風の少年
のどかな村、ハルネ。
山と森に囲まれ、畑と小さな川がある。
これといった名物もなければ、珍しいものもない。
のどかなことくらいしか売りのない村。
今日も、そんなハルネに温かな風が吹いていた。
「レイル! またやったね!」
家の裏手から声が飛んできた。
レイルはびくりと肩を震わせ、まず周囲を見回す。
誰もいない。
それを確認してから、慌てて右手を振った。
ふわふわと宙に浮いていた洗濯物が、一斉に物干し竿へ落ちる。
何枚かは、そのまま地面へ落下した。
「ち、違うよ、ばあちゃん。今日は風が強くて」
家の角から、小柄な老婆が姿を現した。
腰に手を当てている。
「今日はほとんど無風だよ」
「そ、そう? でも風ってけっこう突然吹い――」
「レイル!」
「はい……」
17歳になっても、祖母に名前を呼ばれるだけで背筋が伸びる。
マーサは物干し竿を見て、続いて地面に落ちた衣服を見て、最後にレイルを見た。
「風で洗濯物を干そうとしたね?」
「…………」
「したね?」
「ちょっとだけ」
「まったく……」
マーサは呆れながら、地面に落ちた衣服を拾った。
レイルは昔から風を操ることができた。
もっとも、それがどれほど珍しいことなのか、本人はいまいち分かっていない。
10歳を超えた頃には気づいたらできるようになっていた。
手を伸ばせば、そよ風が吹く。
走れば、背中を押してくれる。
木の上の果実が欲しいと思えば、枝を揺らして落としてくれる。
だからレイルにとって風を操ることは、手足を動かすのと大して変わらなかった。
「何度言ったら分かるんだい。人に見られたらどうする」
「誰もいないの確認したって」
「そういう問題じゃないよ」
「便利なんだからいいじゃん」
レイルはそう言いながら、今度は風を使わずに洗濯物を干し直した。
面倒だ。風を使えば数秒で終わるのに。
「便利だから怖いんだよ」
マーサが言った。
「またそれ?」
「まただよ」
これも、昔から何度も繰り返してきたやり取りだった。
レイルが風を操れることを知っているのは、少なくとも村ではマーサだけだ。
幼い頃、一度だけ尋ねたことがある。
なぜ、隠さなければならないのか。
その時、マーサはこう答えた。
『力を持っているってのはね、必ずしも幸せなことじゃないんだよ』
便利なのに。
幼いレイルがそう言うと、マーサは続けた。
『便利だから欲しがる人間がいる。
自分にはないから妬む人間もいる。
怖がる人間だっている。
力を持っているってだけで、その人を見る目を変える奴もいるんだよ』
マーサは昔、レイルと同じような不思議な力を持つ人間に会ったことがあるらしい。
それ以上は、何度聞いても話してくれなかった。
ただ一つ。
『力があるから偉いわけじゃない』
それだけは何度も聞かされた。
だからレイルも、人前では風を使わない。
不便ではあるが、もう慣れた。
「それよりレイル」
「ん?」
「薪は?」
「……あ」
マーサが家の脇を見る。
朝、レイルが割ると言った薪が、そのまま積まれている。
「洗濯物で遊んでる暇はあったみたいだけどねえ」
「今からやるよ」
「昼までに終わらせるって言ったのは誰だい?」
「俺です」
「昼飯は?」
「食べたいです」
「なら働きな」
「はい」
レイルは斧を取りに向かった。
その背中へ、
「風は禁止だからね!」
と追撃が飛んでくる。
「分かってるよ!」
答えながら、レイルは小さくため息をついた。
◇
ハルネ村は小さい。
近隣の町の人間に名前を言っても、知らない者がいるくらいには小さな村だ。
レイルはそんなハルネで生まれ育った。
手がかかる年頃までは両親とも一緒に暮らしていたが、今は遠く離れた研究所で暮らしている。
父も母も研究者だ。
研究所に泊まり込んで何やら難しい研究をしているらしいが、詳しいことはレイルも知らない。
数か月に一度は村へ帰ってくるし、手紙もよく届く。
それに、元気すぎる祖母と暮らしているおかげもあって、レイルはそれほど寂しいと思ったことはなかった。
むしろ両親が帰ってきた時の方が大変だ。
母は鬱陶しいほど抱きついてくる。
父は研究所で見つけた妙な物を土産だと言って山ほど持ってくる。
そして二人揃って食事中まで研究の話を始め、
「食事中くらい研究の話をやめな」
とマーサに叱られる。
そんな両親だった。
だからこそ、風のことは話していない。
もし知ったら、母は間違いなく目を輝かせる。父も一緒になって、
