第0話 会社命令で宇宙へ
四十歳になったからといって、何かが変わるわけではなかった。
朝起きて顔を洗い、寝癖を直す。
適当に朝飯を腹へ放り込み、駅まで歩き、満員電車に押し込まれる。
会社へ着けばメールを開き、昨日の続きの仕事をして、昼になれば社員食堂へ行く。
夕方になると、今日中に終わらせるはずだった仕事がなぜか増えている。
相沢直人、四十歳。
未婚。
恋人なし。
役職なし。
これといった特技もなし。
健康診断では腹囲について余計な一言を書かれるようになり、鏡を見るたびに、昔より額が広くなった気がする。
四十年生きてきて、結局こんなものだった。
別に絶望しているわけではない。
満足しているかと聞かれれば、それも少し違う。
まあ、人生なんてだいたいこんなものなんだろう。
その日の午後三時までは、そう思っていた。
「相沢さん」
パソコンの画面から顔を上げる。
隣の島から、小宮美緒がこちらを見ていた。
三十歳。
同じ部署で働く管理栄養士で、宇宙ステーション向け食品の開発担当。
社内でも目を引く美人だった。
少なくとも仕事中は、男の視線より栄養成分表の数字の方が気になるらしい。
「これ、お願いします」
差し出されたタブレットを見る。
宇宙ステーションへ次回送る予定の食品一覧だった。
「また増えたの?」
「二品です」
「昨日も二品増えてなかった?」
「減ったものもあります」
「差し引きプラスじゃん」
「成長です」
「何が?」
美緒は答えず、すっと視線を逸らした。
こういうところがある。
俺はため息をついて一覧を見る。
宇宙食と聞くと、大層なものを想像する人も多いらしい。
特殊なチューブから謎のペーストを吸ったり、銀色の袋に入った正体不明の物体を食べたり。
実際には、もっと普通だ。
ご飯もある。
カレーもある。
魚も食べる。
デザートだってある。
もちろん、無重力という特殊な環境で食べる以上、何でも地上と同じというわけにはいかない。
粉が飛び散るものは困るし、汁物も面倒だ。
保存性や栄養、容器、加熱方法にも制約がある。
それをどうにかして「普通の食事」に近づける。
それが美緒たちの仕事だった。
美緒たちが作ったものを宇宙へ届けるために、延々と書類を回す。
それが俺の仕事だった。
「これ、先方確認取れてる?」
「まだです」
「じゃあ増やせないよ」
「だから相沢さんにお願いしてます」
「俺は魔法使いじゃないんだけど」
「知ってます」
即答された。
もうちょっと悩んでほしかった。
「そういや試作品、冷蔵庫にありますよ」
「また俺が食うの?」
「感想ください」
「俺、最近お前の実験動物みたいになってない?」
「ちゃんと人間として見てます」
「そこは安心した」
社内チャットに部長から通知が入った。
――相沢、会議室へ。
嫌な予感がした。
上司から突然呼び出されて、良い話だった経験がほとんどない。
昇進の内示。
臨時ボーナス。
長期休暇。
そういうものは、俺の人生では都市伝説に近かった。
「あれ。呼び出しですか?」
美緒が俺の画面を覗き込む。
「らしい」
「何かしました?」
「なんで俺が怒られる前提なの?」
「普段の行い?」
「お前、俺のことどういう目で見てる?」
美緒は少し考えた。
「便利な人」
「雑!」
笑いながら席を立った。
◇
会議室には四人いた。
部長と人事の人、それに知らない男が二人。
一人はスーツ姿で、もう一人は胸元に見覚えのある宇宙機関のロゴが入ったジャケットを着ていた。
帰りたくなった。
「失礼します」
「まあ、座ってくれ」
部長が妙に優しい。
怖い。
こういうときの上司は怖い。
俺は促されるまま椅子へ座った。
机の上には薄い資料が置かれている。
表紙には大きく、
『軌道上長期滞在要員候補』
と書いてあった。
見なかったことにした。
「相沢」
「はい」
「君に一つ、相談がある」
絶対に相談じゃない。
社会人を十八年もやっていれば分かる。
上司が会議室で使う「相談」という言葉の半分は、もう決まった話だ。
「現在、我が社が宇宙ステーション向けに参加している実証事業については知っているな」
「一応、担当なので」
「その現地対応要員を一名出すことになった」
「大変ですね」
部長が黙った。
人事も黙った。
宇宙機関の人も黙った。
俺も黙った。
やがて。
嫌な沈黙の意味を理解した。
「……まさか」
部長が頷いた。
「君だ」
「嫌です」
反射だった。
四十年間の人生でも、上位に入るほど素早い判断だったと思う。
「まあ聞け」
「宇宙ですよね?」
「そうだ」
「俺、高いところ好きじゃないですよ」
「宇宙まで行けば高さはあまり関係ない」
宇宙機関の人が真顔で言った。
そういう問題ではない。
「いや、俺、宇宙飛行士じゃないですよ?」
「宇宙飛行士になってもらうわけではありません」
「じゃあ何しに?」
「仕事だ」
部長。
簡潔すぎる。
「出張みたいなものだと思ってくれ」
「出張の距離じゃないでしょう」
「約四百キロだ」
「数字で近く見せようとしないでください」
宇宙機関の人が少しだけ笑った。
笑い事じゃない。
資料が俺の前へ滑ってくる。
訓練期間。
健康検査。
緊急時対応。
無重力環境への適応訓練。
船内設備の操作。
通信。
搭乗手順。
滞在予定期間。
文字を追うほど頭が痛くなった。
「これ……いつからです?」
「来月」
「宇宙に?」
「訓練に」
少しだけ安心した。
本当に少しだけ。
「で、実際に上がるのは?」
部長が言った。
「半年後だ」
俺は資料を見る。
部長を見る。
宇宙機関の人を見る。
もう一度資料を見る。
何度見ても同じだった。
「半年?」
「はい」
「半年訓練したら、人って宇宙行けるんですか?」
「今回必要になるのは、限定された業務と滞在に必要な訓練です。当然、適性検査と医学検査を通過していただく必要があります」
「落ちたら?」
「行けません」
「よし」
「そこで喜ばないでくれ」
部長が額を押さえた。
俺には希望が見えた。
四十歳。
運動不足。
最近階段を上がるだけで息が切れる。
健康診断では毎年何かしら小言を書かれる。
宇宙。
無理だろ。
この話は自然消滅する。
「分かりました。検査くらいなら受けますよ」
俺は余裕を取り戻していた。
会議室を出た俺は、自席へ戻って美緒に言った。
「小宮」
「はい?」
「俺、宇宙行くかもしれない」
彼女は数秒、無言になった。
「…………は?」
たぶん、俺も同じ顔をしていたと思う。
これが、四十歳まで何者にもならなかった俺の、人生で一番長い出張の始まりだった。
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