第10話 肉増量、愛情増量
勢いよく店へ飛び込んだせいで、ドアベルが抗議みたいな音を立てた。
「オカフォーさん! すみません!」
「ん」
顔も上げない。
……怪しい。
私は煙とか、黒焦げの肉とか、消火器を構えたディーとかを想像しながらカウンターを回り込んだ。
だが、厨房は腹が立つほど普通だった。
コールドステーションには新しいパンチャンが並んでいる。キュウリも追加で切ってあるし、鉄板の横では次のご飯が冷まされていた。底にはちゃんと、きつね色のヌルンジまでできている。
空になっていたネギの容器まで補充済み。
私は止まった。
「……あれ」
横からディーが出てくる。
「あれ?」
「もっと酷いことになってると思ってた」
「そうでしょうね。外でどれだけサボってたか、自分で分かってる?」
「三分くらいでしょ」
「三十七分」
「数えてたの?」
「時計あるから」
正直、自分でもそんなに外にいた気がしない。
楽しい時間というものは、本当に速く過ぎるらしい。
オカフォーさんが鉄板の何かをひっくり返した。
私はカルビの作業台を見る。
……あれ?
漬け込んだ肉は、私が置いていった場所から動いていない。
自作のタレもそのまま。
オカフォーさんを見る。
「こっちは触ってないんですね」
「触ってない」
「でも、それ以外は全部やってくれた」
「そうだ」
口元が勝手に緩んだ。
ほら。
だから私は、話の分かる人間と働くのが好きなのだ。
「理解してくれると思ってました」
「分かったように頷くな。さっさとカルビを仕上げろ」
「ふふ。隠しても無駄ですよ。オカフォーさん、実は私のことよく分かってるでしょ」
オカフォーさんは完全無視で食器洗浄機へ向かった。
ディーが私を見る。
「喋ってないで料理して。あと氷も追加。私はあの人たちからドリンク代を搾り取ってくる」
……ついに隠さなくなった。
搾り取る、って言ったぞこの子。
まあ、外にいた連中は喉が渇いて戻ってくるだろう。
ドリフトには十人前。
ドッツァにも何かサービスすると約束した。
私は手を洗い、エプロンを締め直した。
仕事再開。
最初の肉を鉄板へ落とす。
ジュウッ。
ニンニク。
醤油。
砂糖。
ゴマ。
慣れた匂いが一気に立ち上る。
何も言わず、オカフォーさんが準備済みのパンチャンをこちらへ寄せた。
ちらっと見る。
向こうはこっちを見ない。
……やっぱり、いい上司だ。
窓の外では、まだ赤と青の光が瞬いていた。
通りの大半は警察に占領されている。
イエローキングのコルトは、ドリフトに叩き伏せられた位置からまだ動いていない。ただ、壊れた消火栓だけは誰かがようやく止めたらしい。
警官たちがスキャナーを持って機体の周囲を調べている。
少し離れたパトカーの横にはイエローキング。
まだ喋っていた。
ガラス越しだから何を言っているのかは聞こえない。
聞こえなくてよかった。
一方、マーリン・ダンサーは駐車場の端で電源を落としていた。
白い装甲。
オレンジのライン。
見るからに高そうな八メートルの機械が、セダン二台とオカフォーさんの配達用バンの横に普通に停まっている。
もう妙に馴染んでいた。
私の感覚では、B.O.X.の横には弾薬箱が積まれ、その辺を制服姿の人間が歩き回っているほうが普通だったはずなのに。
変なものだ。
ドアベルが鳴った。
ドリフトが入ってきた。
一人だった。
店内を一度だけ見回し、角のボックス席を見つける。
そして、さっきとまったく同じ席へ座った。
「ソフィア。戻った」
「そう」
ソフィアがテーブルから顔を上げる。
「何も壊さなかったわね」
「あの人が壊した」
一拍。
「あと、ソフィア」
「何?」
「嘘ついた」
ソフィアがゆっくり眼鏡を下げた。
「……何ですって?」
「店員さん、外にいた」
ドリフトは本気で裏切られたような顔をしている。
「私の肉、焼いてなかった」
ソフィアが乾いた笑いを一つ漏らした。
だが、答えられる前に。
私は古来より軍隊に伝わる秘技を発動した。
料理への苦情が発生しそうな時だけ、とても速く動く技である。
ドリフトがこちらを向いた時には、私はすでに一皿目を持ってテーブル横へ到着していた。
