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■第3話「観測者は嘘をつく」


 翌日の放課後。俺はさっさとゲーセンに行くつもりだった。


 もう校内をうろつく理由はない。昨日届いたあの謎のメールについて考えるなら、REXで一人の方がいい。そう思って、校舎裏を抜けようとした時だった。


「ねぇ、それで許されると思ってるの?」


 女子の声がした。苛立ちを隠そうともしない、尖った声。


 足が止まる。


 このまま通り過ぎれば、何も聞かなかったことにできる。俺にはその方が賢い。いつも通り、見なかったことにして終わりだ。


 けれど耳が勝手に拾ってしまう。


「男子に媚び売るの、やめたら?」

「は? 何の話ですか?」

「とぼけんなよ。漫研の時もそうだったじゃん。男子にちやほやされてさ」


 聞き覚えのある、抑揚の薄い声。


 初狩はつかり時雨しぐれだ。


 校舎の角の手前で足を止める。覗き込むと、初狩が三人の女子に囲まれていた。


 相模寧々。藤野陽葵。そしてもう一人、見覚えのある先輩——上野原めぐり。たしか、美術部の二年生だっけ。


 三人は腕を組んだり、腰に手を当てたりしながら、見下すように初狩を囲んでいる。


「男子の気を引くためにこんな絵描いてるんでしょ?」


 相模寧々が吐き捨てるように言う。


「……別に、そんな理由で描いてないですけど」

「いい加減、空気読めば? みんなが引いてんの、わかんないの?」


 藤野陽葵が追い打ちをかける。親が教師だと聞いたことがある、クラスでの立ち回りが妙に上手い女子。


 初狩は無表情を保っている。けれど、その手がわずかに震えているのが、ここからでも見えた。握りしめた指先が白く変色している。


 さらに追い詰めるように、上野原めぐりが動いた。


 初狩が抱えていたトートバッグに肩をぶつける。わざとだ。バッグが地面に落ち、中からスケッチブックが飛び出した。開いたページに、イラストが晒される。


「うわっ、キッモ!」

「こんなんで男子は盛り上がってたの?」


 相模寧々が指を差して嘲笑う。初狩がスケッチブックを拾おうとするが、上野原がその前に立ちはだかった。


「こんな絵はゴミよ」


 上野原の足が、スケッチブックの上に乗る。


 その瞬間——


 心のどこかで、何かが軋む音がした。


 昔の記憶が一瞬だけ閃く。教室で笑い声に囲まれる自分。床に叩きつけられたノート。「お前の話なんて、誰も読みたくねえんだよ」という声。


 すぐに消えた。でも、胸の奥に残った熱は消えない。


(……クエストだろうが何だろうが、関係ない)


 目の前で才能が踏みにじられている。それだけで、十分だ。


 だが、正面から飛び出すわけにはいかない。


 俺は頭を切り替える。


 男子が女子グループに突っかかっていけば、余計な誤解を招く。「初狩に色目を使ってる」と噂が広がれば、初狩の立場はさらに悪化する。感情に任せて動くのは、一番愚かな選択だ。


 俺は壁に背を預けたまま、頭を回転させる。


 目的を整理しろ。今やるべきことは一つ。あいつらをこの場から追い払うこと。永続的な解決じゃなくていい。まず、目の前の危険を排除する。


 いじめの加害者が最も恐れるものは何だ?


