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「人間って不思議だねえ。つい、掴んでしまったよ」、手が、離される。「はじめから、殺すつもりだったのに」
あたしは反射的に手を掻き、離された手を掴もうとしていた。でも、もがく手はおじさんの手の甲を引っ掻き、空を掴んだ。
吹き上げてくる風に、髪がたなびく。あたしの顔を包み込むようにはためいて、天へ伸びた自分の腕が、ひどくちっぽけに見えた。
「なんてことするんだあんた!」、ライアンが叫ぶ。
それからは、もうなにも聞こえなかった。風の音だけがあたしを覆い、目の前には走馬灯が放映される。あたしの憎しみに満ちた人生を、ぎゅっと凝縮した小劇場。
『レーニス』、顔いっぱいに喜びを広げて笑う少女。あたしはこの人を、知っている。
ああ……なんで、こんな大事なことを忘れていたんだろう。なんでこんなにもかけがえのないリーススの笑顔を、封じ込めてしまっていたんだろう。そうだった、リーススはよく笑い、よく泣いた。感情豊かな人だったんだ。あたしもそうだった。
あたし達は父さんと一緒に出かけて、二人で駆け回り、あたしだけがはぐれてしまって、橋を渡っている途中で足を踏み外してしまって……そう、今と同じ。絶望的な死の浮遊の中で、やつに出会ったんだ。
漆黒の翼を広げた巨大な怪物は、軽々とあたしの体を宙から掻っ攫い―――そして同時に、一瞬にして奪っていったの。
「本当に、危なっかしい子だね」
とても懐かしい、前世の出来事のような記憶と、目の前の光景が重なる。重厚に空を切る真っ黒な翼、虎のような金色の瞳、牙の突き出した口が、笑う。
「コルロル?」、分かっているのに、なぜか尋ねてしまった。あたしはコルロルに抱えられていた。
やつは可笑しそうに目を細める。「こんなやつ、他にいる?」
地球の引力を、圧倒的な力で振り切って、暗闇に溶け込んだ翼が滑らかに上下する。固い殻に覆われたような腕は温かく、三本しかない指の先には、鋭利な鉤爪が突き出していた。 心臓が騒ぎ出す。早鐘の脈が鳴る。
―――ずっと、この時を待っていた。
待ちわびた瞬間が目の前に訪れた。太もものホルダーに手が伸びる。やつの鉤爪ほどではないかもしれないけど、よく研いだサバイバルナイフは、どこに突き刺せば最も効果的だろう。外皮は固い。やつは鎧をまとった人のような体をしている。
でも、鎧や甲冑がそうであるように、硬い部分同士の継ぎ目というのか、やつの皮膚にも隙間がある。中は人間と同じ柔らかい肉だろうか。急所も、人間と同じだろうか。左胸。手の届く距離だ。外皮の継ぎ目にナイフを差し込めば、心臓に届くかもしれない。
「やっと会えたね、レーニス。ずっと待ってたんだよ」
緩やかに上昇しながら、コルロルは嬉しそうに言った。
髪の毛にしては太い、黒くつやつやしたものが、豊かな草むらのように頭から長く伸び、時折あたしの顔に当たる。先は尖っていて痛かった。海老の触覚みたい。「あ、ごめん」と、やっぱり触覚なのか、手を使わずにやつはそれを背中へ追いやる。自由に動かせるようだ。固く流れる髪のような触覚の中には、角なのか耳なのか、大きな二つの三角が突き出している。
「待ってた? あたしを? なぜ?」
「決まってるじゃないか、僕を愛してくれ」
かくん、顎が落ちる。手で元の位置に戻す。
「なにを言ってるの? あたしは、殺すためにここに来たのよ」
「え? なにを?」
「あなたを」
やつは急停止する。宙の一点に留まり、翼だけが動く。
「本気? なんで僕を……」
「あたしの感情を、盗んだでしょ? そのせいで、ずっと大変だったんだから。ずっと恨んできた。あなたを殺すためだけに生きてきたのよ」
「…………うぞ」、三角の耳が、ぴんと上を向いたあとで、垂れ下がる。「そうだったんだ……。そうだよね。ごめんね、それは辛かっただろうね。本当に、申し訳ないことをしたと思ってる」
「……」
普通に謝られてしまった。