「嘘じゃないよ。はい、一人前目」
目の前へ置く。
「次もすぐ作るからね、ミス・ドリフト」
ドリフトが私を見る。
料理を見る。
もう一度、私を見る。
何か間違ったことを言ったらしい。
「私のこと知ってるの?」
「ここまで騒ぎになって、名前知らないほうが難しいでしょ」
「リリアン! 氷追加!」
ディーの声。
確かに。
戻ってきた客たちは砂漠を横断してきたみたいな勢いで冷たい飲み物を注文している。
「はーい!」
私はテーブルから離れた。
「あ――」
振り返る。
ドリフトが何か言おうとして口を開いていた。
残念。
今の私にとって、ディーのほうが生存上の優先順位が高い。
三十七分も怒らせる理由を積み上げてしまった。
ドリフトの用事はあとだ。
何人前か過ぎても、ドリフトはまだ食べていた。
ディーが角のボックス席へ何往復したか、途中から数えるのをやめた。
私が次のカルビを準備していると、またドアベルが鳴る。
何人かが一気に入ってきた。
最初はロッテ。
警察。
B.O.X.の残骸。
叫び続けるファン。
デトロイトの午後。
あれだけのものに囲まれていたはずなのに、服には皺一つない。
汗すら見えない。
天然なら感心するところだった。
その後ろを見る。
女の子が二人ついてきていた。
二人とも、小型のハンディファンをロッテへ向けている。
……ああ。
ファンがついていた。
文字通りの意味でも。
続いてドッツァが入ってきた。
死んでいた。
「おかえり、ドッツァ」
ドリフトは料理から目を上げずに言う。
ドッツァが止まった。
「なんだろうな。お前に言われると全然嬉しくない」
身体を引きずるようにボックス席まで行き、空いている席へ崩れ落ちる。
少し遅れてロッテも座った。
これで。
ヴァナディスの四人が、また全員そろった。
サービスすると言った。
ロッテとドッツァは、警察やファンやデトロイトの午後の暑さを相手に、ずっと外にいた。
だから、少しだけ先に用意してある。
ドッツァには冷麺。
さすがにスープを一から取る気はない。
私は仕事中だ。
六時間の自由時間があるわけじゃない。
幸い、オカフォーさんは店のいろいろな料理に使う牛のスープを普段から仕込んでいる。
その一部をまだ温かいうちに取って脂を除き、冷水と市販の冷麺スープを合わせた。
派手さはない。
でも、ちゃんと美味しい。
酢を少し。
味を見る。
塩を調整。
そして、外でみんなが道路をイベント会場に変えている間、冷蔵庫の一番冷えるところへ放り込んでおいた。
肉はもっと簡単。
今朝スープを取った時のブリスケットが少し残っていた。
火は通っている。
冷えている。
ラップされてウォークイン冷蔵庫の中で、次の人生を待っていた。
今日から君は私のものだ。
繊維を断つ向きで薄く切る。
次は麺。
当然、市販の冷麺。
デトロイトの食堂の裏で、そば粉から麺を打つ気はない。
短時間だけ茹でる。
ほぐれたらすぐ冷水。
さらに氷水。
指で揉みながら余計なぬめりを落とし、しっかり冷やして弾力を出す。
キュウリは細切り。
ゆで卵を半分。
冷えた牛肉を数枚。
完成。
麺を金属の器へまとめ、片側へ牛肉。
上にキュウリ。
横へ卵。
冷たいスープを注ぐ。
氷が少し浮かんだ。
酢とマスタードは別添え。
鼻の穴が消滅するほどマスタードを入れたい人もいる。
そこはドッツァ自身に決めてもらおう。
私は器を運び、彼女の前へ置いた。
ドッツァが目を丸くする。
「うお。何これ。今日あたし誕生日?」
たぶん好感触だ。
ロッテには、カウンター下で冷やしてあったピッチャーを取り出す。
キュウリのアグア・フレスカ。
こっちは前もって作っていた。
皮を剥いたキュウリ。
ライム果汁。
砂糖。
水。
全部ミキサー。
濾す。
味見。
ライム追加。
もう一度濾す。
簡単。
ピッチャーごと冷蔵庫に入れてあった。
先に氷を入れて薄める必要はない。
そのためにディーが緊急用の氷を大量に用意させたのだ。
グラスいっぱい近くまで新しい氷を入れる。
ピッチャーを一度混ぜる。
注ぐ。
淡い緑色の液体が氷の隙間へ流れ込んだ。
グラスがすぐ白く曇る。
ロッテの前へ置いた頃には、もう側面を水滴が伝っていた。
