に床は土下座だらけになった。


 私は蓮司の磨き上げられた革靴を踏みつけた。高そうな靴の甲が、みっともなくへこむ。


 それからソファに腰を下ろし、脚を組んで彼を見下ろした。


「蓮司。さっきこの人たち、あなたの母親の足を潰すって言ったわ。聞いていたでしょう?」


 私はスマホを軽く揺らした。


「もう一度、お父様に電話してあげようか」



 15



 蓮司の額から汗が落ちた。


 彼は美玲を一度見て、床に跪く黒服たちへ視線を移す。そして歯を食いしばるように言った。


「言ったやつから、自分で殴れ。澪さんが止めるまで、誰もやめるな」


 ぱん、ぱん、と頬を打つ音があちこちで響き始めた。ラウンジの音響よりも耳に残る、情けない音だった。


 黒服たちは一列に並び、左右の頬を自分で叩く。金髪の坊ちゃんは特に必死で、片頬がもう腫れ上がっていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、それでも私に向けて媚びた笑みを作ろうとする。


 私は瓜子を一つつまみ、首を振った。


 見苦しい。


 美玲は隅で青ざめていた。そろりと入口へ足を向ける。


「そこまで」


 彼女の体が、その場に釘づけになった。


 私は蓮司を見た。


「あなたが大事にしている美玲さんは、さっき私に跪けと言ったわ。それに、この店なら私を始末するくらい虫を踏むようなものだとも言っていた」


 蓮司は転がるように私の足元へ来て、縋りついた。指先は美玲へ向けられている。


「お義母さん、俺は何も知りません! あいつが勝手に店で騒ぎを起こしたんです。若菜も、あいつが呼んだんです。俺は関係ありません!」


 美玲の目が赤くなった。


「蓮司さん……?」


 蓮司は彼女を見もしなかった。床に額を打ちつけ、必死に頭を下げる。


「俺が悪かったです。今回だけは、どうか見逃してください」



 16



 その醜態を見ていると、私は本気で佳奈が気の毒になった。


 継母である私が言うのも変だが、どこのまともな女性が、こんな男と結婚したいと思うのだろう。神崎清隆ほどの人間が、なぜこんな息子を育ててしまったのか不思議でならない。


