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丘の上で君想う  作者: 七草せり
2/2

柿色の櫛

けれど、やはり夢は夢。

検査に合格した彼は、出征の命令が

下り、間も無く戦地へと赴いた。

春の桜の季節……。



出征の前の晩、私達は彼の家に招かれ

た。

ささやかなお祝い。

親類や、近所の人達が集まっていた。


私は部屋の片隅で、彼を見つめていた。

あの時の、彼との約束を静かに

思い出す。



翌日、よく晴れた空の下、桜の花が

綺麗に咲く中、駅のホームで彼を

見送った。

涙を流してはいけない。こらえ切れない

想いを胸に……。


「万歳!」 人々の声がホームに響く。

彼を乗せた汽車が、ゆっくり走り

出す。

(ご無事で……) 心の中で呟いた。


彼を見送った帰り道、私は一人

あの丘へ向かった。

彼との思い出が溢れる丘。

柿の木の前に座りこみ、声を殺して

私は泣いた。

泣いている姿を、誰かに見られては

いけない。

名誉の出征なのだから。


軍歌を歌い、皆で彼を見送った。

優しい笑顔を残し、彼は行ってしまった。


「約束、守って下さい」 涙を流し、

誰に言う訳でもなく、私は一言、そう

言った。


父の話だと、彼は内地での勤務に

就いたと言う。

内地勤務。

「彼はどうして内地での勤務なの

ですか?」 私は外地に行くと思って

いたので、父に尋ねた。

父は「彼はどうも、胸が悪いらしい。 それで

外地へは行けないと聞いたよ」 そう答えた。


父の言葉が信じられずにいた。

あんなに元気な姿だったのに。

私は今にも取り乱しそうな自分を

抑えた。


馬での怪我が原因らしいと、父が

後からそう告げた。


外地へ行かなくて良かったと、喜ぶ

事はできない。

病気とあらば、尚更心配になる。

けれど、私にはどうする事もできない。

ただ、彼の無事を祈る事しかできなく、

こんな自分が情けない。

お国の為にと言っていた彼の言葉が、

虚しく私の頭の中でこだまする。


それから、戦争は激しくなり、街の

中心地などにも爆弾が落とされた。

私の村の人達も、不安な日々を過ごす。

食べる物さえ、事欠く日が続いた。

村の男の人も、殆どが出征して

行った。


不安な日々が続く中、ある日、私宛に

一通の手紙が届いた。

差し出し人は、彼からだった。


高鳴る胸を抑え、私は静かな場所で、

手紙をひらいた。


『お元気ですか。』手紙は丁寧な文字で

つづられていた。

私への気遣いや、勤務の様子など書かれ

ていて、自分は村には帰れない。

病気の為、ある病院へ入る事になった。

申し訳ない。そう書かれていた。


馬での怪我の時は、同じ村にいた。

会えなくとも、彼を近くに感じる

事ができた。

けれど、今は遠くの地で、病気を患い、病院へ入る。


私の手は届くことはない。

ポツポツと、目から涙がこぼれ、手紙を

濡らす。

本当に、本当に、もう会う事ができない。

約束も果たせない……。


結婚を決めた訳ではないが、何と無く

そんな雰囲気になったと思った。

両親には話をしてはないけれど、

彼との事は、いずれ話すつもりで

いた。



ただ、一度きりのあの言葉を、私は

信じていた。


戦争へ赴いた方達の事など、もちろん

知る由もない。

彼が何処へ行き、どんな生活を送って

いるのかも。

私には想像もできない世界に彼がいる。


手紙を自分の机の引き出しに、そっと

しまった。

鏡を取り、自分の顔を映した。

泣き腫らした目をしていては、誰もが

不思議に思うだろう。

いつもの様に振舞わなければ。

私には、それしかできない。


時が過ぎていった。そんなある日、彼の両親がうちへ訪ねて来た。


彼は病院へ入ってからも、状態は

あまり良くない。そんな事を話している声が

私のいるお勝手にも聞こえてきた。


ぎゅっと唇を噛み締め、仕事をしていた

私の元へ、彼のお母様がやってきた。

手には小さな包み紙を持っていた。

そして「あの子からです。 どうか

あなたにお渡し下さいと」 優しく

笑い、私に手渡した。

そして、また戻って行った。


私は、包み紙をそっと開いた。

中には柿の色をした、櫛が入っていた。


あの丘の柿の色。

私はとっさにそう思い、夢中で駆け出した。

あの丘へと。

柿色の櫛を握り、あの丘へかけて行った。

息を切らし、丘の柿の木を見上げる。


今は、柿の木には枯葉が数枚あるだけ。

私は握っていた櫛を見つめた。

不思議と涙は流れない。

幸せな思い出がある。彼との思い出。

そして、あの約束。

目を閉じて彼を思う。春はやがてくる。

風が私を包む様に吹き上げた。

柔らかな風。彼に包まれている気がする。

あの大きな手の温もり。そっと思い出す。


間も無くして、彼が亡くなったと

父から聞いた。余りにも早すぎると父達は

嘆いた。


私は心のどこかで覚悟を決めていたの

かも知れない。

現実を受け止めた。少しだけ、少しだけ、

涙が滲む。


私は大丈夫。


あの櫛で、毎日髪をとく。彼が近くに

いる様に感じる。



結ばれる事はなかったけれど、私の

人生に、彼がいた。


満天の星空をあの丘で見上げ、彼を想う。



この先の事など、誰にも分からない。

厳しい現実を、私は生き抜く。

悲しい時代に生まれたけれど、私は

この時代を生き抜く。



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