一口。
ロッテの目が輝く。
「ソフィアありがとー! なにこれ、めっちゃ生き返る! 今まさに欲しかったやつ!」
「私ではないわ」
「え?」
ロッテが首を傾げる。
ソフィアが私を見る。
微笑む。
くそ。
笑顔までずるいくらい綺麗だ。
「約束したサービスの一部」
「えっ、ありがと! お姉さん最高!」
「どういたしまして」
反対側からドリフトが顔を上げる。
「店員さん――」
「リリアン! カルビ追加!」
ディー。
まただ。
私は厨房を指差した。
「仕事に呼ばれた」
「あ」
ドリフトの口が閉じる。
本日二回目。
何を聞きたかったのか知らないが、また飲食業に負けた。
厨房へ戻る。
次に角のボックス席を見た時には、状況が悪化していた。
キュウリのアグア・フレスカが、ほとんどなくなっている。
ロッテも同時に気づいた。
「あっ! ソフィア!」
ソフィアが静かにグラスを下ろす。
「全部飲んだ! それあーしのだったのに!」
「正確には、私たちのものよ」
「でもソフィア外にいなかったじゃん!」
反対側では、ドッツァが冷麺の器を自分のほうへ抱き寄せている。
「あたしは外にいたぞ。なのにこっちの暴君はまだ麺まで奪おうとしてる」
ドリフトの箸が、ドッツァの器へ向かう途中で止まった。
「ドッツァ。私も外にいた」
「お前は肉あるだろ!」
ドリフトが少し考える。
そして、自分のパンチャンを一皿押し出した。
「これと交換」
「価値が釣り合ってねえ!」
即座にソフィアを見る。
「ソフィア。ドッツァがケチ」
「お母さんに告げ口かよ」
ドリフトが眉を寄せた。
「バカ。ソフィアはお母さんじゃない」
箸でソフィアを指す。
「お姉ちゃん」
ソフィアは静かにもう一口飲んだ。
どうやら、この件には関わらないのが最善だと判断したらしい。
その頃には店内も少し落ち着いていた。
ファンの大半はコーラと、まだ残っているサイドメニューだけになっている。
カルビは売り切れ。
完全に。
今日の客とドリフトだけで、考えたくない量の在庫が消えた。
ディーが冷蔵庫を開ける。
中を見る。
閉じる。
「おじいちゃん。もう在庫半分以上飛んでる」
「追加で発注する」
ディーが客席を見る。
「有名人ってこんなに儲かるんだ」
オカフォーさんは何も言わない。
ディーが腕を組んだ。
「事前に分かってたら、何品か値上げしたのに」
容赦がない。
「じゃあ、今日の売上から私にもボーナスあります?」
「三十七分前にボーナス権は剥奪されました」
私は胸へ手を当てた。
「チップはもらっていいよ」
「このご恩、生涯忘れません、我が君」
「よろしい」
「すみません」
振り返る。
ドリフトとソフィアが立っていた。
いつボックス席を離れたのか、全然気づかなかった。
「レインから先に」
ソフィアが言う。
「聞きたいことがあったのでしょう?」
あ。
そうだった。
今日二回も何か言おうとして、そのたびに宇宙の意思みたいな力で邪魔されていた。
ドリフトが私を見る。
「レイン」
……。
自分の名前を言った。
私は待つ。
ドリフトも待つ。
「……はい?」
「次、そっち」
「え?」
ソフィアを見る。
笑っているだけ。
何の助けにもならない。
「ああ。名前?」
頷く。
「リリアン。リリアン・フリーハート」
ドリフトが一度だけ小さく頷いた。
満足そうだ。
「……それだけ?」
「ええ」
ソフィアが答える。
「この子は」
ドリフトももう一度頷く。
本当にそれだけだったらしい。
「私は別件があります」
ソフィアがオカフォーさんへ向き直った。
「オーナーと少し相談を」
「何だ」
オカフォーさんが即答した。
珍しい。
「駐車場をお借りしたいのですが――」
「断る」
「おじいちゃん!」
ディーが恐ろしい速さで割り込んできた。
「厨房戻って!」
オカフォーさんがディーを見る。
ディーのほうがもっと強く見る。
「今すぐ」
……戻った。
オカフォーさんが本当に厨房へ戻った。
ディーは一瞬で営業用の笑顔へ切り替える。
「失礼しました。えっと……」
「ソフィアです」
「私はディー。オーナーです。私のオフィスで話しましょう」
いつから?
あと、どこにオフィスが?
