↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
210/210

生き残った、その先で……

今日は、長女の婚礼だ。

「三娘ォ、朝から落ち着かないねェ」

「落ち着いてるわよ!」

孫二娘が笑う横で、玉楼は花嫁衣装の確認を続けている。

「三娘様は先ほどから、同じ場所を五回ほど往復されております」

「数えないで!」

顧大嫂まで呆れた顔をした。

「娘が嫁に行くだけだろ。あんたが戦に出るんじゃないんだよ」

「分かってるわよ!」

「子供の自立は親に喪失感を――」

「心理学で追い打ちかけないで!」

玉楼が静かに布を差し出した。

「三娘様。お使いになりますか?」

「何によ!」

三人が、揃ってアタシの顔を見る。

……何よ。

泣いてないからね。

絶対に……

「泣いてない!」

「三娘ォ、泣いてるよォ」

「泣いておられます」

「二人して即答しないで!」

十年後――

朝から何度目になるか分からないやり取りをしながら、アタシは花嫁衣装を着た長女の前で腕を組んでいた。

鏡の前に座っている娘は、もう十八になる。

その両脇では、次女と三女が姉の衣装を覗き込み、玉楼の邪魔にならない程度に髪飾りや袖を気にしている。

あんなに小さかったのに。

抱けば壊れそうで、泣けば何が悪いのか分からなくて、初めて熱を出した夜には李俊と二人で医者のところへ駆け込んだ。

それから次女が生まれ、もう一人増えて、気づけばアタシは三人の娘の母親になっていた。

三人とも同じように泣いたし、同じようには育たなかった。

姉妹喧嘩を止めたこともあれば、誰が悪いのか分からなくなって全員まとめて叱ったこともある。

李俊と教育方針でもめた夜だって、一度や二度じゃない。

なのに今では、三人揃ってアタシより落ち着いている。

納得いかない。

「母上」

長女が鏡越しにこちらを見た。

「何?」

「袖を握ったままですと、皺になります」

慌てて手を離した。

次女と三女が揃って笑う。

「笑わないで!」

後ろでは孫二娘まで肩を震わせていた。

昔と変わらず無駄に艶っぽい。

歳を重ねたはずなのに、どうしてこの人だけ色気の方向へ熟成してるの。

「三娘ォ、子供の自立を前にした親には、喪失感と達成感が同時に出やすいんだよォ」

「今日くらい心理学やめて!」

「便利なのにねェ」

玉楼が長女の帯を整えながら、こちらを見た。

彼女も昔のままではない。

髪にも年月が見えるし、童威と重ねてきた暮らしもある。

それでも娘の衣装を直す手つきは、かつてアタシの支度をしていた頃とほとんど変わらなかった。

「三娘様」

「何よ?」

「まだ確認されますか?」

次女が苦笑する。

三女まで、また始まったという顔をした。

完全にバレてる。

「……する」

アタシは長女の前にしゃがんだ。

王妃としてじゃない。

母親として。

「本当に、花逢春でいいのね?」

「はい」

返事は早かった。

「王家のためとか、父上の後継ぎだからとか、そういうの抜きで?」

「抜きで、です」

「誰かに言われたからじゃなく?」

「母上」

娘がとうとう笑った。

「昨日も聞かれました」

「大事なことだから!」

「一昨日も聞かれました」

「大事なの!」

次女が姉の後ろから口を挟む。

「母上、明日になっても聞くつもりでしたよね?」

「聞くわよ!」

三女まで頷いた。

「やっぱり」

「何よ、その納得!」

孫二娘が楽しそうに笑い、玉楼は何事もなかったように長女の髪飾りを直している。

長女はそんな妹たちを一度見てから、アタシへ向き直った。

「私が選びました」

その一言で、胸の奥に引っ掛かっていたものがほどけた。

昔のアタシが、一番言いたかった言葉なのかもしれない。

家の都合でも、誰かの命令でもない。

自分で選んだ。

それだけでいい。

「……なら、いいわ」

「はい」

「嫌になったら帰ってきなさいよ」

「母上?」

「王女だろうが何だろうが関係ないから。嫌なのに我慢して一生添い遂げろなんて、アタシは絶対言わない」

次女と三女も、今度は笑わなかった。

これは長女だけの話じゃない。

いつか、この二人にも誰かを選ぶ日が来る。

その時も同じだ。

本人より先に、親が人生を決めるつもりはない。

長女は静かに頷いた。

「分かっています」

「ならいいの」

「三娘様」

玉楼が呼ぶ。

「今度は何?」

「泣いておられます」

「泣いてない!」

式が始まる前からこれだった。

先が思いやられる。

婚礼の場には、懐かしい顔が揃っていた。

孫立も黄信も、昔よりずいぶん歳を取った。

顧大嫂は相変わらず声が大きく、少し離れたところからでも孫新に何か言っているのが分かる。

柴進の隣には潘巧雲。

あの人も歳を重ねたはずなのに、どうしてまだ周囲の男が妙に姿勢を正すの。

フェロモンの悪魔には老化という概念がないの?