 答えは単純だ。証拠と、教師への発覚。


 実際に撮影していなくても、「撮影した」と思わせれば同じ効果が得られる。ブラフだ。そして、声から身元を特定されないようにする必要がある。


 スマホを取り出した。


 アプリのフォルダから、以前ふざけて入れたボイスチェンジャーを起動する。声のピッチを上げて、別人の声に変換。さらに非通知モードに切り替える。


 電話番号が必要だ。


 上野原めぐりの番号——。


 脳裏に、教室に置き去りになった回覧板が浮かんだ。昨日、何気なく視界に入った部活動の連絡先一覧。上野原めぐりの名前の横に書かれていた数字の羅列。


 なぜか、はっきり覚えている。


 ……まあいい。記憶力がいいのは昔からだ。今はそれがありがたい。


 番号を入力する。コール音が鳴った。


「……誰? 番号非通知とか、キモ」


 相手が出た。上野原めぐりの声だ。校舎裏の方でも、かすかに着信音が聞こえていた。


 俺は息を整え、口を開く。ボイスチェンジャー越しの声は、甲高い別人のものになっている。


「上野原めぐりだな」

「は? 誰だよ、お前」

「今、お前らがやってること、最初から撮影してたんだけどさ」


 沈黙。


「……は?」

「この動画、TikTokに流れたらどうなると思う?」


 ハッタリだ。実際には何も撮っていない。でも、確認する手段は相手にはない。人間は「証拠があるかもしれない」という可能性だけで動揺する。


「おい! 何言って——」

「信じるか信じないかは自由だ。でも試してみるか? それともTikTokじゃなくて、教師にチクった方がいいか?」


 声は淡々と。感情を乗せない。感情的な脅しは相手に反撃の余地を与える。事務的に、冷たく、事実だけを突きつけるように。


 校舎裏でざわめきが起きた。


「ねぇ、どうしたの?」

「なんか変な電話……この現場を撮影してるとか言ってる」

「マジで?」


 いじめっ子たちが顔を見合わせる。


「TikTokに流すって言ってるんだけど」

「ヤバくね?」

「炎上したら最悪じゃん……」


 小声で相談する時間は、十秒もなかった。


 三人は初狩に背を向け、足早にその場を去った。


 風が校舎裏を吹き抜ける。乾いた砂埃が舞い上がり、音が遠ざかっていく。


 残されたのは、初狩と——壁の向こうに隠れている俺だけだ。


 スマホの通話を切り、ボイスチェンジャーを終了する。


 正直、心臓がうるさい。手のひらが汗で湿っている。こんなことをやったのは初めてだった。


(別に正義感じゃない。損得の話だ。あの絵が踏まれるのは、単純にもったいないと思っただけだ)


 ……自分に言い訳するのも、いい加減うんざりする。


 初狩がゆっくりと顔を上げた。


 その視線が、俺と一瞬交差する。すぐに頭を引っ込めたが……バレているな。


 まあ、そうだろうな。隠れていても意味がない。俺は諦めて、物陰から姿を現した。


**


 夕陽が校舎裏を茜色に染めていた。


 初狩時雨は、地味な印象ながらも整った顔立ちをしている。透けるように白い肌。けれどその瞳には、助けを求めるような色は見当たらず、どこか深い諦めのようなものが浮かんでいた。


「これ、あなたがやったんですか?」


 静かな声だった。わずかに震えが混じっている。


「さあな」


 適当にはぐらかすと、初狩は小さく息を漏らした。


「ご親切はありがたいですが、特に助けを求めた覚えはありませんよ」


 やっぱりバレていたか。俺は観念して、彼女に歩み寄る。


「別に、助けたつもりはない」

「そうですか」


 初狩は細い腕を組み、値踏みするような目で俺を見る。その瞳には警戒の色が濃い。


「もしかして、わたしが女だからって、優しくしてくださったんですか? そういうの、ちょっと困るんですけど。ご期待には応えられないと思いますよ」

「違うよ」

「じゃあ、どうして?」


 言葉とは裏腹に、声は少しだけ柔らかくなっていた。


 俺は地面に落ちたままのスケッチブックに目をやった。しゃがんで拾い上げる。砂埃で少し汚れていたが、中の絵は無事だった。


 開いたページに描かれていたのは、ゴスロリの少女が大剣を持つファンタジー的な構図。線の一本一本に迷いがなく、人物の表情は繊細で、光と影の処理まで計算され尽くしている。素人目にも、これがただの趣味の域を超えていることはわかった。


