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1000光年の亡命  作者: リンダ


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亡命船

 第五章 亡命船


 アーク・レヴァナントが地球圏を完全に離脱したあとも、誰も拍手をしなかった。


 出発の成功を祝う声も、安堵のため息も、歓声もない。

 ただ、船体を流れる低い機械音と、人工重力のわずかな揺らぎだけが、彼らがまだ生きていることを示していた。


 朝倉レイは艦橋の前面スクリーンに映る地球を見つめていた。


 それはまだ、星というより故郷の形をしていた。

 青さが完全に消えたわけではない。

 だが、その青にはもう濁りがあった。

 白い雲は煤と塵を含んで灰色にくすみ、夜側では本来あるはずのない光が、傷のように点々と明滅している。

 都市火災。

 軍事施設の二次爆発。

 崩壊した送電網の残光。

 あるいは、最後まで生きようとする誰かの灯り。


 そのどれかだ。


 久我颯人船長がレイの横に立った。


「観測チャンネルを閉じるべきだという意見が出ている」


 レイは地球から目を離さなかった。

「誰からですか」


「心理班と一部の医療班。見続けることで錯乱する者が出る、と」


「でも、切れば忘れ始めます」


 久我は短く息を吐いた。

「私もそう思う」


 二人はしばらく何も言わずに、遠ざかっていく地球を見ていた。


 あの星を見続けることは苦しい。

 だが苦しいから切るという判断は、あまりに人間らしすぎた。

 人類はずっとそうやってきた。

 見たくない現実を遠ざけ、都合のいい言葉で包み、やがて“なかったこと”にする。

 そうして地球はここまで壊れたのではないか、とレイは思った。


「完全表示はやめましょう」

 レイは言った。

「艦橋常設ではなく、観測ラウンジの専用チャンネルへ。見たい人だけが見る形にする。その代わり、記録は残し続ける」


 久我は頷いた。

「そうしよう」


 それは妥協だった。

 だがこの船で必要なのは、正しさそのものより、壊れないための均衡だった。


 アーク・レヴァナントの正式搭乗者数は、最終的に四千三百十二名となった。


 計画上限より少ない。

 宇宙港の暴動でたどり着けなかった者。

 選ばれながら、家族を残して乗ることができずに引き返した者。

 搬送途中で負傷し、適応基準から外れた者。

 最後のゲート閉鎖に間に合わなかった者。


 本来埋まるはずだった座席のいくつかは空いたままだった。

 空席は数字としては小さな欠損にすぎない。

 だが船内では、その空席が妙に大きく感じられた。


「あの席、本当なら誰がいたんだろう」


 そんな声が一度でも上がると、周囲の空気がすっと冷えた。

 誰も答えられない。

 答えたところで何も戻らないからだ。

 けれど戻らないという事実こそが、この船全体を包む沈黙の正体でもあった。


 覚醒勤務群、短期凍結群、長期凍結群への振り分けは、淡々と進められていた。

 航法、機関、医療、教育、治安、農業、生物圏管理、文化アーカイブ、子どもの保護担当。

 船を一つの小さな文明として回すために必要な人間たちは、当面、覚醒区画に残る。

 その中に、朝倉レイもいる。

 一等航海士。

 そして、緊急時には船長権限を継承する存在。


 その肩書きが、本当に現実味を帯びたのは、地球を離れて十時間が過ぎたころだった。


 第一居住リングのC区画で、騒ぎが起きた。


 原因は、保存食の受け取り順だった。

 表面だけ見れば、本当に些細なことだった。


 だが、些細なことが引き金になる時点で、問題はもっと深い場所にある。


「どうせあんたたちは家族ごと助かったんだろ!」


 怒鳴ったのは地質調査技師の中年男性だった。

 本人だけが適格で、妻と娘は地上に残った。

 声をぶつけられたのは、植物病理研究者の女性。

 彼女は息子と二人で乗船している。

 夫は地球に残っている。


 どちらも何かを失っている。

 どちらも完全な“助かった側”ではない。

 それでも、怒りはもっと単純な構図を欲しがる。

 誰かを“より恵まれた側”に押し込めないと、自分の痛みの置き場がなくなるからだ。


「勝手なこと言わないで」

 女性は最初は抑えていた。

 だが、隣で息子が怯えて泣き出した瞬間、声が震えた。

「私は夫を置いてきたの。生きてるかどうかもわからない。あなたに、何がわかるのよ」


「ならどうして乗った!」


「あなたはどうして乗ったのよ!」


 そこで周囲が一気にざわめいた。

 誰かが止めようとする。

 誰かが「やめろ」と怒鳴る。

 別のところでは、別の口論が始まりかける。


 それは喧嘩ではなかった。

