第1章 黄色いライン
高速道路の検問所、その下を横切る黄色いラインが、また剥がれかけていた。
まあ、最初からまともに直されていたかと言われると怪しいけど。
厨房の窓から見ると、古くなったマスタードを道路にぶちまけ、途中で飽きてそのまま放置したようにしか見えない。塗装はひび割れ、色はすっかり褪せている。端の一か所なんてアスファルトから完全に浮いていて、車が通るたびに巻き起こる風でぺらぺらとめくれ上がっていた。
あれを見るたび、今度こそ千切れて飛んでいくんじゃないかと思う。
飛んでいかない。
しぶとい。
そのくせ、下に埋め込まれたセンサーだけは今日も絶好調だった。朝食の時間が終わってから、もう七人捕まえている。
毎回やることは同じだ。
車がラインを越える。遮断機が下りる。係員が出てくる。
顔にはだいたい『はいはい、またね』と書いてある。
居住パスの期限切れ。就労IDの期限切れ。有効期限というものを、どうやら「守れたら守ってください」程度のお願いだと思っていた観光客も一人。
今日も検問システムは無敗だった。
犯罪者だろうが、単に更新をサボっただけの人間だろうが、平等に捕まえていく。
素晴らしい。
そんなことより、善良な市民である私にはもっと大事な仕事がある。
カルビをひっくり返すことだ。
肉の脂が鉄板に落ち、ジュウッ、と気持ちのいい音がした。煙と一緒に、ニンニク、醤油、砂糖、それから焦げた牛肉の匂いが厨房いっぱいに広がる。
自分で焼いているのに、たまに腹が鳴りそうになる。
うん。こっちのシステムのほうが信用できる。
アメリカ、ミシガン州デトロイト。
イエローゾーン。
住民が地区をまたいで自由に移動するには、居住パスか就労IDが必要になる。訪問者には一時滞在許可証。配送業者にはもちろん配送業者専用の書類。
政府というものは、一枚の書類を見つけると、なぜか三枚に増やしたくなる生き物らしい。
デトロイトは、何を取ってもちょうど中途半端な場所だった。
まともに守ってもらえるほど豊かではない。完全に見捨てられるほど貧しくもない。そして、みんなが欲しがる程度には重要だ。
一時期、政府の公式文書ではこの街を『北中西部生産回廊第三地区』と呼んでいた。
十六か月で終わった。
抗議運動にかかる費用がいい加減しゃれにならなくなったあたりで、政府もようやくデトロイトには最初から名前があることを思い出したらしい。
似たような改名計画から生還した街は、ほかにもいくつかある。
人類は環境への適応力が高い。
だが、どうやら限界はある。
そこは尊敬したい。
私はこの街の生まれではない。
というか、地球の生まれですらない。
それでも、鉄板の前に立ち始めて六か月。店の客と、うちのエースがなぜあんなクソ契約に縛られているのかを議論し、次に誰を獲得すべきかで揉め、デトロイト式ピザがニューヨーク式より技術的に優れている理由について真剣な討論まで経験した。
そろそろ地元民を名乗っても許されると思う。
たぶん。
オカフォーズ・コリアンバーベキューの厨房は、広くない。
小さい、と言うのは少し失礼だ。
私はこう呼んでいる。
『いつになったら改装するんだよ、このクソ狭い厨房。人を増やせないだろ、ジジイ』
もちろん口には出さない。
たぶん。
この店は十五年間、この厨房のまま生き残ってきた。昼定食の匂いなんて、もう壁に染み込んで取れない。
幸い、デトロイトの衛生検査官は東海岸の気取った連中とは違って、厨房すべてが百万ドルのカタログ写真みたいになっていないと気が済まない、なんてことはなかった。
鉄板が本気を出すと換気扇がガタガタ鳴る。頭上の棚の一つは、下の角を蹴らないと開かない。そして冷蔵庫は、ときどき壁の中で正体不明の動物が断末魔を上げているような悲鳴を上げる。
働き始めた最初の一週間は、毎日のように心臓を止められそうになった。
誰か教えてくれたかって?