 蓮司は美玲を押さえるよう黒服に命じた。


 美玲の髪は乱れ、メイクは崩れ、片方のつけまつげは落ちていた。それでも彼女は、突然笑い出した。


 最初は小さく、やがて壊れたように大きくなる。最後の命綱を見つけたような笑い方だった。


「はは……あはははは!」


 美玲はバッグを開け、中から写真の束を取り出した。


 それは、私が今夜このラウンジへ入る前に撮られたものだった。



 17



 写真の中では、若く整った顔立ちの男が私の肩を抱いていた。距離は近い。


 撮影角度が巧妙で、どう見ても意味ありげに見えるよう切り取られている。


 美玲は口元の血をぬぐいもせず、勝ち誇ったように笑った。


「ただの継母のくせに。神崎会長と入籍したばかりで、男遊びですか。神崎夫人、そんなあなたに私たちを責める資格があります?」


 その言葉で、周囲の視線が一斉に私へ突き刺さった。


 さっきまで自分の頬を叩いていた黒服たちの動きも鈍くなる。二世の坊ちゃんたちも、また少しだけ強気を取り戻したらしい。


「やっぱりな。どこの誰とも知れない女が、神崎会長に釣り合うわけないと思ってたんだ」


「入ったばかりで神崎家の名に泥を塗るなんて、終わってるだろ」



 18



 蓮司は写真を見るなり、目に光を戻した。


 この愚か者は、ようやく私の弱みを握ったつもりでいる。


 彼はゆっくり立ち上がり、膝の埃を払った。薄ら笑いを浮かべて、私を見る。


「お義母さん。この写真が父に渡れば、神崎夫人の座も危ういのでは? 今夜のことは、お互い水に流すということでどうですか」


 私が答えるより早く、美玲がスマホを取り出した。指先が素早く画面を滑り、カメラが私へ向けられる。


 配信が始まった。


 タイトルには、こう出ている。


 財閥会長の新妻、深夜に若い男と密会。


 コメントは濁流のように押し寄せ、同時視聴者数は一気に膨れ上がった。さっきまで跪いていた者たちが立ち上がり、またいやらしい目でこちらを見始める。


 蓮司は腕を組み、口元を歪めた。


「これで言い逃れできませんね」


「継母になったばかりで男遊び?」


「財閥夫人の深夜密会、これは大ネタ」


 その顔は、こう言っているようだった。


 澪さん、あなたはもう終わりだ。



 19



 私は画面いっぱいの罵声を眺め、また尾を立て始めた人々を見回した。


 思わず笑ってしまった。作り笑いではない。本当におかしかった。


 私は生まれてこの方、泥をかぶせられることを恐れたことがない。


 真実は、長く説明する必要がない。ただ待てばいい。


 そして私が待っていた人は、もう来ていた。


 ラウンジの外で、鋭いブレーキ音が重なった。


 一台ではない。何台もの車だ。密集したエンジン音が、店内の喧騒をのみ込んでいく。


 ガラス越しに外を見ると、黒いロールス・ロイスの列が店の前の道を塞いでいた。


 美玲の配信はまだ続いている。コメント欄の空気が、一瞬で変わった。


 蓮司の笑みが固まる。


 彼はこの車列を知っていた。


 東京でこの規模の出迎えを許される人間など、そう多くない。


「なに、この車列」


「全部カリナン? 誰が来たの?」


 ラウンジの扉が護衛たちに開かれた。


 黒いスーツにイヤホンマイクをつけたボディガードたちが次々と入ってきて、瞬く間に店内を押さえる。


 そして、日本有数の財閥会長、神崎清隆が姿を現した。



 20



 清隆は深いグレーの仕立てのいいスーツを着ていた。ネクタイは少しの乱れもない。


 五十代前半の男だが、若い男には到底出せない圧があった。ラウンジの温度が、一気に十度ほど下がったように感じる。


 蓮司は父の姿を見つけるなり、テーブルの上の写真をつかんで駆け寄った。ようやく後ろ盾が来たと思っているのだろう。自分だけ泥から抜け出したくてたまらない顔だった。


 だが彼は気づいていない。清隆の視線は入ってきた瞬間から、ずっと私の傷に注がれていた。


「父さん、ちょうどよかった! 見てください。この女、あなたと入籍したばかりなのに、若い男と――」


 清隆は写真を受け取り、一瞥した。


 次の瞬間、彼の手が動いた。


 蓮司の頬を打つ音は低く重く、私が金髪の坊ちゃんを殴ったときよりずっと鈍かった。



 21



 蓮司は半回転し、ボックス席の縁にぶつかってよろめいた。


 清隆は写真を彼の顔へ投げつけ、凍るような目で見下ろした。


「愚か者。電話の時点で嫌な予感はしていた。よく見ろ。写真の男は澪の実兄だ。お前にとっては伯父にあたる。今日、ニューヨークから帰国したばかりだ」


 場が一秒だけ静まった。


 次の瞬間、笑い声が爆発した。美玲の配信コメントも一気に祭り状態になる。


 蓮司は頬を押さえたまま、呆然としていた。


「そ、そんな……あんなに若いのに……」


 清隆の胸が怒りで上下する。


「澪はお前より三つ年下だ。彼女の兄が若く見えて、何が不思議だ」


 コメント欄はさらに荒れた。


「継母が息子より三歳下? 情報量が多すぎる」


「若すぎる義母に土下座した上に、実の伯父を男遊び相手扱いとか、今夜すごすぎる」


 蓮司の顔は赤黒く染まり、今すぐ床の隙間にでも消えたそうだった。



 22



 笑いがまだ収まらないうちに、清隆は私の前へ来た。


 彼の視線が私の口元に落ち、次にガラス片の刺さった膝へ移る。彼はごく軽く私の手首を取った。


 赤い痕を見た瞬間、その拳がゆっくり握り込まれる。


 次に顔を上げたとき、彼の目はラウンジごと凍らせそうなほど冷たかった。


「今日ここにいた者は、誰であろうと関係ない。私の妻に触れた手で、その代償を払ってもらう」


 沈黙のあと、全員が一斉に慌て始めた。


 何人かの黒服は、言われる前から自分の頬を叩き始める。若菜は腰を抜かし、美玲は全身を震わせた。スマホは床に落ちているが、配信だけはまだ続いていた。


 私は清隆の腕の中へ身を寄せ、まず若菜を指さし、それから美玲を示した。


「清隆。あの子に叩かれたの。あの女には、ワンピースを踏まれたわ」


 清隆が私を見下ろす目は、骨まで溶けるほど優しかった。


 けれど振り返った瞬間、その柔らかさは跡形もなく消えた。


 彼がスマホを取り出そうとしたので、私は手を添えて止める。そして背伸びをし、耳元で短く囁いた。


 清隆は小さくうなずいた。


 電話がつながると、彼は一言だけ残した。


「三分以内に藤堂家へ連絡しろ。藤堂若菜名義の口座をすべて凍結し、相続の予定から外させる。従わなければ三か月以内に、神崎グループが藤堂の会社を立っていられなくする」


