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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第5章 【ドッペルゲンガー】
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■第35話「誰にもコピーされない人間」


 夏休みも一週間が過ぎると、部活の練習音もまばらになって、校舎はどこか抜け殻みたいな静けさになる。


 被服部の活動日に登校すると、旧館の廊下は蒸し暑かった。渡り廊下の窓が開け放たれていて、生ぬるい風と一緒に、グラウンドで素振りをしている野球部の掛け声が遠くから聞こえてくる。


 家庭科準備室のドアを開けると、初狩《はつかり》はもう来ていた。スケッチブックに向かっている背中。イヤホンを片耳だけ外して、こちらを振り向いた。


「高尾クン。遅刻ですよ」

「十分前だろ」

「わたしは三十分前に来ました」


 別にそれは自慢にならないだろ、と言いかけて、やめた。画面を覗くと、昨日の途中だった線画に色が乗り始めていた。水面に光が落ちている構図。薄い青と白の重なりが、画面越しにも冷たく見える。


「進んでるな」

「はい。今日中に仕上げたいので」


 初狩はそう言って、すぐに画面に目を戻した。ペンが走る。迷いのない動き。


 俺は裁断台の端に荷物を置いて、パイプ椅子を引いた。今日は笹子先輩と山田先輩は来ていない。夏休みの被服部は出席が緩い。初狩と二人きりの部室は、ミシンの音がない分、ペンが紙を擦る音だけが妙にはっきり響いた。


 スマホを開いた。Discordに、ねむからメッセージが来ている。


 『才。ちょっと気になる話がある。時間あったらREXで通話できる?』


 時刻は今朝の九時。俺が起きる前に送られていた。ねむは夜型のはずだが、最近は生活リズムが少しずつ前にずれてきている。外に出られるようになってから、ほんの少しだけ。


 もうひとつ、ねむからのメッセージ。


 『谷上瑠璃って知ってる? あの子の周辺、ちょっと変なんだよね』


 ——谷上瑠璃。


 ゲーセン前で見かけた女生徒が、こっちでも話題に上がる。


 俺は初狩に声をかけた。


「初狩は、谷上瑠璃って先輩、知ってるか?」


 ペンが止まった。彼女が振り返る。


「瑠璃先輩ですか。被服部に来たことありますよね、夏休み前に。メイク動画の人」

「最近、あの人のまわりでなんか騒ぎ起きてるか?」


 「騒ぎ……」初狩は少し考えてから、「あ、そういえば。SNSで谷上先輩のメイクを真似してる人が増えてるって話は見ました。わたしのタイムラインにも、似た雰囲気の動画がやたら流れてきて」


「どのくらい?」

「一日に五、六本は。サムネイルだけ見ると、正直、区別がつかないです」


 初狩はそう言って、自分のスマホを持ち上げた。タイムラインをスクロールして見せてくれる。確かに、似た色味、似た構図のサムネイルが並んでいる。どれが谷上瑠璃の本人で、どれが別人なのか、一瞬では判断がつかなかった。


「クエストとの関連、ですか」


 初狩の声が少し低くなった。


「まだわからない。ねむが何か掴んでるかもしれない。今日REXで通話する」

「わたしも行きます」

「いや、お前は今日中に仕上げるんだろ。無理すんな」


 初狩は一瞬黙って、それから小さく頷いた。


「……わかりました。でも、何かわかったら教えてください」

「ああ」


 部室を出るとき、背後で通知音が鳴った。初狩のスマホだ。振り返ると、画面をちらっと見て、またスケッチブックに向き直っていた。口元がほんの少しだけゆるんでいる。


 たぶん、絵への反応だ。


 俺は何も言わずにドアを閉めた。



**



 REXの裏口に回り、中に入る。


 夏の廃墟ゲーセンは、サウナだった。コンクリートの壁が昼の熱を吸い込んで、中に溜め込んでいる。ポータブル電源で扇風機を回しても、空気を掻き混ぜるだけで温度は下がらない。筐体のガラスが汗をかいていた。


 ノートPCを起動して、Discordの通話に入った。


「ねむ。聞こえるか」


 数秒の間があって、ねむの声が返ってきた。通話越しでも、声は小さい。


「……うん。聞こえてる」

「朝のメッセージ、谷上先輩がどうしたって?」

「うん、えっと」


 ねむは少し言い淀んでから、話し始めた。肉声のねむは、テキストのねむとは別人みたいに言葉が詰まる。


「……前にフォーラムで都市伝説のログ漁ってたとき、『どっぺるさん』関連のスレッドがちょっと動いてた。内容は、自分に似た人間がネット上に増えてるって話。最初はただの都市伝説ネタだったんだけど」