もちろん誰も教えてくれなかった。
最初の数日なんて、本気で壁の断熱材の中にアライグマでも挟まって死にかけているんじゃないかと思っていた。さすがに耐えきれなくなって、オカフォーさんに聞いたことがある。
彼は在庫表からほとんど顔も上げなかった。
「コンプレッサーは動いてる」
その直後。
ギィィィィィィ――ッ!
また冷蔵庫が鳴いた。
私は冷蔵庫を見る。それからオカフォーさんを見る。
「……これが動いてる音なんですか?」
「古いコンプレッサーだからな」
「成仏する前に、どうしても言い残したことがある霊みたいな声してますけど」
「問題ない」
そうですか。
オカフォーさんによれば、衛生検査官が違反として紙に書かない限り、この店にあるものは全部『問題ない』。
そのうち私も文句を言うのをやめた。
問題ないなら、問題ないのだ。
たぶん。
テーブルに焼肉用の鉄板がついているわけでもない。高そうな無煙ロースターが並んでいるわけでもない。
オカフォーズは、そういう韓国焼肉店じゃない。
ここは食堂だ。
一台の不機嫌な鉄板。いくつかの大鍋。そして、休憩が三十分を超えたら給料を引かれる労働者たちに飯を詰め込む三人の人間。
ドンカス。チゲ。ビビンバ。
手を使って働く人間が、午後を生き延びられるだけの米を腹に入れるための飯だ。
少し手のかかる料理は、日替わりの特別メニューに回る。火曜と金曜はカルビの日。
つまり火曜と金曜は、オカフォーさんが私をいつもより注意深く監視する日でもある。
どうやら私はカルビを前にすると、危険なほど張り切るらしい。
褒め言葉として受け取っている。
レジの裏。カウンターと壁の間にできた狭い死角に、安物のコルクボードが掛かっている。
そこにはポラロイド写真が何枚も貼られていた。
腫れた目。折れた鼻。切れた唇。
完全に隠してあるわけじゃない。カウンターの前に立って、少し身を乗り出し、わざわざ隙間の奥を覗けば見える。
普通の客はそんなことをしない。
写真の大半は、金を払わず店から出ようとした工事作業員や流れの労働者たちだ。
私もここで働き始めて六か月。
何人か追加した。
殴るのは私。
写真を撮るのはディー。
最初は法的に大丈夫なのか少し心配していた。ところが昼飯を食べに来る地元警官は、ボードに新しい顔が増えているのを見るたび笑うだけだった。
誰も訴えてこないのは、警察がうちを庇ってくれているからかもしれない。
たぶん違う。
単に警察も、世の中のほかの組織と同じくらい書類仕事が嫌いなのだろう。
あるいは、私がまだ六か月しか働いていないから、結果が返ってきていないだけか。
その可能性もある。
とはいえ六か月もいれば、常連客が店の外で私を見つけて声をかけてくる程度には馴染む。名前を覚えているかどうかは別問題だけど。
ディーももう、私が必ず二つの出入口と窓、それからオープンカウンター越しに店内全体を見渡せる位置に立っていることを気にしなくなった。
閉店後、暇だからという理由で店中の包丁を研いでいても、オカフォーさんは気づいていないふりをしてくれる。
役に立つから残る癖もある。
役に立つかどうかとは関係なく、残ってしまう癖もある。
必要になる、その時まで。
働き始めて一週間もしないうちに、ディーは私を元軍人だと判断した。
正解。
だいたい。
私自身の感覚では、軍人というより、軍の世界の中で仕事をしていた専門職に近い。
操縦。警備。現地での整備。
募集ポスターではもっと格好よく書かれていた仕事が、ほかにもいくつか。
料理もした。
ときどき。
いや、かなりした。
食べ物味のゼリーじゃなく、ちゃんと噛める飯を腹いっぱい食わせてやると、人間は驚くほど協力的になる。
ついでに、多少は野蛮じゃなくなる。
オカフォーズの求人に応募した時、私はコロニー登録証を身分証として出した。
出生地を見て、オカフォーさんは応募書類を二度読みした。
リリアン・フリーハート。
出生地――木星コロニー、エウロパ、アンヌン・レギオ。