 若菜は全身から力が抜けたように、その場へ膝をついた。


「神崎伯父様、私が悪かったんです!」



 23



 その言葉が終わる前に、ラウンジの外から怒号が聞こえてきた。


 鉄パイプを持った男たちがなだれ込んでくる。先頭にいたのは、顔に傷痕のあるスキンヘッドの男だった。


 彼は入ってくるなり若菜へ向かい、髪をつかんで床から引き起こした。


「俺の子を妊娠しておいて、知らないふりか?」


 傷痕の男は若菜を自分の前へ引きずり、低く荒い声を顔に叩きつけた。


 さっきまで騒がしかったラウンジが、死んだように静まり返る。


 若菜は必死にもがいた。髪は乱れ、涙でアイラインがにじみ、ファンデーションも崩れている。


 藤堂家が大事に飾ってきた「名家の令嬢」は、今や隠しようのない惨めさだけをさらしていた。


「嘘よ! あなたなんて知らない!」


 男は鼻で笑い、ポケットから産婦人科の診療明細を取り出した。それを若菜の顔へ投げつける。


「名前も書いてあるだろ。妊娠六週。まだしらばっくれるのか」


 美玲の配信はまだ続いていた。コメント欄は完全に爆発している。


 二世の坊ちゃんたちは若菜を見る目を、恐怖から軽蔑へ変えた。口元を隠して笑う者、スマホを取り出して撮影する者までいる。


 傷痕の男はすぐに清隆の護衛に取り押さえられた。


 けれど、暴かれるべきものは、もう十分に暴かれていた。


「藤堂家のお嬢様が、あんな男と?」


「名家の令嬢なんて言っても、佳奈さんの場所を奪っていただけの養女だろ」


 若菜はとうとう崩れ落ち、床の上で泣き出した。



 24



 全員の注意が若菜へ向いた隙に、美玲が腰をかがめて入口へ逃げようとした。


 二歩も進まないうちに、私の護衛が襟元をつかむ。彼女は引き戻され、私の足元へ投げ出された。


 私は床に落ちていた彼女のスマホを拾った。


 配信はまだ切れていない。


「逃げるつもり?」


 私は彼女のプライベートアルバムを開き、画面を二度ほど滑らせた。


 美玲の顔色が変わる。


 彼女はスマホを奪おうと飛びかかってきたが、私はその腹を蹴って押し返した。


「店の大型スクリーンにつないで」


 ミラーリングが始まった瞬間、ラウンジで一番大きなLEDスクリーンが光った。


 最初に映し出されたのは、エクセルの表だった。


 タイトルには「港区接待料金表」とある。


 五十万円から五百万円まで、時間と内容ごとに金額が細かく分けられていた。


「やめて! 見ないで! それは私のプライバシーよ!」


 私はさらに下へ進めた。


 二枚目には、彼女と複数の富裕層男性とのやり取り、そして細かな振込記録が並んでいた。三枚目は連絡先のメモだった。


 そこに神崎蓮司の名前があった。


 備考欄には、こう書かれている。


 一号ATM。騙しやすい。金はある。ベッドでは役に立たない。


 配信のコメント欄は、もはや収拾がつかなくなった。


 蓮司は画面の一文を凝視していた。顔色が赤から白へ、白から青へ変わっていく。


「騙しやすい……金はある……役に立たない……」


 次の瞬間、彼は床に血を吐いた。


 美玲は床に座り込んだまま、もう一言も出せなかった。



 25



 遠くからサイレンが近づいてきた。


 数台のパトカーがラウンジの前で止まり、警視庁の捜査員が店内へ入ってくる。先頭の捜査員は逮捕状を示し、すぐに美玲を床へ押さえつけた。


「白石美玲。売春防止法違反、詐欺、風営法違反の疑いで同行してもらいます」


 銀色の手錠が、かちりと音を立てた。


 彼女は床に伏せたまま、片方のつけまつげを落とし、口元に血をつけている。さっきまでの華やかさは、跡形もなかった。


 配信の最後のコメントが、画面に残っていた。


「今年一番の大ネタだった」



 26



 警察が人を連れていったあと、ラウンジに残ったのは低い電流音だけだった。


 割れたガラス、酒の染み、血の跡が床いっぱいに広がっている。茶番はようやく終わりに近づいた。


