生き残った、その先で……
今日は、長女の婚礼だ。
「三娘ォ、朝から落ち着かないねェ」
「落ち着いてるわよ!」
孫二娘が笑う横で、玉楼は花嫁衣装の確認を続けている。
「三娘様は先ほどから、同じ場所を五回ほど往復されております」
「数えないで!」
顧大嫂まで呆れた顔をした。
「娘が嫁に行くだけだろ。あんたが戦に出るんじゃないんだよ」
「分かってるわよ!」
「子供の自立は親に喪失感を――」
「心理学で追い打ちかけないで!」
玉楼が静かに布を差し出した。
「三娘様。お使いになりますか?」
「何によ!」
三人が、揃ってアタシの顔を見る。
……何よ。
泣いてないからね。
絶対に……
「泣いてない!」
「三娘ォ、泣いてるよォ」
「泣いておられます」
「二人して即答しないで!」
十年後――
朝から何度目になるか分からないやり取りをしながら、アタシは花嫁衣装を着た長女の前で腕を組んでいた。
鏡の前に座っている娘は、もう十八になる。
その両脇では、次女と三女が姉の衣装を覗き込み、玉楼の邪魔にならない程度に髪飾りや袖を気にしている。
あんなに小さかったのに。
抱けば壊れそうで、泣けば何が悪いのか分からなくて、初めて熱を出した夜には李俊と二人で医者のところへ駆け込んだ。
それから次女が生まれ、もう一人増えて、気づけばアタシは三人の娘の母親になっていた。
三人とも同じように泣いたし、同じようには育たなかった。
姉妹喧嘩を止めたこともあれば、誰が悪いのか分からなくなって全員まとめて叱ったこともある。
李俊と教育方針でもめた夜だって、一度や二度じゃない。
なのに今では、三人揃ってアタシより落ち着いている。
納得いかない。
「母上」
長女が鏡越しにこちらを見た。
「何?」
「袖を握ったままですと、皺になります」
慌てて手を離した。
次女と三女が揃って笑う。
「笑わないで!」
後ろでは孫二娘まで肩を震わせていた。
昔と変わらず無駄に艶っぽい。
歳を重ねたはずなのに、どうしてこの人だけ色気の方向へ熟成してるの。
「三娘ォ、子供の自立を前にした親には、喪失感と達成感が同時に出やすいんだよォ」
「今日くらい心理学やめて!」
「便利なのにねェ」
玉楼が長女の帯を整えながら、こちらを見た。
彼女も昔のままではない。
髪にも年月が見えるし、童威と重ねてきた暮らしもある。
それでも娘の衣装を直す手つきは、かつてアタシの支度をしていた頃とほとんど変わらなかった。
「三娘様」
「何よ?」
「まだ確認されますか?」
次女が苦笑する。
三女まで、また始まったという顔をした。
完全にバレてる。
「……する」
アタシは長女の前にしゃがんだ。
王妃としてじゃない。
母親として。
「本当に、花逢春でいいのね?」
「はい」
返事は早かった。
「王家のためとか、父上の後継ぎだからとか、そういうの抜きで?」
「抜きで、です」
「誰かに言われたからじゃなく?」
「母上」
娘がとうとう笑った。
「昨日も聞かれました」
「大事なことだから!」
「一昨日も聞かれました」
「大事なの!」
次女が姉の後ろから口を挟む。
「母上、明日になっても聞くつもりでしたよね?」
「聞くわよ!」
三女まで頷いた。
「やっぱり」
「何よ、その納得!」
孫二娘が楽しそうに笑い、玉楼は何事もなかったように長女の髪飾りを直している。
長女はそんな妹たちを一度見てから、アタシへ向き直った。
「私が選びました」
その一言で、胸の奥に引っ掛かっていたものがほどけた。
昔のアタシが、一番言いたかった言葉なのかもしれない。
家の都合でも、誰かの命令でもない。
自分で選んだ。
それだけでいい。
「……なら、いいわ」
「はい」
「嫌になったら帰ってきなさいよ」
「母上?」
「王女だろうが何だろうが関係ないから。嫌なのに我慢して一生添い遂げろなんて、アタシは絶対言わない」
次女と三女も、今度は笑わなかった。
これは長女だけの話じゃない。
いつか、この二人にも誰かを選ぶ日が来る。
その時も同じだ。
本人より先に、親が人生を決めるつもりはない。
長女は静かに頷いた。
「分かっています」
「ならいいの」
「三娘様」
玉楼が呼ぶ。
「今度は何?」
「泣いておられます」
「泣いてない!」
式が始まる前からこれだった。
先が思いやられる。
婚礼の場には、懐かしい顔が揃っていた。
孫立も黄信も、昔よりずいぶん歳を取った。
顧大嫂は相変わらず声が大きく、少し離れたところからでも孫新に何か言っているのが分かる。
柴進の隣には潘巧雲。
あの人も歳を重ねたはずなのに、どうしてまだ周囲の男が妙に姿勢を正すの。
フェロモンの悪魔には老化という概念がないの?