あれ更衣室だろ。
「もちろん」
ディーの笑顔がさらに広がった。
二人で奥へ歩いていく。
「リリアン」
振り返る。
あ。
今度はドリフトと二人きりだ。
「何か注文する、ミス・ドリフト?」
「レイン」
「ん?」
「レインって呼んで」
あ。
さっき名前を教えたのは、そういう意味か。
「分かった、レイン。何か欲しい?」
角のボックス席を指差す。
もっと正確には。
ドッツァの冷麺。
「あれも欲しい」
やっぱり奪えなかったらしい。
「あれ、メニューにないよ」
「でも作れるよね?」
「まあ――」
「待って」
レインが両手を上げた。
「リリアンが、肉いっぱい乗せて」
両手を左右へ広げる。
どうやら希望する肉の量を表現しているらしい。
どんどん広がっていく。
私は笑った。
「それ、ちょっと多すぎない?」
「大丈夫。食べられる」
自信満々。
「リリアンの焼いた肉みたいなの。それと焼けたご飯も好き」
一拍。
「肉、いっぱい欲しい」
「いっぱい?」
「いっぱい」
そこで声を少し落とした。
秘密の作戦を教えるみたいに。
「そしたらドッツァが見て、一口ちょうだいって言う」
レインが頷く。
完璧な計画らしい。
「でも、あげない」
出た。
目的。
「ドッツァを悔しがらせるために、肉増量するの?」
「うん」
「いいけど。追加料金取るよ?」
「大丈夫」
迷いなく答える。
「ソフィアの問題だから」
「なんで毎回そういう言い方するの?」
店の向こう側からソフィアの声が飛んできた。
見ると、もうディーとの話を終えて戻ってくるところだった。
眼鏡を直す。
「ですが構いません、ミス・リリアン。こちらで支払います」
レインが満足そうに頷く。
そりゃそうだろう。
払うの自分じゃないし。
ソフィアがロッテのテーブルにある、ほとんど空のピッチャーを指した。
「それと、こちらも追加でお願いできますか? 全員分」
四人を見る。
まだ店の半分を占領しているファンを見る。
「本気? 百万くらい取るよ」
ソフィアが眼鏡を直した。
「B.O.X.を売らなくて済む金額でお願いします」
「三百!」
背後からディー。
「米ドルで三百。現金。五十杯。ヴァンガードクレジット不可。SNS宣伝不可。サイン払い不可」
ソフィアが少し考える。
「それなら、かなり良心的ですね」
「交渉成立」
ディーが私を指す。
「リリアン。作って」
「結構な量なんだけど。人手欲しい」
ディーがカウンター近くに座っていたヴァナディスファン二人を指した。
「そこの二人」
二人の青年が背筋を伸ばす。
「おかわり無料にしてほしい? じゃあ手伝って」
二人とも手を上げかけた。
一人が途中で止まる。
「いや、別にそこまで――」
ディーがレインを指差す。
「この子たちの分」
二人がレインを見る。
「「やります!」」
ソフィアが眼鏡を押し上げた。
「ファンを搾取しないでいただけます?」
「本人たちが志願しました」
確かに。
もう立っている。
便利な労働力を確保した。
「はい、こっち来て」
二人をカウンター内へ呼ぶ。
「君はカップと氷。君は完成したピッチャーを運ぶ係」
指を立てる。
「刃物、熱い物、高そうな物、それとディーに怒られそうな物には触らない」
新しく手に入れた部下を連れて厨房へ戻る。
オカフォーさんが、私の後ろに青年二人がついているのを見た。
何か言うかと思った。
二人を見る。
そして何事もなかったように鉄板へ戻った。
さすがだ。
一人がグラスへ氷を入れる。
もう一人が出来上がったピッチャーを各テーブルへ運ぶ。
私はキュウリのミックスだけに集中できる。
それだけで仕事量が半分になった。
そしてようやく。
レインの新しい無茶振りに取りかかれる。
肉増量冷麺。
その頃には、オカフォーズは食堂というより、誰かが貸し切った誕生日会場みたいになっていた。
ファンがテーブルの間で飲み物を運び。
入口ではロッテが写真を撮っている。
外ではマーリン・ダンサーがまだ駐車場の一角を占領し、その横にはヴァナディスのトレーラーまで停まっていた。
どうやら、ソフィアの駐車場契約は金だけ払えば終わりという話でもなかったらしい。
ディーはここ十分ほど、レジ横でずっと電話している。
タブレットを見ながら、市役所のどこかと話しているようだった。
民間の敷地に、認可済み賞金稼ぎの八メートルB.O.X.を継続して置くための許可。
たぶん、その辺。
隠そうとしても隠しきれていない笑顔を見る限り。
ソフィアが提示した金額は、面倒な手続きに十分見合うものだったらしい。
詳しい契約内容は知らない。
でも。
どうやらヴァナディスは、しばらくこの辺にいるらしい。
ということは。
またここで食べるかもしれない。
私はレインの冷麺へ肉を積み続けた。
オカフォーさんがこちらを見る。
「嬉しそうだな」
「私はいつだってハッピーですよ」
「今日はよく笑ってる」
肉をもう一枚乗せる。
「隠し味を入れてるだけです」
器を少し持ち上げ、山になった肉をオカフォーさんへ見せた。
「愛。情熱。魂です」
オカフォーさんの目が、器から私へ。
そして。
また器へ戻った。
何も言わず、仕事へ戻る。
私はレイン用の、すでにどうかしている肉の山を見下ろした。
……まあ。
もう一枚くらい、いいか。