 けれど、まだ引っ張り出さなければならない人が一人いる。


 私は振り返り、ラウンジの一番奥へ歩いた。


 最初から最後まで、その女はそこに座っていた。皆が騒いでいるときも、誰かが跪いているときも、サイレンが鳴っているときも、ずっとそこにいた。


 私は彼女の前に立ち、深くかぶられたキャップを取った。


 現れたのは、青ざめた清楚な顔だった。


 藤堂佳奈。


 神崎蓮司の妻。


 藤堂家が地方から連れ戻した、実の娘。


 今夜の屈辱は、本来すべて彼女に向けられていたものだ。


 佳奈は、美玲がテーブルに叩きつけた避妊具の箱を握りしめていた。箱は指の形に歪んでいる。


 私と目が合うと、彼女はびくりと肩を震わせ、反射的に身を縮めた。



 27



 私はその箱を奪い取り、テーブルに叩きつけた。


 佳奈の肩が大きく跳ねる。


 私は声を柔らかくしなかった。


 今の彼女に必要なのは、憐れみではないとわかっていたからだ。


「佳奈。人に頭の上へ乗られて踏みにじられて、それでも隅で酒を飲んでいるだけ? 最初から最後まで、あなたはここで見ていた。誰かがあなたの代わりに殴られ、血を流しているのに、自分では立ち上がることもできなかったの?」


 佳奈は唇を開いた。声はかすれて、ほとんど聞き取れないほどだった。


「どうすればよかったんですか……藤堂家に戻ったばかりで、お父さんもお母さんも若菜しか見ていない。神崎家には力がありすぎて、蓮司は私を人間扱いしません。お金も、人脈も、頼れる人もいない。生きているだけで、精いっぱいだったんです」


 最後の一言は、電流音に消えそうなほど小さかった。


 けれど、私には聞こえた。


 私は彼女の手首をつかみ、ボックス席から引き出した。そして全員の前に立たせる。


「神崎蓮司なんて、大した男じゃない。今日から佳奈は私が守る。誰か一人でもこの子に手を出してみなさい。私が相手になる」


 佳奈は呆然と私を見た。


 照明が彼女の瞳に落ちる。何かがようやく割れ、そこから小さな光が戻ったように見えた。



 28



 佳奈が言葉を返す前に、ラウンジの入口がまた騒がしくなった。


 藤堂家の両親が来たのだ。


 藤堂夫人は店内の惨状と、膝をつく蓮司を見て、顔を真っ白にした。藤堂氏は人混みを見渡し、最後に佳奈を見つける。


「またお前か! お前が戻ってきてから、藤堂家は一日だって落ち着いたことがない。若菜がこんな目に遭っているのに、姉のお前がどうしてかばわなかった!」


 彼は大股で近づき、手を振り上げた。佳奈の頬へ向かって、平手が落ちてくる。


 佳奈は避けなかった。


 けれど、今度は縮こまりもしなかった。


 彼女は手を上げ、藤堂氏の手首をしっかり受け止めた。指の関節は白くなり、腕は震えている。それでも離さない。


「お父さん。叩く相手を間違えています」


 声はまだ震えていた。


 けれど一語一語に、今までなかった芯があった。


 次の瞬間、佳奈は反対の手で若菜の頬を打った。


 澄んだ音が、静まり返ったラウンジに響いた。


 それから彼女はバッグから書類を取り出し、蓮司の顔へ投げつける。


 白い紙には、彼女がずっと用意していた離婚協議書があった。


「神崎蓮司。こんな吐き気のする結婚も家も、私はもう要りません」



 29



 半月後、神崎蓮司は売春防止法違反、詐欺の共犯、風営法違反の疑いで警視庁に逮捕された。


 そのニュースはXのトレンド一位になった。


 港区の上流圏での話題は、しばらくそれ一色だった。神崎家の跡取り息子が、ついに捕まった、と。


 白石美玲はその後、東京地裁で詐欺罪などにより懲役十年の実刑判決を受けた。刑務所では工場の縫製作業に回されたらしい。初日から足が痛いと泣いた、という噂まで流れた。


 若菜は、あの傷痕の男に連れられ、下町の古い木造アパートで暮らすことになった。藤堂氏に何度も電話をかけて助けを求めたらしいが、藤堂家の電話が彼女につながることは二度となかった。


