■第22話「応募」
篠原先輩から許可をもらったあと、その足で屋上へと行き、撮影の準備が始まった。
笹子先輩が衣装を選ぶ。トルソーにかけてある三着のコスプレ衣装を順番に見て、手を伸ばしかけてはやめる。
「どれにするか、決まった?」
山田先輩が作業台の上でアイロンを温めながら聞いた。
「……迷ってる」
先輩の声が小さかった。前にファーメイのコスプレで撮影したときとは、空気が違う。あのときは純粋に「かわいい」を楽しんでいた。だが今は、それだけでは撮れない。
「また何か言われるかもしれへん」
先輩はトルソーの一着——アニメ『フリフリガールズ』通称『フリガル』のアリサの冬コス衣装に触れたまま、動きを止めた。
「受賞とか以前に、出したこと自体を笑われるかもしれへん」
部室が静かになった。ミシンの音も止まっている。初狩がブローチの台座を手に持ったまま、先輩を見ている。俺はカメラのバッテリーを確認する手を止めた。
山田先輩だけが、アイロンの蒸気を確認する手を止めなかった。
「別に、勝つために着るわけじゃないでしょ」
布に向かったまま、先輩が言った。
「着たいなら着る。嫌ならやめる。どっちでもいいよ」
励ましではなかった。「大丈夫」でも「頑張れ」でもない。ただ——選択肢を二つ並べて、選ぶのは笹子先輩だと言っている。それだけ。
笹子先輩はしばらく衣装を見つめていた。それから、アリサの冬コスをトルソーから外した。
「……着るわ」
山田先輩は振り返らなかった。「じゃあアイロン当てるから、こっち持ってきて」とだけ言った。
そこから全員が動き始めた。
山田先輩が衣装の皺を伸ばし、ボタンの位置を確認し、裾の長さを微調整する。初狩は小物のバランスを見ている。ブローチの位置、ベルトの角度、手袋の合わせ方。配色と全体の見え方を、絵描きの目で整えていく。
俺はスマホで屋上の天気と光の角度を確認した。今日は薄曇り。直射日光がない分、影が柔らかい。コスプレ撮影には悪くない条件だ。
笹子先輩が衣装に着替えて出てきた。
フリガルのアリサ。白と蒼を基調にした冬仕様の軍服風コスチューム。銀の飾緒が肩から胸元にかかり、膝丈のプリーツスカートが揺れる。ロングブーツ。手袋。
先輩は鏡の前で袖口を直していた。無意識の動作。ボタンの位置を確認し、飾緒の垂れ具合を整え、スカートの裾を払う。
その動きが——きれいだった。
**
屋上。
梅雨の晴れ間の風が強かった。コンクリートの床に夕方の光が広がり、フェンスの向こうに校舎の影が長く伸びている。薄曇りの空は白みがかっていて、光が全体に柔らかく回っている。
山田先輩が衣装の最終チェックをしている。飾緒のピンを一本差し直し、襟の折り返しを整える。
初狩はフェンス際に立って、光の入り方を確認していた。「こっち側のほうが影が出にくいです」と俺に言う。
俺はカメラを構えた。山田先輩から借りた一眼レフ。ファインダーを覗く。
笹子先輩が立ち位置についた。
——固い。
シャッターを切る。モニターを確認する。衣装は完璧だ。立ち姿も悪くない。だが——顔が違う。「撮られている」ことを意識しすぎている。表情が作り物になっている。
二枚目。三枚目。変わらない。先輩は「見せる顔」を作ろうとしている。だがそれは、誰かに見られることへの緊張であって、先輩自身の顔ではない。
俺はファインダーから目を離した。
「笹子先輩」
「うん?」
「いまのは——誰かに見せる顔でした」
先輩の表情が一瞬こわばった。
「さっき、着替えた直後に袖を直してたときのほうが、ずっとよかったです」
技術的な指摘の形をしている。だが、俺が言いたかったのは——あの無意識の動き、衣装を自分のものにしようとする自然な仕草のほうが、ずっと先輩らしかったということだ。
先輩は目を瞬かせた。それから——ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
「……袖直してたとこ、見とったん」
「カメラマンですから」
嘘だ。カメラマンとしてではなく、ただ見ていた。だがそう言ったほうが、先輩も楽だろう。
もう一度、ファインダーを覗いた。
シャッターを切る。
——違う。さっきまでとは別人だ。