「すげぇな、これ」


 心からの言葉だった。


 初狩が一瞬、目を見開く。そしてすぐに目を伏せ、頬の髪をいじりながらぼそっと言った。


「とんでもありません。わたしなど、石沼エルさんの足元にも及びませんので」

「影響は受けてるだろうけど、十分個性があるって」

「褒められても、どう返せばいいかわかりません……」


 その仕草には、素直な喜びと、褒められ慣れていない戸惑いが入り混じっているように見えた。


「そういえば、初狩って漫研と美術部追い出されてなかったか?」


 話題を変えた瞬間、初狩の目つきが変わった。


「どうしてご存じなんですか? もしかして、ストーカーでしたか? とんだクソ野郎ですね」


 おとなしそうな顔と声からは、想像もつかないような毒が飛んでくる。こういうキャラだったのか、こいつ。


「たまたま見かけただけだよ。俺も部活追い出されて部室棟にいたから」

「あら……追い出された者同士、ということですか」

「まあ、理由は正反対だけどな。俺は凡才で追い出されて、お前は才能がありすぎて追い出された」

「凡才かどうかは存じませんけど、少なくともわたしに声をかける度胸は凡人離れしていますね。こんな面倒な人間に関わろうとするなんて」


 それは褒められているのか、けなされているのか。判断に迷う。


「ところで、あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」

「え?」

「初対面のはずですけど、何か?」

「……クラスメイトだけど」


 そう返すと、初狩は誤魔化すように下を向き、やや滑舌が悪くなる。


「えっと……ほ、ほら、同じクラスとはいえ、ま、まだ二ヶ月ですし」


 まあ、そうか。俺はクラスメイト全員の名前と顔が一致するけど、普通はそうじゃないんだろう。

 俺は改めて自己紹介をする。


「高尾才。お前と同じ一年三組」

「わたしは初狩時雨と申します。時に雨と書いて、しぐれ」

「いい名前だな」

「……結構気に入っているんですよ」


 ほんの一瞬、初狩の表情がやわらいだ。


「それって"時雨"って呼べってこと?」

「まさか。簡単に下の名前で呼ばせるほど、あなたとは親しくありませんよ」


 相変わらずの切れ味だ。


 スケッチブックを初狩に返すと、大事な物のようにそれを抱きしめる。


「わたしは家では絵を描くことを禁止されてるんです。だからこそ、漫研や美術部で描こうとしたんですけどね」


 それすらも奪われた、という言葉は飲み込まれた。けれど、その沈黙の重さは十分に伝わった。


 何か言うべきだと思った。けれど、何を言えばいい?「大変だな」なんて薄っぺらい同情は初狩が一番嫌うだろうし、「なんとかなるよ」は嘘だ。俺がいま言えることで、嘘じゃないものは——。


 夕陽が校舎の壁に長い影を落としている。初狩はスケッチブックを両手で抱え直した。汚れた表紙を守るみたいに。


 ——損得勘定で考えろ。彼女にとって良い方法があるだろ?


 これは善意じゃない。廃墟ゲーセンにあるPCは誰も使ってない。叔父が逃げた後ずっと埃を被ってるだけだ。使われないまま朽ちるより、こいつに使わせた方がマシだ。それだけのことだ。


 自分にそう言い聞かせて、俺は口を開いた。


「なあ、初狩。絵、もっとちゃんと描ける環境があった方がよくないか?」

「お気遣いありがとうございます。でも、少しお節介かもしれませんね。何か下心があるのではないかって、疑ってしまいますよ。まあ、確定でしょうけど」

「……確定って言い切るなよ」


 初狩はスケッチブックを胸に抱え直した。夕陽が彼女の横顔を照らしている。俺は意を決して口を開いた。


「俺が出入りしてる場所にさ、余ってるPCがあるんだけど」


 初狩が、わずかに首を傾げた。



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