李応の隣では白秀英が長女を見て、
「マジで綺麗じゃん」
と普通に言い、李応に小言を食らっていた。
朱仝のそばでは、李瑞蘭が式の進行を確認している。
「確認したから大丈夫だ」
「確認した人が誰なのかを聞いているんです!」
「はいはい」
もう円熟夫婦の域だ……
燕青の隣にいる玉蘭は、婚礼の日ですら人の流れを見ていた。
「料理を運ぶ方と下げる方が同じ場所を通ると詰まります。入口と出口を分けてください」
働くな。
今日くらい働くな。
そう思ったけれど、おかげで式が滞りなく進んでいるので何も言えなかった。
やがて花逢春が進み出る。
あの日、広間の隅で緊張していた少年はもういない。
父と同じ道を歩んだわけではない。
それでも花栄から受け継いだものは、きっと彼の中にある。
長女と並ぶ姿も、今ではすっかり自然に見えた。
李俊が二人の前へ立つ。
若い頃より皺が増え、髪にも白いものが混じっている。
それでも、立っているだけで周囲が静かになるところは変わらない。
王太后殿下の許しは、すでに得ていた。
「今日より、お前は王家に入る」
「はい」
「娘と共にこの国を支えろ。そして、いずれ俺の後を継げ」
花逢春は深く頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
李俊は、それ以上格好いいことを言わなかった。
必要なことだけ言って終わる。
昔からそういう男だった。
式は何事もなく進んだ。
敵襲もなければ、城門が破られることもなく、火矢なんて一本も飛んでこない。
平和だった。
なのに、長女が花逢春の隣へ歩いていく姿を見ているだけで、戦場より苦しい。
「三娘」
隣の李俊が呼んだ。
「何よ」
「泣くなら泣け」
「泣いてない」
「もう遅い」
「うるさい」
肘で突くと、次女と三女が笑った。
「何よ!」
「父上と母上、今日も同じだなと思って」
「今日くらい黙ってなさい!」
長女までこちらを見て笑う。
その顔を見たら、もう駄目だった。
「……幸せになりなさいよ」
声が少し震えた。
娘はきちんと聞いていた。
深く頭を下げ、花逢春の隣へ戻っていく。
十年ほど前は、アタシが花嫁だった。
あの日、やっと自分で選んだ男の隣に立てた。
そして今日は、娘が自分で選んだ相手の隣にいる。
これでいい。
これがいい。
婚礼が終わると、二人は新しく用意された住まいへ移ることになっていた。
同じ国の中だ。
王宮からだって、そう遠くない。
分かっているのに、娘が門へ向かった途端、胸の中が落ち着かなくなった。
妹二人も姉の後ろ姿を見つめている。
「姉上!」
三女が呼ぶと、長女が振り返った。
次女も一歩前へ出たが、何を言えばいいのか分からないらしい。
長女は妹たちの顔を見て笑った。
「すぐ会えるでしょう?」
「分かっています」
「じゃあ、そんな顔をしないの」
最後まで姉だった。
「母上」
今度はアタシを見る。
「何?」
「母上もです」
「アタシは普通の顔してるでしょうが」
「今にも連れ戻しそうです」
そんなことしない。
……たぶん。
「忘れ物したら帰ってきなさいよ」
「はい」
「喧嘩しても帰ってきていいから」
「はい」
「何もなくても帰ってきていいからね」
長女が吹き出した。
「母上は、私を嫁がせたいのですか。帰したいのですか」
「両方!」
次女と三女まで笑う。
後ろでは孫二娘も笑い、玉楼まで口元を緩めていた。
李俊だけが、妙に真面目な顔をしている。
「三娘」
「何よ?」
「行かせてやれ」
分かってる。
昔のアタシには、帰ってもいい場所なんてなかった。
決められた場所から逃げたら、その先は自分でどうにかするしかなかった。
だからこそ、娘たちには言っておきたい。
「帰るところは、ずっとここにあるから」
長女だけじゃない。
妹たちにも聞こえるように言った。
いつか二人も、それぞれ自分の道を選ぶ。