 船内に持ち込まれた地球そのものだった。


 誰がより失ったか。

 誰がより傷ついたか。

 誰がより“正当に苦しんでいるか”。


 その比較が始まった瞬間、共同体は脆くなる。


 報告を受けた久我はレイを見た。


「行ってこい」


 レイは少しだけ眉を寄せた。

「治安担当ではなく?」


「治安で抑えても、根は消えない」

 久我は静かに言う。

「君が見てこい。人が、誰を見て落ち着くかを知ることも、一等航海士の仕事だ」


 レイは返事をせずに立ち上がった。

 けれど胸の奥では、その言葉の重さがじわじわと広がっていく。


 人が、誰を見るか。


 それは肩書きではなく、信頼の話だ。

 そして信頼は、命令では作れない。


 C区画の通路は、消毒剤と再生空気の匂いが混ざっていた。

 新造艦の清潔さの上に、ようやく人間の汗と不安が染み込み始めている。


 レイが現場へ着いた時、直接の口論は収まっていた。

 だが収まっただけで、終わってはいない。

 誰もが周囲の顔色を見ている。

 子どもは親の膝にしがみつき、大人は視線を合わせない。

 空気そのものが息苦しい。


 レイは区画の中央で立ち止まり、少しだけ深呼吸をした。

 完璧な言葉なんてない。

 今ここで必要なのは、説教ではなく、この船が何なのかをもう一度思い出させることだと彼女は思った。


「聞いてください」


 声は大きすぎず、小さすぎず。

 それでも艦橋制服の彼女がそこに立つだけで、人々は自然に意識を向けた。


「私たちは、全員が何かを置いてここにいます」


 沈黙。


「家族を置いてきた人がいる。

 来られなかった人がいる。

 直前まで迷った人もいる。

 今でも、自分がここにいていいのか答えを出せない人もいる」


 レイはひとりひとりの顔を見た。

 怒っている顔。

 怯えている顔。

 泣き疲れた顔。

 何も感じないように固まっている顔。


「でも、ここで“誰の傷がより重いか”を争い始めたら、この船はすぐに地球になります」


 その一言で、何人かの目が動いた。


「ここにいる私たちは、正しいから生き残ったわけじゃない。

 偉いから選ばれたわけでもない。

 ただ、背負わされたんです。

 置いてきた人たちのぶんまで、生き延びてしまったという事実を」


 すすり泣きがひとつ聞こえた。


「その重さを、軽くするために他人を責めないでください。

 軽くしたくなるのはわかります。

 でも、それを始めたら、私たちはまた同じことを繰り返す」


 彼女はそこで言葉を切った。

 うまく言えたとは思わなかった。

 けれど、言わなければもっと悪くなる気がした。


「この船は、逃げ切った人たちの箱じゃない。

 ここにいない大勢の人たちの記憶ごと、前へ運ぶ船です。

 それを忘れた瞬間に、亡命はただの逃亡になります」


 誰も拍手はしなかった。

 ただ、怒鳴り返す者もいなかった。

 沈黙の質だけが、少し変わった。


 レイが区画を離れようとした時、先ほどの女性研究者が小さく言った。


「……あなたも、誰かを置いてきたのね」


 レイは振り返らなかった。

「はい」


 それだけで十分だった。


 艦橋へ戻る途中、レイは観測ラウンジへ立ち寄った。


 そこは本来、長期航行中の乗員が星を眺め、閉鎖環境の圧迫を和らげるための区画だった。

 だが今は、まるで追悼室のようだった。

 数人が無言で地球を見ている。

 立ったままの者。

 椅子に座り込んだ者。

 子どもを抱いている者。

 誰も会話をしない。


 地球はもう、ひと回り小さくなっていた。


 七瀬コハルがスケッチブックを広げているのに気づいて、レイは隣にしゃがんだ。


「何を描いてるの?」


 コハルは少しだけ顔を上げた。

「これ」


 そこには二つの丸があった。

 一つは黒く塗りつぶされかけた地球。

 もう一つは輪郭だけの白い星。


「白いほうが、新しい星?」


 コハルはうなずいた。

「まだ色がわからんけん」


 レイは胸の奥が少しだけ締めつけられた。

 まったくその通りだった。

 獅子座方向、1000光年先。

 太陽に似た恒星。

 第三軌道。

 窒素75%、酸素23.5%、二酸化炭素0.5%。

 数字としては希望に見える。

 だが、空の色も、風の匂いも、地面の温度も、まだ誰も知らない。


「青いといいね」

 レイは言った。


 コハルは考えてから、首を小さく振った。

「青くなくてもいい」


「どうして?」


「また壊さんかったら、何色でもいい」


 レイは思わず目を閉じた。

 その言葉は、会議室で交わされたどんな理屈よりも真ん中を突いていた。

 新しい星の条件は、大気組成だけではない。

 そこへ行く人間が、地球で犯した過ちをどこまで止められるかだ。


