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夜は何度でも明ける

 宿で出された軽食をしっかりいただいてから、アレクセイと私は学園に戻ってきた。まだ休暇期間中の学園に人影はほとんどなく、学園の中を2人で並んで歩いていても落ち着いていられた。

 私たちは荷物をそれぞれの部屋に置くと、すぐに植物園に集まった。


「そういえばアレクセイ」

「何だ?」


 アレクセイが微笑みと共にこちらを見る。ベンチに腰掛ける彼の膝の上に投げ出した私の脚を毛布越しに撫でながら、ずっと微笑んでいる。植物園の中の温度は一定に保たないといけないので、ストーブなどの大きな暖房器具は持ち込めない。冬は彼が持ち込んだ肌触りの良い毛布を使って、こうして寛ぐのだ。

 私はすっかり気が抜けていつものように過ごしていたけれど、ここだってもう二人だけの場所じゃ無くなっているかもしれないことを忘れていた。


「休暇が始まる少し前のことなのだけれど、ここに来たら置き手紙があって」

「手紙?」

「そう。私、手紙で呼び出されて言われたの……親のことと、あなたのことを」


 アレクセイは私の脚を優しく撫でる手を止めた。怖い顔をするかと思ったけれど、彼の顔からは一瞬表情が消えた。


「俺たちがここで会ってることも、君のご両親のことも知ってる人がいたのか? 誰だそいつは」

「ええと……名前はわからないけど、基礎学術の学級が同じ人よ。話したことはないと思う」

「他には? 何か言われた?」


  膝の上で握りしめた私の手に、アレクセイがそっと手を重ねてくる。


「私はふさわしくないって。あなたが私以外の、私より魅力的なたくさんの女性と深い仲になると」

「何だそれは」


 今度は顔をしかめながらもアレクセイが少し笑ったので、私もつられて少し笑った。よく考えなくともおかしなことを言われたものだ。アレクセイがそういった不誠実な付き合い方をしないことは、私がよく知っているはずなのに。


「それがありえないことは、わかってるだろう?」

「ええ、言われたときはどうしてかその通りだと思い込んでしまったけど……ちょっとおかしくなっていたのかも」

「今、君がありえないってわかってくれてるならいいよ。でも今後そういうことを言われたら、まず俺に相談してほしい」


 重ねられた手をぎゅっと握られて、私は深く頷いた。アレクセイが安心したように微笑む。やっぱりあの女子学生に呼び出されたとき、私は普通じゃなかったのかもしれない。アレクセイと自分の生まれ育った環境の差について、思い詰めすぎていたのかも。


「君の生い立ちを知った上で呼び出しするような奴がいるのは良くないな」

「……そうね」

「ミリアンが申し訳なく思うことは一つもない。俺が怖いのは、君の個人的な事情を不必要に言いふらされたりして、君が傷つくことだよ」


 アレクセイはそこで私の手を持ち上げてそっと口付けた。


「本当の君のことを何も知らない奴に君が傷つけられるのは腹が立つ」


 そう言って、指の一本一本にキスし始めたアレクセイから慌てて手を取り返す。彼はときどき、こうして私の心臓に悪すぎる気障なことをしてくるのだ。それも、その仕草が私にどんな影響を与えるのかを知っているくせに。普段一緒にいるときに感じる穏やかな、満たされた心地良さとは違う、心臓がぎゅうっと痛むようなそれに私はいつまでも慣れることができない。アレクセイが名残惜しそうに私の手を目で追うけれど、返してあげなかった。

 少し深めに息を吐いて、鼓動を落ち着かせる。


「私、多分大丈夫だと思う」

「大丈夫?」

「その、私のことを言いふらされたりしても」


 アレクセイが少し驚いた顔をして私を見た。


「あなたと一緒にいるための努力を履き違えてるわけじゃないから、安心して。あなたが私のことを知っても一緒にいてくれるなら、大丈夫だと思うの。話してしまってからすごく気が楽になった。ずっと自分の生まれを恥ずかしいと思ってたけど、今はそうでもないし、これからもっと良くなっていけると思う」


 私にしては勇気を出して、アレクセイの目を見つめて話す。いつのまにか彼は再び私の手を握っていた。今さら、真面目くさってこんなことを言うのは少し恥ずかしい気もしたけれど、これが今の私がアレクセイに伝えられる精一杯の気持ちだ。もうアレクセイのことを昨日のように苦しめたくない。これからはもう少し、素直に話さないと。言うのをためらうような気持ちも、正直に伝えないと。