李応の隣では白秀英が長女を見て、

「マジで綺麗じゃん」

と普通に言い、李応に小言を食らっていた。

朱仝のそばでは、李瑞蘭が式の進行を確認している。

「確認したから大丈夫だ」

「確認した人が誰なのかを聞いているんです!」

「はいはい」

もう円熟夫婦の域だ……

燕青の隣にいる玉蘭は、婚礼の日ですら人の流れを見ていた。

「料理を運ぶ方と下げる方が同じ場所を通ると詰まります。入口と出口を分けてください」

働くな。

今日くらい働くな。

そう思ったけれど、おかげで式が滞りなく進んでいるので何も言えなかった。

やがて花逢春が進み出る。

あの日、広間の隅で緊張していた少年はもういない。

父と同じ道を歩んだわけではない。

それでも花栄から受け継いだものは、きっと彼の中にある。

長女と並ぶ姿も、今ではすっかり自然に見えた。

李俊が二人の前へ立つ。

若い頃より皺が増え、髪にも白いものが混じっている。

それでも、立っているだけで周囲が静かになるところは変わらない。

王太后殿下の許しは、すでに得ていた。

「今日より、お前は王家に入る」

「はい」

「娘と共にこの国を支えろ。そして、いずれ俺の後を継げ」

花逢春は深く頭を下げた。

「謹んで、お受けいたします」

李俊は、それ以上格好いいことを言わなかった。

必要なことだけ言って終わる。

昔からそういう男だった。

式は何事もなく進んだ。

敵襲もなければ、城門が破られることもなく、火矢なんて一本も飛んでこない。

平和だった。

なのに、長女が花逢春の隣へ歩いていく姿を見ているだけで、戦場より苦しい。

「三娘」

隣の李俊が呼んだ。

「何よ」

「泣くなら泣け」

「泣いてない」

「もう遅い」

「うるさい」

肘で突くと、次女と三女が笑った。

「何よ!」

「父上と母上、今日も同じだなと思って」

「今日くらい黙ってなさい!」

長女までこちらを見て笑う。

その顔を見たら、もう駄目だった。

「……幸せになりなさいよ」

声が少し震えた。

娘はきちんと聞いていた。

深く頭を下げ、花逢春の隣へ戻っていく。

十年ほど前は、アタシが花嫁だった。

あの日、やっと自分で選んだ男の隣に立てた。

そして今日は、娘が自分で選んだ相手の隣にいる。

これでいい。

これがいい。

婚礼が終わると、二人は新しく用意された住まいへ移ることになっていた。

同じ国の中だ。

王宮からだって、そう遠くない。

分かっているのに、娘が門へ向かった途端、胸の中が落ち着かなくなった。

妹二人も姉の後ろ姿を見つめている。

「姉上!」

三女が呼ぶと、長女が振り返った。

次女も一歩前へ出たが、何を言えばいいのか分からないらしい。

長女は妹たちの顔を見て笑った。

「すぐ会えるでしょう?」

「分かっています」

「じゃあ、そんな顔をしないの」

最後まで姉だった。

「母上」

今度はアタシを見る。

「何?」

「母上もです」

「アタシは普通の顔してるでしょうが」

「今にも連れ戻しそうです」

そんなことしない。

……たぶん。

「忘れ物したら帰ってきなさいよ」

「はい」

「喧嘩しても帰ってきていいから」

「はい」

「何もなくても帰ってきていいからね」

長女が吹き出した。

「母上は、私を嫁がせたいのですか。帰したいのですか」

「両方!」

次女と三女まで笑う。

後ろでは孫二娘も笑い、玉楼まで口元を緩めていた。

李俊だけが、妙に真面目な顔をしている。

「三娘」

「何よ?」

「行かせてやれ」

分かってる。

昔のアタシには、帰ってもいい場所なんてなかった。

決められた場所から逃げたら、その先は自分でどうにかするしかなかった。

だからこそ、娘たちには言っておきたい。

「帰るところは、ずっとここにあるから」

長女だけじゃない。

妹たちにも聞こえるように言った。

いつか二人も、それぞれ自分の道を選ぶ。

それでも家族じゃなくなるわけじゃない。

長女の目が少しだけ潤んだ。

「……はい」

