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■第19話「説明の罠と、顔のない自画像」


 翌朝。


 笹子先輩が男子制服で登校した。


 濃紺のブレザーにグレーのスラックス。赤いネクタイ。桂明高校の男子の正規の服装だ。何もおかしくない。何もおかしくないはずなのに——先輩の背中に纏いついている空気が、昨日までとまるで違っていた。


 俺は二年のフロアを通りがかったとき、廊下の向こうに先輩の姿を見た。休み時間、教室から出てきた先輩に、クラスメイトの女子が二人ほど声をかけていた。


「そのほうが無難かもね」

「波風は立てないほうがいいよ」


 善意の顔をした言葉だった。先輩を責めてはいない。だが、「戻ってきてくれてよかった」でもない。「それが正解だよ」という圧を、柔らかい声で包んでいるだけだ。


 笹子先輩は「せやなー」と笑っていた。いつもの穏やかな京都弁。だがその笑顔は、自分から一歩引いた人間の笑顔に見えた。


 俺の頭の中に、昨日の紙の一語がこびりついている。


 ——気持ち悪い。


 あの紙には他にもいろいろ書いてあった。「あなたのため」「まだ間に合う」「みんなを不安にさせないで」。だが一晩経って残ったのは、その三文字だけだ。善意の皮を全部剥がしたら、結局あれが中身だった。


 今朝のクラスメイトの「そのほうが無難かもね」も、根は同じだ。先に結論を持っている人間が、柔らかい声で圧をかけている。


 そして笹子先輩は——その圧に従って、男子制服で登校した。説明する代わりに、自分のほうが引いた。


**


 放課後。


 被服部の部室に向かう途中、旧館の階段の踊り場で笹子先輩を見つけた。窓枠に肘をついて、外を眺めている。スラックス姿の先輩は、後ろ姿だけ見れば普通の男子生徒だった。


「笹子先輩」


 声をかけると、先輩が振り返った。


「おー、才くん。今日もうちに来てくれるん?」


 笑顔だった。だが目の奥が笑っていないことに、俺は気づいてしまう。


「一つ、聞いていいですか」

「なに?」

「昨日、下駄箱に入っていた紙のこと」


 先輩の表情がわずかに動いた。笑顔は崩さない。だが、目の温度が一段下がった。


「ああ、あれか」

「『気持ち悪いって声、広がってる』って書いてありました。『説明すれば、まだ間に合う』とも。あれを読んで、先輩は今日——」


 言いかけてやめた。「だから男子制服で来たんですか」とは聞けなかった。聞く権利が俺にあるとは思えなかった。


 先輩は窓の外に目を戻した。外には憂鬱な雨が降り注いでいる。


「……説明したら、わかってくれる人もおるよ」


 先輩の声は穏やかだった。


「でもな、最初から"変な人"って決めてる相手は、説明を聞くために聞くんやない」


 一拍の間。


「安心するために、納得できる理由を探してるだけや」


 その言葉が、俺の中で何かに触れた。


 あの紙は助言ではなかった。「あなたのためを思って」の皮を剥がせば、中身は「気持ち悪いからやめろ」だ。やめなければお前が悪い。それだけのことだった。


 そして、その構造は「変質者」の噂と同じだ。


 説明しろと迫る。だが、もう先に結論は決めている。笹子先輩を「変な人」として扱うための理由だけを探している。答えは最初から配られている。


 説明しろと言っておいて、先に結論を配っている。


 俺は階段の手すりを握った。指先が白くなるほど力が入っていた。


「……先輩。俺、あの絵のことを調べてみます」

「絵?」

「渡り廊下の、のっぺらぼうの絵です。あの絵から"変質者"なんて語が本当に出るのか。出ないなら——噂を流した人間がいるってことです」


 先輩はしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。


「才くん」

「はい」

「……ありがとな」


 それだけ言って、先輩は階段を下りていった。


**


 放課後。俺は被服部には寄らず、図書室に向かった。


 ねむが一晩でまとめてくれた都市伝説板の過去ログをスマホで見返す。あの絵について書き込まれた語を、古い順に並べた一覧だ。


 「阿呆」「無能」「虚言」「臆病」「我執」「卑屈」「空虚」「傲慢」——


 すべて二文字。漢字二文字の、どちらかといえば古風な言い回しだ。実際に見たのか噂として少し盛られたのかはわからない。だが、「ランダムに二文字が出る」という仮説とは噛み合っている。