「……やり方は色々あるけど、君を呼び出した奴を黙らせることも多分できるし、学園から出て行ってもらうこともできる。そういうことはしなくていいのか?」

「いいわ。余りにも事実とかけ離れたことを言いふらされたら何とかしたいけど……。あなたと、あなたの周りの人たちと、あとは友人が、本当の私をわかっていてくれれば」

「そうか。基礎学術のクラスに友達がいるんだよな。羨ましいよ」

「何言ってるの。友人なんてあなたの方がたくさんいるでしょ」

「だって女友達なんだろ。寮の君の部屋に堂々と出入りできるじゃないか」


 アレクセイが本当に悔しそうにそんなことを言ったので、呆気にとられてすぐに言葉が出てこなかった。真面目な話をしていたのに、全く仕方のない人だ。いや、彼にとってはこれも十分真面目な話なのかもしれないけど。

 放っておくと本当に拗ねてしまいそうだったので、私は少し手を伸ばして、アレクセイの短い前髪の毛を梳いて頬を撫でた。彼は少しむすっとした顔で私を見つめたまま、手の平に頰を擦りつけた。


「……これから先、私の寝室で、私の寝顔を見ることのできる男性はあなただけ。この学園に来てから、教授以外で私の寝顔を見たことのある男性もあなただけ。これで満足してくれないと困るわ」


 「教授も見たことあるのか……」と仕方のないことをぶつぶつ言うアレクセイを、ベンチの上に膝をついてそっと抱きしめる。脚にかけていた毛布が落ちて少し寒い、と思ったら、アレクセイがすかさず毛布で私の脚を包みなおしてくれた。腰に回された手に引っ張られるままにアレクセイの膝の上に横座りになり、彼の鼻にくちづける。

 ふっと優しく笑ったアレクセイが唇を重ねてくる。耳の上を何度も擦るアレクセイの指が気持ちよくて、少し鳥肌が立った。


「……それはそうと、とりあえずは何もしないけど、少しでも君のことを悪く言う奴が出はじめたら対応していいよな?」

「ん……? うん、でも、ほどほどに……」

「わかってる。ほどほどに」


 アレクセイの言うほどほどと私のほどほどが同じものか、きちんと確かめないと……と思いつつ、そのときの私はしばらくアレクセイのキスに集中せざるをえなかった。





 次の日、私はまず教授のところに顔を出した。急に出ていくことを告げた上に、たった二日で舞い戻った私を教授は怒ることなく出迎えてくれた。その場では詳しい事情を詮索せずに、「あとでゆっくり聞くよ」とほほ笑んでくれた。隣にアレクセイが立っていたことで、良い形で解決したのだと思ってくれたのかもしれない。その、干渉しすぎない優しさがありがたかった。


「あーー! ミリアンさん戻ってきた!? よかったぁ、俺ほんとアレクセイに殺されるかと思ったんだよ!」

「ころ……」

「ミリアン、いい。こいつの話は聞かなくていい」


 そして、アレクセイには止められたものの、私が気になっていた彼の友人のもとを訪ねた。あの日私を引き留めてくれたのに、ろくに話を聞かずに飛び出してきてしまったことを謝りたかったのだ。彼は休暇期間を丸々教授の手伝いに費やすそうで、今日も資料を運びながら口を忙しなく動かしていた。


「あの、あのときは本当にごめんなさい。アレクセイにもだけど、あなたにも本当に失礼なことをしてしまって」

「いいよ、こいつと仲直りして学園に戻ってきてくれたんでしょ? それが一番嬉しいよ」


 アレクセイってば、戻ってきて君がいないって知るやいなやものすごい顔になってさぁ……このまま君が見つからなかったら向こう十年くらいはおっかないアレクセイのままだったよきっと……と嘘か本当かわからないようなことを話し続ける彼の友人に、改めて申し訳ない気持ちがわいてくる。


「あの、良ければなんだけど……」

「ん?」

「私とも、友人になってほしいなと思って」


 こんなことを改めて口にする気恥ずかしさから、たどたどしい物言いになってしまう。隣を歩いていたアレクセイが急に焦ったような声を上げる。


「ミリアン? 急にどうしたんだ」

「ミリアンさんと友達になれるなんて、俺は大歓迎だよ」

「俺は歓迎しない」

「良かった……。それなら、どうぞミリアンってそのまま呼んで」

「君をそう呼ぶのは俺だけでいいんだが……」

「ほんと? じゃあそうするね、ミリアン。これからもよろしく」


 彼は持っていた資料をアレクセイに押し付けると、私に手を差し出してきた。ためらいながらその手を握ると、ぎゅっと固い手が握り返してくる。荷物を持たされたアレクセイが恨めしそうに「ミリアン……」と呟くのを見上げて、私は笑った。