「撮られるための顔」ではない。「好きで着ている人の顔」だ。衣装を纏った自分に対する、静かな肯定。
一枚、二枚。風がスカートの裾を揺らすたびに、先輩の表情がほんの少しずつ変わる。緊張が解けていく。「見られている」ではなく、「ここに立っている」という顔になっていく。
初狩がフェンス際から小さく言った。
「……そのほうが、かわいいです」
説明ではなく、ただの感想だった。先輩が少しだけ頬を染めて「おおきに」と笑った。
俺は夢中でシャッターを切り続けた。
**
撮影後。被服部の部室に戻って、PCのモニターにベストショットの候補を並べた。
十数枚の中から、全員で選ぶ。山田先輩が画面を指さしてはスクロールし、初狩が色味のバランスについてコメントする。笹子先輩は自分の写真を見るのが恥ずかしいのか、少し離れた位置からモニターを覗いている。
「これ」
山田先輩が一枚を指した。風がスカートの裾を軽く持ち上げた瞬間の写真。先輩は正面を向いていない。少しだけ横を向いて、飾緒を指先で触れている。無意識の仕草。表情は穏やかで、「撮られている」緊張がない。
「変身っていうより、最初からこうだった感じだね」
山田先輩がぼそっと言った。
笹子先輩がその言葉を聞いて、少しだけ目を見開いた。何かを言いかけて、やめた。代わりに、もう一度モニターの写真を見つめた。
「……ほんまか?」
先輩は言葉を探すように、少し黙った。
「もともとこうだったのに、隠してただけって見方もできますよ」
初狩のその発言で、部室の空気が少しだけ柔らかくなった。
だが、先輩の表情は晴れ切ってはいなかった。
「出せばまた何か言われるかもしれへん。でも——出さんかったら、"変質者"って言葉だけが残る」
誰も何も言わなかった。それは先輩が自分で決めることだと、全員がわかっていた。
**
コンテストの応募期限は今週末だ。笹子先輩はまだ迷っている。迷っているが、写真は選んだ。あとは送信ボタンを押すだけ。
その日の放課後、笹子先輩が一人で旧館から新館へ移動するのを、俺は少し離れて見ていた。渡り廊下を通る。
先輩の足が止まった。
あの絵の前だ。のっぺらぼうの少女。顔のない空白。
先輩はしばらく絵を見つめていた。何が見えているのか、この距離からはわからない。だが、先輩の背中がわずかに変わった。強張っていた肩の線が、ほんの少しだけ下がった。
先輩が絵の前を離れて歩き出す。振り返らなかった。
足取りが、来たときより少しだけ速い。
俺はスマホを取り出して、ねむにメッセージを送った。
『見たと思う。表情は確認できなかったが、たぶん効いた』
ねむの返信。
『了解。笹子先輩の応募が確認できたら、次のフェーズに入る』
**
その夜。笹子玲は自室のデスクに向かっていた。
ノートPCの画面に、コンテストの応募フォームが開いている。名前の欄は匿名。学校名は不要。写真のアップロード欄に、今日のベストショットがすでに読み込まれている。
あとは「送信」を押すだけだ。
玲はマウスに手を伸ばしかけて、止めた。
また何か言われるかもしれない。受賞なんかしなくても、応募したこと自体が噂になるかもしれない。「あいつまたやってる」と笑われるかもしれない。
でも。
出さなかったら——あの紙と、あの噂と、あのラベルだけが残る。「変質者」。誰かが勝手にねつ造した言葉。それだけが、うちの名前に貼りつく。
冴子先輩の声が頭の中で鳴った。
——別に、勝つために着るわけじゃないでしょ。着たいなら着る。嫌ならやめる。どっちでもいいよ。
才くんの声も。
——さっき、着替えた直後に袖を直してたときのほうが、ずっとよかったです。
時雨ちゃんの声も。
——そのほうが、かわいいです。
そして今日、噂を確かめるためにもう一度のっぺらぼうの絵の前に立った。そこで表示された言葉に心が震える。
——『変身せよ。変質させられる前に』
その文字が玲の背中を押しきった。
玲はマウスを握る。
「後悔はしない」
呟いて、クリックした。
送信完了。画面が切り替わる。短い受付メールが届いた。
それだけのことが、ひどく大きかった。
玲はノートPCの画面をしばらく見つめてから、静かに閉じた。




