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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第54話「安全装置」


 母との会話を終えて、自分の部屋に戻った。

 しばらく天井を見ていた。

 それから、鞄を掴んで家を出た。


 REXへ向かう。

 確認したいことがあるというより、他に行く場所がなかった。逃げ場がない時に足が向くのは、いつもあの店だ。暗くて、狭くて、カビくさくて、誰もいない。それでも、俺にとってはそこが一番「考えること」を許してくれる場所だった。


 扉を開ける。鍵を回す。中に入る。

 薄暗い店内。古い筐体のシルエット。誰もいない空気。

 昨日と同じデスクトップPC。


 電源を入れて、椅子に座った。

 モニターが立ち上がるまでの十数秒、俺は消去法の最後の一手を頭の中で並べていた。


 初狩ではない——時系列が合わない。

 母ではない——文体が合わない。

 叔父ではない——去年のうちに死んでいた。


 その事実を順番に潰していくと、最後に残る候補は一つしかない。


 鍵を持っている。

 この店に自由に入れる。

 クエストの内容を知りうる。

 深夜二時に行動できる。

 あの文体に——。


 あの文体に、どこか見覚えがある。

 他人の言葉を模写したような詩的な言い回しの中に、俺自身の思考の癖が混じっている。小説を書くとき、そして都市伝説を分析する時の視点。人の痛みの断片を拾い上げてミッションに変換する構造。あれは、観測者の——。


 自分。


 その考えに触れた瞬間、身体が先に拒否した。

 冷や汗が背筋を伝う。喉が狭くなる。頭が「そんなわけない」と言うより早く、身体のほうが「そこへ行くな」と叫んでいた。


「……いや、待て」


 声が擦れた。


「俺が、そんなこと——」


 その時、暗がりの中で何かが動いた。


 古い筐体の向こう。モニターの逆光に照らされた薄闇の中に、白い輪郭が滲んでいる。

 オボロだ。

 だが、以前よりも明らかに薄い。最初に会ったときに感じた違和感が、もう気のせいでは済まないレベルになっていた。白い毛並みの輪郭が暗がりに溶けかけている。まるで水で薄めた絵の具で描かれた絵のように、周囲の闇との境界が曖昧だ。

 けれど声だけは、妙にはっきりしていた。


『そうじゃ』


 低く、静かに。


『ここまで消していって、最後に残るのは、お主《ぬし》だけじゃ』


 振り向いた。

 怒鳴ろうとした。だが喉から出たのは、怒鳴り声ではなく、擦り切れたような声だった。


「何言ってんだよ」

『聞こえておろう』

「俺が送ったっていうのか、あれを。全部のクエストを、俺が——」

『そうじゃ』

「だったら、なんで俺は覚えてない」


 その問いに、オボロは少しだけ間を置いた。

 薄い輪郭が、かすかに揺れる。笑っているのか、それとも消えかけているのか、区別がつかない。


『覚えておらぬのではない』


 声が、少しだけ柔らかくなった。


『覚えすぎたから、こうなったのじゃ』


 オボロは語り始めた。

 いつもの皮肉や軽口はなかった。古風な口調はそのままだが、どこか——諭すような、あるいは告白するような声音だった。


『クエストメールは、外から来たものではない』


 その一文が、REXの空気を変えた。


『お主(ぬし)の中で溢れたものが、形をとって外へ出たのじゃ』


 俺は黙って聞いていた。否定したかった。だが、声が出なかった。


『深夜二時。お主は眠れず、あるいは眠ったまま、ここへ来ておった』

「……嘘だ」

『嘘ではない。お主の靴の裏に、朝になると泥がついていたことがあったろう。寝汗だと思ったものが、実は夜風に当たった後の冷えだったこともあったろう』

「……」


 反論が、出てこなかった。

 思い当たる節がある。いくつも。朝起きた時の妙な疲労感。靴下が汚れていたこと。記憶にないのに、身体だけが覚えている夜の痕跡。


『この廃墟ゲーセンの噂を覚えているか?』

「丑三つ時に、無人のはずの筐体がひとりでに動くってやつだろ? だからあれは俺が……」

『時刻を考えろ。おまえが放課後に寄るような夕方ではない。丑三つ時じゃ』

「つまり夜中の二時頃……」


 書きかけのメールの保存日時が深夜二時であった。


『見過ごせない違和感、拾ってしまう言葉、人の痛みの断片——お主《ぬし》はそれを、そのまま抱えれば壊れる』


 オボロの声が、少しだけ低くなった。


『じゃから、"クエスト"という形にした。課題に変えれば、お主(ぬし)は観測だけで終わらず、動けた。見過ごせなかったものを、見過ごさずに済んだ』


 REXの天井が、やけに高く見えた。

 暗い。

 古い配線が蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。その向こうは闇で、何も見えない。


『我は、そのための器じゃ』


 オボロの声は揺れなかった。


『お主(ぬし)が壊れぬよう、記憶と痛みを少しずつ外へ逃がすための——狐の面をかぶった、逃げ道じゃ』


 聞きながら、否定したいのにできなかった。

 だってそうだ。思い返せば、クエストの文体にはずっと妙な既視感があった。他人の言葉を模写したような詩的な調子でありながら、分析の仕方が俺自身の癖に似ていた。人の痛みの構造を解体して、ミッションの形に組み直す——あれは、観測者の手口だ。