それでも家族じゃなくなるわけじゃない。
長女の目が少しだけ潤んだ。
「……はい」
花逢春が手を差し出す。
娘は、その手を自分から取った。
誰にも押されず、自分の足で門を越えていく。
少し進んだところで、もう一度振り返った。
アタシと李俊の前では、妹二人も手を振っている。
長女も笑って手を振り返し、花逢春と並んで歩いていった。
姿が小さくなっても、誰も動かなかった。
二人が道の向こうへ消えるまで。
「……行っちゃった」
三女が呟く。
次女が、その肩へそっと手を置いた。
アタシも同じことを言いそうになっていた。
「行ったな」
李俊が隣で答える。
「寂しい」
「そうだな」
「でも、嬉しい」
「ああ」
妹二人も頷いた。
その両方でいいらしい。
ようやく、それが分かった。
日が傾く頃には客も引き、次女と三女も王宮へ戻っていった。
アタシは風に当たりながら、ようやく息を吐く。
「疲れた……」
「王妃がそんなに疲れてどうする」
李俊が来た。
さらに玉楼と孫二娘までついてくる。
「何、この集団?」
「三娘ォ、一人にすると泣きそうだからねェ」
「泣かないって言ってるでしょうが!」
玉楼が微笑む。
「本日は何度も、そのように仰っておられました」
「玉楼まで!」
李俊が隣に立った。
「最初に会った頃から、こうだったな」
「どういう意味?」
「自分が困っている時ほど、困ってないと言う」
「……そんなだった?」
「そうだったよォ」
孫二娘が即答した。
「感情を後回しにする癖があったねェ。生存を優先する状況じゃ合理的だけど、長期的には――」
「最終回みたいな空気で心理分析始めないで!」
「最終回って何だい?」
しまった……
玉楼が少し笑った。
「私が初めて三娘様のお側に立った頃も、よく無茶をなさっておりました」
「玉楼にだけは言われたくない!」
「私は三娘様ほどではございません」
「方天画戟振り回してた人が言う!?」
李俊が笑う。
孫二娘も笑った。
玉楼まで口元を緩めている。
何よ……三人して。
「……でも」
孫二娘の声が少しだけ変わった。
「生きたねェ、三娘ォ」
笑い声が止まる。
アタシは、すぐには答えられなかった。
死んだ人もいれば、別れた人も、戻ってきた人もいる。
戦った場所も、逃げた夜も忘れていない。
怖かったし、腹も立った。
馬鹿みたいに笑った日だってあった。
それでも今は、李俊がいて、玉楼がいて、孫二娘もいる。
そして、アタシは三人の娘の母親になった。
そのうち一人は今日、自分で選んだ相手の手を取って歩いていった。
「……うん」
ようやく、それだけ答えた。
風が吹いた。
目を閉じると、不思議なくらい簡単に昔へ戻れた。
まだ王妃なんて呼ばれていなかった頃。
三人の娘の母親になるなんて、想像もしなかった頃。
明日、自分が生きているかどうかさえ分からなかった頃。
若いアタシがいる。
日月双刀を持って、前を睨んでいる。
その隣には、方天画戟を手にした若い玉楼がいた。
この先に何が待っているのか、二人とも知らない。
それでも同じ方角を見ていた。
若いアタシと玉楼は、並んで立っていた。
長女様を送り出した後のことでございます。
あの時、三娘様は何度もお気持ちを確かめておられました。
やがて次女様が、
「母上、私は徐晟様と一緒にいたいです」
と告げられると、
「……アンタが自分で決めたのね?」
確認は、一度だけでした。
そして三女様が、
「私は呼延鈺様がいい」
と仰った時――
三娘様は、しばらくその顔を見つめ、
「……そう」
笑って、それだけ。
顧大嫂様が首を傾げます。
「今度は聞かないのかい?」
「もう分かるもの」
孫二娘様が微笑みました。
「三娘ォ、手を離すのも上手くなったねェ」
「離してない! 見送ってるだけ!」
三人の娘は、三人ともご自分で選ばれました。
そして三娘様も――最後には、答えを聞き直さなくなったのでございます。




