1-5デルフトの悲劇
1654年10月12日
ヨハネスは、いつもの通り工房で絵を描いていた。
今回描いているのは、キリスト教の宗教画であり満足する仕上がりになりつつあった。
「マリアとマルタという姉妹が、旅をするキリストを家に迎え入れている」暖かな絵であった。
ふと、先日までこの街を旅で訪れていた美しい少女を思い出した。
黒髪で人形のように整った顔、異国情緒にあふれ、黒い瞳は光を飲み込んでしまうほど見惚れてしまっていた。
名をラデリア…描きたいという衝動は、叶わなかったが、次会う時には必ずと約束を得ることは出来た。
「また会えるかな」
独り言を零すヨハネス、筆を動かし、キャンバスの上に色を乗せていく。
もうあと数日で完成の予定であった。
…その時、雷鳴が轟いた。
「え」
轟音と共に窓ガラスが割れ、棚に置いていた壺が大きな音を立てて地面で弾けた。
神の鉄槌が下されたと一瞬思い、ヨハネスは筆を落とし、その場にしゃがみこんだ。
柱が、壁が、ミシミシという音を立てて軋む。
部屋中に埃が舞い、目を開けると無残な惨状が広がっていた。
外から聞こえるのは、人々の悲鳴、叫び声。
慌てて歪んだ扉を体当たりで開け、外に出ると真っ黒な煙が東の空に上がっていた。
その下には橙色が明るく見え、大規模な火災が発生しているのがわかった。
ヨハネスは何が起こっているのか、まったく理解が出来なかった。
通りの奥から人たちが逃げてくる。その内の何人かは頭や腕を火傷し、血を流していた。
スペインからの攻撃か、事故か、逃げなければと煙と反対方向へ走り出そうとした。
「あぁぁっ、カレル!」
思い出した。
炎が上がっている方向にはカレルの工房があった。
ヨハネスは逃げてきた群衆と逆方向に走り出した。
途中、倒れて動かなくなっている人、泣きながら親を探している子供の横を走り抜けた。
焦げた臭いが強くなってきた。
通りの角を曲がった瞬間、カレルの工房があったはずの建物は一部が崩れ落ちていた。
隣の革工房には火が回り、絶望的な状況であった。
「くそっ!」
ヨハネスは頬に熱を感じながら工房へと飛び込んでいった。
倒れた棚の下にカレルは居た。
その上には折れた梁が落下していて、一人の力ではびくともしなかった。
「おい!ヨハネス!手伝うぞ」
後ろから声がした。
隣の革職人であった。太い腕で、棚を持ち上げた。
少しだけ隙間ができ、カレルを引っ張り出すことに成功した。
「おい!逃げるぞ」
カレルを担いだ革職人のおっちゃんが言う。
ふとヨハネスの目に1枚の絵が飛び込んできた。
それは、黄色く可愛らしい鳥が描かれた『ゴシキヒワ(ゴールドフィンチ)』であった。
それを手に取ると急いで外へと飛び出した。
1654年10月12日
不完全な管理をされていた弾薬庫の40トン以上の火薬が爆発しデルフト市街の4分の1が破壊された。
数千人が負傷し死者100人以上が出る大惨事であった。カレルはがれきの下から助けられたが搬送先の病院で息を引き取り、若くして不慮の死を遂げた。この爆発で作品の大半も失われ、今日に残る彼の作品は10点余りにすぎない。