 笹子先輩の件だけが違った。「変質者」。三文字。しかも最後の一文字がつくだけで、ただの表示語が人間を断罪するラベルに変わる。


 絵がそう出したのではない。誰かが、そう出たことにしたのだ。

 なら追うべきは噂ではない。絵の仕組みそのものだ。


 放課後の図書室は静かで、カウンターの奥では司書が返却本を整理していた。


 奥の棚に歴代の卒業制作の記録がファイルされている。俺は記念誌を引っ張り出し、二〇一七年度の卒業制作一覧のページを開いた。


 ——題名「変身、あるいは顔のない自画像」。作者、堂本空。


 記念誌には、彼の卒業後の進路として「美術系専門学校」と書かれている。連絡先は載っていないが、俺はあの日撮った絵の写真をスマホで開いた。額縁の右下の隅に、小さな文字列が写っている。拡大する。——メールアドレスだ。卒業生が自分の作品に連絡先を残すのは珍しくない。

 写真を拡大して初めて読めるサイズだ。あの日、渡り廊下では肉眼ではほとんど判読できなかったはずだ。なのに——拡大する前から、俺はこの文字列を知っていた気がする。薄い文字の並びが、頭の中にすでにあった。


 なぜこんな細部まで覚えている。

 ……いつものことだ。気にするな。


 俺は堂本空にメールを送った。桂明高校の在校生であること、渡り廊下の絵について話を聞きたいこと。返信は翌日の朝に来た。


『日曜日なら空いてます。館山まで来られますか?』


**


 日曜日。


 白花駅から電車を乗り継いで、館山へ向かった。隣には初狩がいる。運良く梅雨の晴れ間に当たった。


 車窓の向こうを田園風景が流れていく。住宅地が途切れ、水田が広がり、遠くに低い山並みが見える。千葉の内房線は途中から海沿いを走る。トンネルを抜けるたびに光が変わった。


 初狩は窓際の席でスケッチブックを膝に乗せていた。何かを描いているわけではなく、開いたまま車窓を眺めている。


「初狩」

「はい」

「今日の件、先にまとめておく。あの絵の正式名称は『変身、あるいは顔のない自画像』。作者は堂本空、二〇一七年度の卒業生。記念誌には美術系の専門学校に進学したと書いてある」

「覚えてますよ。昨日、高尾クンがメッセージで教えてくれましたから」

「……ああ、そうだった」

「で、聞きたいことは?」

「あの絵の仕掛けの原理。それと、あの絵から本当に"変質者"という語が出るのかどうか。——それだけならメールで済む」

「わざわざ行く理由があるんですね」

「仕掛けの中身を直接確認したい。それと、あの絵のプログラムを改変する許可がいる」

「プログラム?」

「あの絵に何らかの電子的な仕掛けがあるのは間違いない。もしプログラムで制御されているなら、書き換えができる。噂を潰すだけじゃなく、こっちから仕掛けを打てる」

「……高尾クン、踏み込むんですね」

「ああ」

「どんな方法で仕掛けるんですか?」

「それはまだ考えていない。でも、あの絵の仕組みがわかれば、それに対応した方法がとれるはず」

「そうですね、いいと思います。わたしも、あの噂にはちょっと思うところがありますから。何かしらのアクションはとりたいです」


 初狩の声が低かった。「ちょっと」ではないことは、俺にもわかっていた。


 電車が海沿いに出た。窓の外に東京湾が広がる。陽光が水面に反射して、車内に揺れる光が差し込んだ。


「高尾クン」

「なんだ」

「わたし、被服部に正式に入部届を出そうと思います」

「……急だな」

「急じゃないです。ずっと考えてました」


 初狩はペンを止めずに続けた。


「笹子先輩のスカートが切られた日から、ずっと。あの部室は守る価値がある場所だと思ったので」


 守る。初狩がその言葉を使ったのは初めてだった。俺は何も言わずに、窓の外の海を見た。



**



 館山駅から歩いて十五分ほどの、古い雑居ビルの二階。小さなデザイン事務所の一室で、堂本空は俺たちを迎えた。


 二十五歳くらいの、細身の人だった。長めの髪を後ろでひとつに結んでいる。性別は——正直、一目ではわからなかった。声は低めだが柔らかく、服装はオーバーサイズのシャツにワイドパンツ。中性的という言葉がそのまま当てはまる。