『レイル! 一回だけ! 一回だけ詳しく調べさせてくれ!』
などと言い始めるに違いない。
そして、その一回は絶対に一回では終わらない。
想像するだけで疲れる。
もちろん、マーサから隠すよう言われていることも理由だ。
ただ、残り半分くらいは単純に面倒だからだった。
「レイル!」
薪を割り終えたところで、道の向こうから声がした。村の少年が走ってくる。
「また森行くんだろ?」
「ああ」
「今日、川の方に鹿いたぞ」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「角あったし」
「鹿じゃなかったら何なんだよ」
「でっかいヤギ?」
「それはそれで見たいな」
そんなくだらない話をして別れる。
これがレイルの日常だった。
狩りをする。
薪を集める。
畑を手伝う。
マーサに叱られる。
時々、村の子供たちと遊ぶ。
そして誰も見ていないところでは、ほんの少しだけ風に手伝ってもらう。
平凡だ。
だがレイルは、その平凡さが嫌いではなかった。
◇
夕方。
レイルは薪を背負い、森から村へ続く街道を歩いていた。
今日は獲物を仕留められなかった。
正確には、見つけた鹿に逃げられた。
風を使えば追いつけたかもしれない。
だが、近くに別の猟師がいた。
さすがに人前で使うわけにはいかなかった。
「今日の夕飯、肉なしか……」
マーサの顔が浮かぶ。
別に怒られはしない。
狩りなのだから、獲れない日もある。
それでも少し悔しい。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
街道の先に、人影が見えた。
一人。
大きな男が立っている。
最初、レイルは木かと思った。
それくらい大きかった。
近づくにつれて、輪郭がはっきりしていく。分厚い身体に、使い込まれた外套、無精髭。
旅人なのだろうが、できれば道端で出会いたくない見た目をしている。
レイルは少しだけ警戒した。
だが。
「……ん?」
男は何かを抱えていた。
少女だった。
レイルと同じくらいの年齢だろうか。
男の腕の中でぐったりとしている。
考えるより先に足が動いた。
「大丈夫か?」
声をかける。
男がレイルを見る。
その瞬間、ぞくりと背中に妙な感覚が走った。
怖い。
いや、少し違う。
以前、森で大きな獣と出会った時に近い。
襲われているわけでも、睨まれているわけでもない。それなのに、身体が勝手に警戒している。
男はしばらくレイルを見てから答えた。
「問題ない」
「いや、でもその子、しんどそうじゃないか?」
「む……」
男が言葉に詰まる。
腕の中の少女を見ると、栗色の髪が汗で頬に張りついていた。
息も少し荒い。
どう見ても問題ないようには見えない。
「この先に村があるんだ。
薬師はいないけど、ばあちゃんなら薬草とか詳しいから、多少は診られると思う。
だからおいでよ」
男の表情がわずかに変わった。
だが、すぐには頷かなかった。
「迷惑をかけるつもりはない」
「迷惑じゃないし。それに、娘さん?辛そうじゃない?」
「しかし……」
男が言い淀む。
警戒しているのだろうか。
レイルが不思議に思っていると、男の腕の中から小さな声がした。
「お父さん……」
少女がゆっくりと目を開ける。
「お父さんも疲れているし……お願いしようよ」
「リア……」
どうやら少女はリアというらしい。
リアは弱々しく笑った。
「ね? きっと大丈夫だから……」
最後の言葉だけは、男にしか聞こえないほど小さかった。
男は黙って少女を見る。
少女も男を見る。
何かを確かめ合っているように見えた。
やがて男が息を吐く。
「……分かった」
そしてレイルへ向き直った。
「少年。すまんが、お願いしてもいいだろうか?」
「もちろん。こっちだよ」
レイルは村へ向かって歩き出した。
数歩進んでから振り返ると、大男は少女を軽々と抱いたままついてきていた。
「そういえば、俺はレイル」
「……グラムだ」
男が答える。
「よろしく、グラム」
「ああ」
「その子がリア?」
「そうだ」
腕の中の少女が薄く目を開けた。
「……よろしく、レイル」
「喋らなくていいって。もうすぐだから」
「ありがとう……」
リアは再び目を閉じた。
レイルは前を向く。
変わった親子だ。
その程度にしか思わなかった。
少なくとも、この時は。
この出会いが、自分の平凡な日常を終わらせることになるなんて。
この時のレイルは、まだ何も知らなかった。