 他人の手口ではない。

 俺の手口だ。


「じゃあ——」


 声が震えた。


 逃げ道。安全装置。クエストを外へ出すための器。それはわかった。仕組みとしては、わかった。

 だが、わかったことで別の穴が開いた。


「あの日お前が生まれたなら——なんで俺は、REXで初めて会ったと思った」


 小学五年の冬からいたのなら、中学の三年間も、高校に入ってからも、ずっとそばにいたはずだ。なのに俺の記憶では、あの暗い店の中で白い影を見た時、「初めて」だと思った。驚いた。怖がった。見知らぬ妖怪に出くわしたみたいに。


 オボロは、少しだけ間を置いた。


『お主(ぬし)の記憶を外に逃がすのが、我の役目じゃ』


 静かな声だった。


『我自身も、その例外ではなかった』


 意味がわかった瞬間、背筋が冷えた。

 オボロは俺の痛みだけを逃がしていたのではない。オボロという存在そのものも、必要のない時には俺の意識から消えていた。いたのに、いなかったことにされていた。俺の頭の中で。俺を守るために。


 あのREXでの「初対面」は、再会だったのだ。何度目かもわからない。


「……ずっと、そうだったのか」


 声が擦れた。


「お前がいたことすら、俺は忘れさせられてたのか」


 オボロは答えなかった。答えないことが、答えだった。

 逃げ道。安全装置。そう言われれば、機能としては理解できる。

 だが——あの日カッターナイフを止めてくれた存在を、俺は何度も忘れて、何度も初めましてのふりをして、そのたびにオボロは黙って受け入れていたのか。


「お前は——俺にとって、何だったんだよ」


 仕組みの話じゃない。

 忘れられるたびに名乗り直して、忘れられるとわかっていて隣にいた存在は、安全装置なんて言葉で片づけていいものなのか。


 オボロは、笑った。

 笑ったと思う。輪郭が薄すぎて、表情がよく見えない。ただ声の温度だけが、ほんの少し上がった。


『お主(ぬし)が生んだ、都合のよい化け物よ』


 その言い方は、自嘲のようでもあり、どこか誇らしげでもあった。


『記憶を抱えすぎた子どもが、自分を守るために作った——名前付きの隠れ場所じゃ』


 言葉が、胸の底に落ちた。

 重くて、冷たくて、でも——心当たりがありすぎて、跳ね返せなかった。


 小学五年の冬。

 教室の隅で殴られて、ノートを踏みにじられて、ポケットのカッターナイフに手をかけた日。

 あの日、白い狐が現れた。

 俺を止めたのは、理性でも勇気でもなく、あの白い影だった。


 あれが。

 あの瞬間に生まれた、俺の——。


『じゃが、それでもまだ全部ではない』


 オボロの声が、少しだけ硬くなった。


『今お主(ぬし)が知るべきは、差出人が外ではなかったということだけじゃ』


 一拍、間が空いた。


『そして——外ではなかったからこそ、今度は逃げ道では足りぬということじゃ』


 その意味を、すぐには飲み込めなかった。

 逃げ道では足りない。

 クエストという形に変換して、他人の問題として処理することで自分を守ってきた仕組みが、もう通用しない。そう言っているのか。


 問い返そうとした。

 だが、オボロの輪郭がさらに薄くなっていくのが見えて、言葉が喉で詰まった。


 その時。

 ポケットの中で、スマホが震えた。


**


 一瞬、呼吸が止まった。


 初狩からだ。


 画面に表示された名前を見て、指が固まった。何日ぶりだ。既読すらつかなかった人間から、メッセージが来ている。

 たった一通。


 開けない。

 怖い。

 ここで開いて、もし——もしそこに、もう手遅れだと思い知るような言葉が書かれていたら。


 でも、開くしかない。


 親指が画面に触れる。

 LINEのトーク画面が開く。

 初狩のアイコン。送信時刻は数分前。


 文面は、短かった。


『ごめんなさい。もう、わたしの絵がどれかわかりません』


 画面を見たまま、動けなくなった。

 「ごめんなさい」から始まっている。謝っている。何に対してだ。俺にか。それとも自分自身にか。

 「わたしの絵がどれかわかりません」だと?

 模倣アカウントとの区別がつかなくなったのか。自分で描いた絵と、壊すために描いた絵の境目が消えたのか。それとも——もっと根本的に、「自分の線」がわからなくなったのか。


 スマホの光が、暗いREXの中で白く浮いている。

 モニターの青い光と、スマホの白い光。二つの明かりだけが、この廃墟を照らしている。


 返事を打とうとした。

 何を打てばいい。「大丈夫か」はもう送った。届かなかった。「待ってくれ」か。「俺が何とかする」か。どれも薄い。どれも、今の初狩には届かない。

 俺の言葉は、俺が思っていたより——ずっと非力だ。


 REXの暗がりの中で、PCのファンだけが低く回り続けている。

 オボロの姿は、もう見えなかった。

 薄くなった輪郭が、いつの間にか暗闇に溶けきっていた。


 スマホの画面が、自動で消灯する。

 暗転した液晶に、自分の顔が薄く映った。

 情けない顔だ。

 昨日も同じことを思った。一昨日も。


 それでも——。

 画面をもう一度点ける。

 初狩の文面を、もう一度読む。


――『ごめんなさい。もう、わたしの絵がどれかわかりません』


 返信欄に、カーソルが点滅している。

 俺はまだ、何も打てないでいる。




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