「けど?」

「実名、っていうか。実際のアカウント名が出始めてた。そのひとつが谷上瑠璃」


 俺は画面の前で姿勢を正した。


「どういう文脈で?」

「……待って。画面共有する」


 ねむが画面を共有した。ブラウザにタブがいくつも開いている。投稿サイトのスクリーンショット、Xの検索結果、動画サイトのおすすめ欄。


「これ見て。谷上瑠璃のアカウントと、模倣っぽいアカウントを並べた。ざっと二十件くらい拾えた」


 画面に並んだサムネイルを見た。


 ——似ている。


 初狩のタイムラインで見たのと同じだ。色味、構図、前髪、リップ、涙袋、カメラの角度。どれも谷上瑠璃に寄せてある。ただし、完全な一致ではない。微妙にずれている。ずれているのに、サムネイルだけ見ると区別がつかない。


「で、これが大事なとこなんだけど」


 ねむの声が、テキストのときに近い硬さを帯びた。画面の中で何かを準備しているのが見える。


「この二十件、全部調べた。結論から言うと、悪意でやってるのは……たぶん、一件もない」

「一件も?」

「うん。ほとんどが、単に流行りを取り入れてるだけ。谷上瑠璃の動画を参考にしたって明言してる子もいれば、その参考元とさらに真似している子もいる。いわゆるパクリや嫌がらせでコピーしてる人は、少なくとも今の段階では見つからなかった」


 俺は椅子の背もたれに体を預けた。


 悪意がない。


 犯人がいない。


 誰かひとりを突き止めて、やめさせれば終わる話ではない。


「……つまり、流行ってるだけ、ってことか」

「そう。谷上瑠璃の"雰囲気"が広まってる。それ自体は、あの子のスタイルが認められた証拠でもある。真似したいと思われるくらい影響力がある、ってこと」


 ねむの声が少し途切れた。通話越しに、キーボードを叩く音が聞こえる。


「……でも、才。それって裏返すと、すごく嫌な話でもあるよ」

「どういう意味だ」

「コピーされるってことは、コピーする価値があるってことでしょ。誰も真似しない人間は、そもそも影響力がないってこと。存在を認識されてないってこと」


 ねむは淡々と言った。テキストのときの冷たさではなく、自分でも痛いところに触れているような、慎重な声だった。


「……谷上瑠璃は、コピーされすぎて自分がその中に埋もれることを怖がってる。たぶん。でも、コピーされない人間は——」

「ねむ」


 俺はとっさに彼女の言葉を止めようとしてしまう。


「——最初から、注目すらされない」


 思わずモニターから目を逸らした。


 REXの壁際にある格闘ゲームの筐体が、扇風機の風で微かに振動していた。ガラス面に自分の顔が映っている。半透明の、輪郭のあいまいな顔。


 ——知ってる。そんなこと。


 この前、この同じ画面の前で見た数字を思い出す。閲覧数24、ブックマーク0。あの数字は、模倣の対象になるどころか、存在自体が認識されていないことの証明だった。


 ふと、右肩のあたりに冷たい気配を感じた。


 オボロだ。


 白い毛並みが視界の端にちらつく。姿は見えないが、気配でわかる。こいつはいつも、俺が嫌なことを考えているときに近くにいる。


 通話はまだ続いている。ねむが何か別のデータを開いている気配がする。


 その間に、俺はもうひとつのタブを開いた。


 自分の小説のタイトルを検索した。


 結果:該当なし。


 ペンネームで検索した。このペンネームを知っている人間は、たぶんこの世に俺以外いない。


 結果:本人のアカウントのみ。


 作品名の一部で検索した。感想を書いている人間、引用している人間、話題にしている人間。


 誰もいなかった。


 検索結果のページが、白い。何も表示されていない画面が、モニターの中で光っている。


 谷上瑠璃は、コピーされすぎて苦しんでいる。


 初狩は、絵が認められて通知が鳴り続けている。


 俺は——。


 検索しても、何もヒットしない。


 コピーする価値がないのだから、当然だ。模倣されるということは、少なくとも誰かの目に止まったということだ。参考にされるということは、少なくとも何かを持っていると思われたということだ。