登録印を数秒見つめる。
コロニー生まれ。
だいたい、それだけで相手がまだ口にしていない質問のいくつかには答えたことになる。
オカフォーさんの親指が、応募書類の端を軽く叩いた。
「料理はしたことあるか?」
「まあ、あちこちで」
視線が書類の下へ動く。
「どこで?」
「ヴァンガードの採掘ステーションです」
応募書類が少し下がった。
「採掘?」
「ほかにもいろいろ」
「向こうじゃ銃も持ったか?」
「厳密には、持ってません」
紙の向こうから視線が飛んできた。
私は自分の答えを再検討する。
「拳銃がノーカンなら」
目がさらに険しくなった。
「あと搭載兵器も。あれはたぶんカウントします」
「どんな搭載兵器だ?」
「B.O.X.です」
そこでようやく、オカフォーさんは応募書類を机に置いた。
「でかいやつか?」
「ものすごくでかいやつです。地球の子供がおもちゃを持ってるような。ロケットパンチとかするやつ」
冗談のつもりだった。
笑わなかった。
口元すら動かない。
強敵だ。
オカフォーさんはもう一度、私を見た。
驚いた目ではない。
知っている目だった。
暴力の近くで生きたことがある人間は、同じ匂いのする人間がなんとなく分かる。細かい事情は違っても、立ち方まではなかなか消えない。
「火星より向こうの機体は、こっちとは別物だと聞いた」
「注意書きが多いですよ」
「料理のほうは?」
「注意書きは少ないです」
無反応。
そろそろ、この人は冗談が嫌いなんじゃないかと思い始めた。
あるいは、私が冗談を言うのが下手なのかもしれない。
証拠が増えてきた。
「何が作れる?」
「覚えるのは早いです。厨房仕事も分かりますし、数をさばくのも慣れてます。いろんな国や地域の料理も試しました」
「うちは木星料理は作らんぞ」
「大丈夫です。木星でも作ってません」
言いたいことは分かる。
宇宙の飯なんて、普通の食材を加工して、いろんな味のペーストにしたものが大半だ。
「でもタコがあるなら、火星料理っぽいものは作れるかも」
オカフォーさんの目が細くなった。
火星。
火星人。
触手。
……。
頭の中ではもう少し面白かった。
説明しようか一瞬迷った。
やめた。
ただでさえ危うい採用確率を、これ以上下げる必要はない。
オカフォーさんの視線が、私の手へ落ちた。
包丁を使う人間のタコは分かりやすい。ただし、私の手にあるのは包丁のタコだけじゃない。
手のひらにかかり続けた強い圧。親指の周りに残った古い硬さ。手袋をした手で、死に物狂いになって握ることを前提に作られた操縦グリップ。
そういうものが残す跡だ。
「書類の年齢より若く見えるな」
「低重力は鮮度保持にいいんですよ」
私は笑った。
「おかげで永遠の十七歳です」
沈黙。
やっぱり笑わない。
面接指南には『緊張をほぐすため軽い冗談を』と書いてあったんだけどな。
「宇宙育ちは、まあ、そういうものです」
「……ふむ」
オカフォーさんは応募書類をもう一度手に取った。
「俺は太平洋緩衝地帯に二年いた。まだ『平和維持任務』なんて呼んでた頃だ」
なるほど。
あの目はそれか。
彼は私のコロニー登録証を指で叩いた。
「コロニー育ちは、歳の取り方が妙だ。誰もその話をしたがらん」
「ヴァンガードのコロニーで起きたことなんて、大抵みんな話したがりませんよ」
「それはそうだな」
もう一度、応募書類に目を通す。
それから二つ折りにした。
「月曜から来られるか?」
「今からでも」
長いこと見つめられた。
やがてエプロンが飛んできた。
私は受け取る。
「流しは奥だ。俺の包丁には触るな」
「了解です」
「あと、昼のピーク中にくだらん冗談を言うな」
「冗談なんて作りませんよ。作るのはうまい飯です」
親指を立てた。
どうやら採用された瞬間、私に残っていた判断力まで消えたらしい。
オカフォーさんの表情は変わらなかった。
うん。
この人が正しい。
少し黙ったほうがよさそうだ。