花逢春が手を差し出す。

娘は、その手を自分から取った。

誰にも押されず、自分の足で門を越えていく。

少し進んだところで、もう一度振り返った。

アタシと李俊の前では、妹二人も手を振っている。

長女も笑って手を振り返し、花逢春と並んで歩いていった。

姿が小さくなっても、誰も動かなかった。

二人が道の向こうへ消えるまで。

「……行っちゃった」

三女が呟く。

次女が、その肩へそっと手を置いた。

アタシも同じことを言いそうになっていた。

「行ったな」

李俊が隣で答える。

「寂しい」

「そうだな」

「でも、嬉しい」

「ああ」

妹二人も頷いた。

その両方でいいらしい。

ようやく、それが分かった。

日が傾く頃には客も引き、次女と三女も王宮へ戻っていった。

アタシは風に当たりながら、ようやく息を吐く。

「疲れた……」

「王妃がそんなに疲れてどうする」

李俊が来た。

さらに玉楼と孫二娘までついてくる。

「何、この集団?」

「三娘ォ、一人にすると泣きそうだからねェ」

「泣かないって言ってるでしょうが!」

玉楼が微笑む。

「本日は何度も、そのように仰っておられました」

「玉楼まで!」

李俊が隣に立った。

「最初に会った頃から、こうだったな」

「どういう意味?」

「自分が困っている時ほど、困ってないと言う」

「……そんなだった?」

「そうだったよォ」

孫二娘が即答した。

「感情を後回しにする癖があったねェ。生存を優先する状況じゃ合理的だけど、長期的には――」

「最終回みたいな空気で心理分析始めないで!」

「最終回って何だい?」

しまった……

玉楼が少し笑った。

「私が初めて三娘様のお側に立った頃も、よく無茶をなさっておりました」

「玉楼にだけは言われたくない!」

「私は三娘様ほどではございません」

「方天画戟振り回してた人が言う!?」

李俊が笑う。

孫二娘も笑った。

玉楼まで口元を緩めている。

何よ……三人して。

「……でも」

孫二娘の声が少しだけ変わった。

「生きたねェ、三娘ォ」

笑い声が止まる。

アタシは、すぐには答えられなかった。

死んだ人もいれば、別れた人も、戻ってきた人もいる。

戦った場所も、逃げた夜も忘れていない。

怖かったし、腹も立った。

馬鹿みたいに笑った日だってあった。

それでも今は、李俊がいて、玉楼がいて、孫二娘もいる。

そして、アタシは三人の娘の母親になった。

そのうち一人は今日、自分で選んだ相手の手を取って歩いていった。

「……うん」

ようやく、それだけ答えた。

風が吹いた。

目を閉じると、不思議なくらい簡単に昔へ戻れた。

まだ王妃なんて呼ばれていなかった頃。

三人の娘の母親になるなんて、想像もしなかった頃。

明日、自分が生きているかどうかさえ分からなかった頃。

若いアタシがいる。

日月双刀を持って、前を睨んでいる。

その隣には、方天画戟を手にした若い玉楼がいた。

この先に何が待っているのか、二人とも知らない。

それでも同じ方角を見ていた。

若いアタシと玉楼は、並んで立っていた。

長女様を送り出した後のことでございます。

あの時、三娘様は何度もお気持ちを確かめておられました。

やがて次女様が、

「母上、私は徐晟様と一緒にいたいです」

と告げられると、

「……アンタが自分で決めたのね?」

確認は、一度だけでした。

そして三女様が、

「私は呼延鈺様がいい」

と仰った時――

三娘様は、しばらくその顔を見つめ、

「……そう」

笑って、それだけ。

顧大嫂様が首を傾げます。

「今度は聞かないのかい?」

「もう分かるもの」

孫二娘様が微笑みました。

「三娘ォ、手を離すのも上手くなったねェ」

「離してない! 見送ってるだけ!」

三人の娘は、三人ともご自分で選ばれました。

そして三娘様も――最後には、答えを聞き直さなくなったのでございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。