 俺のマイページには何もない。真似する対象にすらならない。存在していないのと同じだ。


『主(あるじ)よ』


 オボロの声が、耳の奥に直接響いた。低く、静かな声。


『また覗いておるな。自分の傷を』


 ——うるさい。


『覗くなとは言わぬ。ただ、今はそれを見るべき時か? 目の前に解くべき問いがあるのではないか』


 ……わかってる。


 検索のタブを閉じた。ねむの画面共有に視線を戻す。


「才?」

「ああ。聞いてる」

「……大丈夫? 少し黙ってたけど」

「回線が重かっただけだ。続けてくれ」


 ねむは少し間を置いてから、「……うん」と言って話を再開した。疑っているかもしれない。でも、追及はしてこなかった。


「まとめると、今回の件は"誰かの悪意"を止めれば解決する話じゃない。流行そのものが構造的に広がってる。止めようがない」

「前の篠原先輩のときの閉鎖Discordみたいに、黒幕がいるわけじゃないってことか」

「うん。今のところは。ただ——」

「ただ?」

「完全ななりすましが出てきたら、話が変わる。今はまだ"似てる"レベルだけど、もし名前もアイコンも文体も完全にコピーしたアカウントが現れたら、それはもう流行じゃない。でも、今の段階ではまだそこまで行ってない。ただ、いつ出てきてもおかしくない」

「了解。引き続き見といてくれ」

「うん。何か動いたら連絡する」


 通話が切れた。


 REXの中が、急に静かになった。扇風機の首振りの音と、遠くで聞こえるセミの声だけが残っている。


 通話ウィンドウだけが残った暗い画面に、また俺の顔が映った。


 そのとき、スマホが振動した。


 XのDMの通知。初狩からだ。


 画像が一枚。今日仕上げた絵の完成版。水面に光が落ちている構図。朝、部室で途中だったやつだ。色が乗って、空気ごと画面に閉じ込めたような仕上がりになっていた。


 その下にテキスト。


『仕上がりました。今回はちょっと自信あります』


 さらに下に、もうひとつメッセージ。


『投稿したらまたリポストお願いします。高尾クンがリポストしてくれると、なんか嬉しいので』


 俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 初狩は、見つけてもらえる側の人間だ。


 絵を描いて、投稿して、通知が鳴って、数字が増えて、真似したいと思われて、コメントが来て。そのサイクルの中にいる。俺がリポストするまでもなく、あいつの絵は勝手に広がっていく。


 それなのに、わざわざ「高尾クンがリポストしてくれると嬉しい」と言う。


 その言葉が、優しさなのか、無邪気さなのか、それとも——。


 考えるのをやめた。考えると、碌なことにならない。


『了解。リポストしとく』


 短く返して、スマホをポケットにしまった。


 椅子から立ち上がって、REXの中を歩いた。奥のバックヤードまで行って、戻ってきた。意味のない往復だった。ただ、座っていられなかった。


 ——今回のクエストは、谷上瑠璃だけの問題じゃないかもしれない。


 コピーされる側には、「自分が埋もれる」恐怖がある。

 コピーされない側には、「そもそも存在していない」虚無がある。


 どっちも、"唯一"が壊れた先にある風景だ。


 壊れ方が違うだけで、行き着く場所は同じなんじゃないか。


 自分が自分であることの根拠が、どこにもない——。


 スマホが、もう一度振動した。


 今度はXではなく、LINEだった。


 笹子先輩からのメッセージ。


『才くん、今週の土曜日の午後って空いてる? 被服部でちょっと話したいことあるんやけど』


 珍しい。笹子先輩が個別に連絡してくることは滅多にない。


『空いてます。何かありました?』


 既読がついて、少し間があった。


『うん。瑠璃ちゃんのことで、ちょっと』


 ——瑠璃。


 ネットの騒動と、被害者本人。


 別々の場所で掴んでいた二本の糸が、明日、同じ部屋で結ばれようとしている。


 俺はスマホの画面を暗くして、REXの天井を見上げた。錆びた金具に蛍光灯の残骸がぶら下がっている。夏の終わりはまだ遠い。セミが遠くで鳴いている。


 コピーされる恐怖と、コピーされない虚無。


 このクエストは、他人事じゃない。


 わかっている。わかっているから——座っていられなかった。



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