 佳奈は離婚後、再出発に十分な財産分与を受け取り、神崎家を出た。


 彼女は浪費に走らず、私の支援を受けて高級ベーカリーを開いた。


 店の名前は「佳奈のキッチン」。


 開店の日、列は二百メートル先まで伸びた。


 よく晴れた午後、佳奈は焼きたてのキャラメルバスクチーズケーキを持って、神崎家の屋敷へ来た。


 私たちは庭でアフタヌーンティーをした。藤棚からこぼれた光が、テーブルクロスの上に揺れている。


「澪さん、これ食べてみてください。新しく作ったキャラメルバスクです」


 佳奈の顔色は、以前よりずっとよかった。眉間にあった影も消え、笑うと別人のように見える。


 私は一口食べた。


 たしかに、おいしい。



 30



 ちょうどそのとき、清隆がピンクのハローキティのエプロンをつけ、切ったフルーツを持ってキッチンから出てきた。


 昼間は日本の財界を動かす神崎会長が、今は手慣れた様子で果物の皿を私のそばに置いている。


 彼はそのまま私の後ろに腰を下ろし、肩を揉み始めた。


「澪、力加減はどうだ?」


「もう少し軽く。左を多めにお願い」


「ああ」


 その様子を見た佳奈は、危うくケーキを吹き出しそうになった。


 テレビでは事件の続報番組が流れていた。画面の中では、蓮司が拘置所の灰色のスウェットを着て、鉄格子の向こうで反省文を読んでいる。


「私は自分の過ちを深く反省し……」


 私と佳奈は目を合わせ、同時に笑ってしまった。


 清隆の手が一瞬止まる。彼は私たちの視線を追ってテレビを見やり、心底嫌そうに眉をひそめた。


「何を笑っている」


「別に。あなたの息子を見ていただけ」


「あれは神崎家の恥だ」


 そう言うと、清隆は何事もなかったように私の肩を揉み続けた。


 まるでテレビに映っている男など、自分とは何の関係もないと言わんばかりだった。



 31



 笑っていると、私の専属ボディガードが目を輝かせて庭へ駆け込んできた。


 百メートル走でもしてきたみたいに息を切らしているのに、声だけは妙に弾んでいる。その顔を見た瞬間、私は悟った。


 また大ネタだ。


「奥様! 最新の大ネタです! 国民的俳優が、渋谷の路上でゴミ箱にキスしているところを撮られました。動画も出回っています!」


 手元のケーキが、皿の上へ落ちた。


 私の目は一瞬で輝いた。


「何ですって? ゴミ箱に?」


 ボディガードは力強くうなずく。


「はい! しかも分別用のゴミ箱です。可燃ごみのほうでした!」


 私は立ち上がり、テーブルの上にあったキャラメル味の瓜子を一つかみして、エルメスのバッグへざらざらと入れた。


 佳奈もケーキを置き、スカートの裾を持って立ち上がる。顔には同じ種類の期待が浮かんでいた。


「佳奈、行くわよ!」


「澪さん、どこへ?」


 私はもう、神崎家の屋敷の門を押し開けていた。


「野次馬に決まってるでしょ!」


 夕日がちょうどよく、金色の光が私の上へ降りていた。


 私は安いサンダルのまま、夕日に向かって大股で門を出る。背後からは、佳奈が小走りで追ってくる足音と、清隆のあきれたため息が聞こえた。


 人生なんて、そんなものだ。


 面白いものを見に行けて、喧嘩もできて、守ってくれる人がいて、気にかけてくれる人もいる。


 そういう人生は、悪くない。



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― 新着の感想 ―
面白かったです。読ませるのが上手いですね。 どうなるのか目が離せなかったです。
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