第16話
部屋に戻ると、無理をして睡眠時間を削り、仕事を片付けてきた上に、いつもより酒を重ねていたギルバートには、さすがに強い酔いが回っていた。
ネクタイを緩め、ソファにどさっと深く腰を下ろす。
「ギルバート様、大丈夫ですか? お水をお持ちしました」
エカテリーナが心配そうにグラスを差し出すと、ギルバートは「……すまない」と受け取り、一気に飲み干した。
「ふう……少し、飲みすぎたな」
「あの、ギルバート様。ベッドをお使いください。私はソファで休みますから」
そう気遣うエカテリーナだったが、その表情には、どこか切なさが滲んでいた。
彼女はためらうように小さく息を吐くと、意を決したようにぽつりと言葉を紡ぎ出す。
「……さっき、レストランの店主さんが仰っていたことですが。私、昔、パーティーで具合が悪くなってしまったことがあるんです」
「……」
「前の夫であるジュリアスと出席したパーティーだったんですけどね。お恥ずかしい話なんですが、お酒とジュースを間違えて飲んでしまって……急なめまいと吐き気に襲われてしまったんです」
当時の苦しい記憶が蘇るのか、エカテリーナの瞳が潤み始める。
「人目を引くような失態を晒すわけにはいかないし、誰もいない暗がりの庭の片隅へ、誰にも気づかれないようにこっそりと隠れて……ひとりでずっと苦しんでいたんです」
「でも、ジュリアスは私のことなんてまったく気にかけず、どこかへ行ってしまって……。ただ冷たい夜風に震えながら、耐えるしかなかった」
だからこそ、目の前で酒に酔って苦しそうにしているギルバートの姿と重なってしまったのだろう。エカテリーナは泣きそうな顔で、絞り出すように言った。
「……あのとき。誰も気づいてくれないと思っていたんです。ただ一人で息を潜めているしかなかった。……だけど、どこからか誰かが現れて……言葉もなく、そっとお水を差し出してくれたのです」
「…………!」
「ぐったりしてしまっていたので、ちゃんとお礼も言えなかったけれど……あの時、どれほどその優しさが嬉しかったか……」
(あのとき、君に水を差し出したのは……)
「だから、今、ギルバート様はきっとお辛いでしょうから……」と続けるその言葉が、ギルバートの胸を締め付ける。
「ごめんなさい、これじゃ、ただのジュリアスの悪口になってしまいましたね……ギルバート様、どうかベッドでお休みになってください」
その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの表情がわずかに揺れた。
彼女が苦しんでいたあの夜、自分はただ水を渡すことしかできなかった。あのクズ野郎への怒りと、自分の無力さが胸の内で渦巻く。
だが、それ以上に――ギルバートの理性を激しく揺さぶったのは、あふれ出す感情の奔流だった。
「……あなたは」
掠れた低い声で、ギルバートは問いかける。
「まだ、前の夫のことが好きなのか?」
「……いいえ、もう、なんとも思っていません……それでも、一度は夫婦だった人です。あんな人との思い出でも綺麗さっぱり忘れることは、簡単にはできないんでしょうね……」
自嘲気味に微笑むエカテリーナ。
その姿を見た瞬間、ギルバートのなかで嫉妬と愛おしさが一気に膨れ上がり、張り詰めていた理性が、ついに限界を迎えた。
――あんな男に傷つけられた記憶を、なぜ今も引きずらなければならないのか。なぜ彼女にそんな切ない顔をさせるのか。
いてもたってもいられず、ギルバートは思わず立ち上がり、目の前にいたエカテリーナを強く抱きしめた。
「っ……! ギルバート様……?」
突然のことに、エカテリーナは大きく目を見張り、息を呑む。
力強い腕に包まれ、彼の胸元から伝わる熱と鼓動に、思考が真っ白になっていく。
戸惑うエカテリーナをそのままに、ギルバートは強い力で彼女を抱きしめたまま、勢いに任せるようにしてふかふかのベッドへと倒れ込んだ。
「わっ……! ギルバート様!?」
予期せぬ体勢の崩れに驚き声を上げるエカテリーナを、ギルバートは覆いかぶさるようにしてしっかりと閉じ込めている。酔いと抑えきれなかった感情に突き動かされ、熱を帯びた息を彼女の髪に落としながら、途切れ途切れに本音を零した。
「あんな奴……あんなクズ野郎なんかより……っ、俺のほうがずっと、ずっと前からあなたを……!」
「え……?」
頭が追いつかないエカテリーナの耳に、震えるようなギルバートの切実な声が響く。それは、普段の冷徹な「氷の騎士」からは想像もつかない、あまりにも生々しい本音だった。
(――っ!? ずっと前から……って、どういうこと……?)
射抜くような眼差しでエカテリーナを見つめるギルバート。
動揺するエカテリーナが何か言い返そうとしたその瞬間、ピタリと彼の動きが止まった。
エカテリーナに覆いかぶさるようにして、荒かったはずの呼吸がゆっくりと落ち着き、やがて規則正しく刻まれる穏やかな寝息――。
「…………え?」
あまりの急展開に目をパチパチさせながら、エカテリーナはそっと覗き込んだ。
そこには、あれほど激しく感情を爆発させていたのが嘘のように、すうすうと心地よさそうに眠りについているギルバートの姿があった。無理をして仕事を片付け、お酒もたくさん飲んで、そのうえ限界まで張り詰めていた緊張が、彼女を抱きしめた瞬間にプツリと切れてしまったらしい。
(うそ……寝ちゃった……?)
腕を回されたまま身動きが取れないでいると、ふと、エカテリーナの胸のなかに温かいものがこみ上げてきた。
普段は誰よりも厳格で頼もしいギルバートが、今はまるで子供のように自分にしがみつくようにして眠っている。その姿は、どこか不器用で、愛おしくて――胸の奥がキュッと締め付けられた。
年下の夫が見せる、こんなにも予想外な子供っぽさと必死さ。それがなんだかたまらなくかわいらしく思えて、エカテリーナは思わずクスリと小さく笑った。
すっかり尖っていた気持ちがほどけていき、彼女はそっと自由になった片手を伸ばすと、ベッド脇にあったブランケットを引き寄せ、ギルバートの肩口まで優しくかけてやった。
さらに、小さくうなされるように眉を寄せた彼の背中を、まるで子供をあやすようにそっと「トントン」とリズムよく叩く。
「……お疲れ様です、ギルバート様」
耳元で優しく囁くと、ギルバートは安心したようにその大きな体をさらに預けてきた。その温もりを感じながら、彼の整った寝顔を間近で見つめているうちに、エカテリーナのまぶたも急に重くなっていく。
旅の疲れに加え、今日一日で揺さぶられた感情も、もう限界だった。
そして何より、目の前にいるこの人の不器用な優しさに包まれていることが、彼女に大きな安心感を与えていた。彼女はだんだんと意識を手放していき――気がつけば、そのままギルバートの隣ですやすやと深い眠りに落ちてしまうのだった。