 休暇明けにあった友人は、記憶より頬がふっくらとしていた。いつもより賑やかな教室で、私もいつもの休暇明けよりも浮かれた気持ちで彼女と顔を合わせる。


「冬の長期休みは母方の祖父母の家に行くの。いつもおいしいご飯とおやつをたっくさん用意してくれるから食べ過ぎちゃって。ミリアンは? 休暇中はどこかへ行った?」

「ううん、私は学園にいた。でもね……」


 彼女の耳に顔を寄せて、アレクセイと二人で過ごしたことをこっそりと囁く。とたんに彼女は、もともと大きな目を更に丸くして口に手を当てた。


「アッ……! 何!?」

「声抑えて」

「いや、無理よ。何? 二人って、そういう……関係なの?」

「……うん」

「いつから?」

「結構前、かな。ごめんなさい、どう言われるかわからなくて、怖くて秘密にしてたの」

「私にまで!?」


 再び大きな声を出した友人が、ひどいじゃない!と私の肩を掴んで揺すった。本気で怒っているわけではないようだった。興奮で目がきらきらしていた。あなたもこういうゴシップが好きなの、と言いかけて思い直した。彼女はたぶん、私の話題だからこんなに驚いて、喜んでいるのだ。


「ちょっとそれ詳しく聞かせなさい。今日のお昼、ミリアンの植物園で食べない?」

「あのね、何度も言うけど私のじゃないから……。あと、別の場所がいいな。東館の前の芝生は? いつもそんなに人がいないし」

「だってほとんど全部ミリアンが手入れして、ミリアンが使ってるじゃない。東館ね。少し寒いかもしれないけど、ローブがあれば大丈夫でしょう。じゃ、決まり」


 最後に景気よく私の肩を叩くと、友人はくるりと前を向いた。教材を開き、講義を受ける準備を整えている。気づけばいつの間にか今朝一番の講義の教授が教室に入ってきていた。

 友人の、こうした学業における真面目さと切り替えの早さが私は好きだった。彼女と一緒にいると、おしゃべりするときは楽しく、勉強するときは勉強に集中して過ごせるのだ。友人に習い、私も前を向いて講義を聞く準備をした。





「あ」

「ミリアン」


 午前の講義を終えて友人と教室を出ると、ちょうどアレクセイが向かいから歩いてくるところだった。午前中は私たちと同じような座学だったのか、珍しく制服をきちんと着こんでローブも羽織っていた。普段は動きやすい紺色の訓練着でいることが多いのだ。背が高く体格の良い彼が着ると、周りの人と同じ制服でも魅力的に見えるのが不思議だった。


「……アレクセイ」

「やあミリアン。これから昼食か?」

「うん……あの、この子は私の友だち」

「初めまして。ミリアンから話は聞いてますよ」


 ちょうど講義前にアレクセイの話をしたばかりだからだろうか、友人はこれ以上ないくらい満面の笑みで彼に手を差し出す。アレクセイは少し戸惑いながらその手を握り返した。


「初めまして、どうも。俺も、君のことはミリアンから聞いてる」

「あら、そうなのミリアン?」

「もう、いいじゃない……早く東館に行こう。アレクセイ、私たちお昼に行くから」

「ああ、また後で」


 そう言ってアレクセイは、私の肩を優しく抱き寄せて耳の辺りにキスを落とした。友人が隣で「あらら!」と叫んでいるのが聞こえる。ここは講義が終わったばかりの学生でにぎわっている廊下だ。人目はたくさんあるし、今のキスは友人同士の挨拶として言い逃れできるものではないだろう。友人以外からも視線を感じて、慌てて体を離そうとしてもアレクセイの腕はしっかりと私を抱き寄せていてびくともしなかった。

 仕方なく、寄り添ったまま「どうして」とアレクセイを見上げて睨むと、彼は私の大好きな顔で「もう隠さなくていいだろ」と笑った。とても恥ずかしいのに、同じくらいうれしい。


「それじゃ、俺も昼食に行くよ」


 少しの間私を笑顔で見下ろしてから、アレクセイは去っていった。「おっどろいた、本当なのね」と興奮冷めやらぬ声でつぶやく友人の声で我に返り、急いで東館へと足を向ける。


 誰にも知られないようにしていた。知られなくてもいいと思っていた。この関係が学園の中だけで育まれるものなら、私たちのことを知る人がいない方が傷つくことが少ないと思っていた。そう考えていること自体が、不自然で不健全だったのだ。

 学園を出た日――アレクセイに別れを告げようとしていたあの日はとても長かったのに、今日は何だかすぐに時間が過ぎてしまう気がする。

 けれど、今日がすぐに終わってしまっても、夜は何度でも明けるのだ。

 私とアレクセイには何度でも新しい一日が訪れる。

 それはこれまで学園で過ごしてきた日々の中で、一番軽やかで、素敵な予感だった。








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