「堂本です。わざわざ来てくれてありがとう」


 事務所にはデスクが一つと、壁にいくつかの作品が掛かっていた。イラストと写真が混在している。缶コーヒーを三つ出してくれた。


「あの絵のこと、聞きたいんだよね」

「はい。渡り廊下に飾られているあの作品——『変身、あるいは顔のない自画像』について」

「よく正式名称を知ってるね。飾ってある絵には書いてないはずなんだが」

「記念誌で確認しました」


 堂本さんは缶コーヒーのプルタブを開けて、一口飲んだ。


「あの絵はね、自画像を描こうとして失敗した作品なんだ」


 声に力みがなかった。遠い記憶を引っ張り出すような、穏やかな語り口。


「高校三年の秋に、卒業制作のテーマを決めなきゃいけなくて。自画像を描こうと思った。でも——顔が描けなかった」

「描けなかった、というのは技術的に?」

「違う。技術じゃなくて、わからなかったんだ。自分がどんな顔をしてるのか」


 堂本さんは窓の外を見た。館山の五月の空は、白花よりも広い。


「当時の僕はね、女の子になりたかった。でもなれなかった。男の顔も女の顔も、どっちも自分だと思えなかった。だから顔を描けなかった。描かないことにした。それがあの空白」


 初狩が隣で息を呑んだのがわかった。


「制服だけは描けたんだ。桂明の女子制服。あれは僕にとって——着たかったけど着られなかった服だったから。細部まで覚えてた」


 だから、あの絵は制服だけが精密で、顔だけが空白だった。技巧ではなく、描けなかった事実がそのまま残っている。


「で、仕掛けのほうだけど」


 堂本さんがデスクの引き出しからスケッチブックを取り出した。古いノートに、絵の構造図が描かれている。


「額縁の裏に、小型のコンピュータを仕込んであるんだ」


 堂本さんがページをめくる。回路図と配線のメモ。顔の部分に薄い表示パネル、その裏に細い配線が伸びている。


「使ってるのはラズベリーパイの小型モデル。人感センサーで前に人が立ったのを検知して、顔の部分に埋め込んだ薄型ディスプレイに文字を出す。ずっと点けっぱなしじゃなくて、反応した時だけ数秒だけ表示する仕組み」「電源は……バッテリーじゃないんですか?」


 初狩が聞くと、堂本さんは首を振った。


「いや、さすがに何年も電池だけじゃ保たないよ。電源は展示用の配線に紛れ込ませてある。見た目ではわからないようにしてるけど、ちゃんと外から取ってる」

「人によって違う文字が出る、というのは——」

「プログラムでランダムに選んでるだけ。人の本性を見抜くなんて機能はない。センサーが反応するたびに、登録してあるワードリストから一つ引いて表示してる」


 堂本さんは苦笑した。


「最初は自画像の失敗作だった。顔が描けなくて、代わりに自分の中にある言葉を埋め込んだんだ。矛盾、調和、臆病、虚言、空虚——そういう、自分に当てはまりそうな言葉を二字熟語でいくつか入れた」

「二字熟語」

「そう。全部漢字二文字。対になる言葉を組にしてある。『矛盾』と『調和』、『臆病』と『勇気』、『虚言』と『真実』。ネガティブな面と、そうじゃない面を対で置いた。ワードリストに入ってるのはそれだけ。三文字以上の語は一つもない」


 堂本さんがスマホを操作して、テキストファイルを見せてくれた。ワードリストだ。二文字の漢字が二十ほど、対になって並んでいる。三文字の語は、一つもない。


 そこで俺は、息を整えてから言った。


「……実は今、その絵が学校で変な使われ方をしてます」


 堂本さんが顔を上げた。




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