 地球離脱から十八時間後、艦橋に一本の異常受信が入った。


 広域非常帯域。

 ノイズに埋もれた、弱い信号。

 発信源は特定できない。

 崩壊した地上中継局か、軍の非常回線か、複数の信号が偶然重なったものか。


 高峰悠真がフィルタをかける。

 雑音が少しずつ剥がれ、途切れた声が浮かび上がった。


 《……こちら……地球統合非常……》

 《生存者は……地下施設……》

 《飲料水……放射線量……》

 《子どもを優先……繰り返す……子どもを……》


 そこで一度、通信が激しく乱れた。

 誰かの咳。

 遠くで何かが崩れる音。

 別の声が重なる。


 《宇宙へ行った人へ……もし届いているなら……》


 艦橋の全員が動きを止めた。


 《覚えていてください》


 レイの背中を、冷たいものが走る。


 《ここにいた人たちを》

 《ここで終わった街を》

 《地球が、ただの失敗だったみたいに言わないでください》


 白石凛が息を呑む音が聞こえた。


 《私たちは確かに生きていました》

 《笑ったり、怒ったり、誰かを好きになったり、子どもにごはんを作ったりして》

 《そういう世界が、ここにありました》


 通信はまた大きく歪んだ。

 それでも、最後の断片だけは異様にはっきりしていた。


 《新しい星に着いても……》

 《……人間でいてください》


 ノイズ。

 無音。

 受信断。


 誰もすぐには喋らなかった。

 高峰がそっと受信卓から手を離す。

 凛が掠れた声で言う。


「全部保存して」


「三重にバックアップする」

 高峰は答えた。


 レイは前面スクリーンの向こうを見た。

 地球は遠い。

 もう手を伸ばしても届かない。

 だが今の声で、あの星が単なる“失敗した場所”ではなくなった。

 そこには最後まで人間として生きようとした人たちがいた。

 今もいるのかもしれない。

 その事実が、船内の全員に新しい重さを与えた。


 地球を捨てたのではない。

 地球から追い出されたのだとしても。

 それでも、向こうに残った人々の存在を忘れれば、本当に捨てたことになる。


 その通信のあと、船内の空気は少し変わった。


 明るくなったわけではない。

 希望に満ちたわけでもない。

 けれど、沈黙の質が変わった。

 ただ潰れるための沈黙ではなく、何かを抱え込むための沈黙になった。


 鷹宮美咲は子どもたちを教育保護区画に集め、“日課”を作り始めた。

 起床、食事、静かな時間、話す時間、絵を描く時間。

 それは未来のための学校というより、今日を崩さないための骨組みだった。


 橘沙月は医療区画で、身体だけでなく心のトリアージが必要だと訴え続けた。

「壊れてからじゃ遅い。船の中じゃ、ひとり壊れると連鎖する」


 白石凛は文化アーカイブの対象を拡張した。

 国家の歴史や英雄譚だけではなく、料理の言葉、子守歌、地方の言い回し、日常の癖、家族の呼び名まで保存するよう指示した。

「文明は大きな物語だけじゃ残らない。台所の言葉がないと嘘になる」


 高峰悠真は、航法補助AIの根幹ログに手を入れていた。

 あの誤作動の延長線にあるシステムを、そのまま新天地へ運びたくなかったからだ。


 そして朝倉レイは、艦橋と居住区画を何度も往復しながら理解していた。

 この船を飛ばすのは推進機関だ。

 けれど、この船を保たせるのは人間だ。

 人が壊れれば、1000光年先の座標はただの数字になる。


 地球離脱から二十四時間が過ぎた頃、久我颯人はレイを艦橋後方の観測区画へ呼んだ。


 そこにはもう、地球は小さな球としてしか見えなかった。

 それでも、まだ見える。


 久我はしばらく黙ってから言った。


「君はもう、ただの一等航海士じゃない」


 レイは少し苦く笑った。

「船長代理、という意味ですか」


「違う」

 久我は首を振った。

「人が、君を見るようになったという意味だ」


 レイは答えられなかった。


「船長は命令できる。

 でも共同体を進ませるのは命令だけじゃ足りない。

 あの船を動かすのはエンジンだが、この船を壊さないのは“誰が何を忘れないか”だ」


 レイは観測窓の向こうを見た。

 獅子座方向。

 1000光年先。

 太陽に似た恒星。

 窒素75%、酸素23.5%、二酸化炭素0.5%の空気を持つかもしれない惑星。

 白い星。

 まだ何色かわからない星。


「怖いです」

 彼女は正直に言った。


「知ってる」

 久我は答えた。

「怖くなくなったら、たぶん終わりだ」


 その言葉に、レイは少しだけ救われた。

 怖さが消えないことは欠陥ではない。

 むしろ、まだ人間である証拠かもしれない。


 その夜、レイは自室の記録端末に短く書いた。


 地球を離れて一日。

 私たちはまだ亡命者でしかない。

 だが、亡命者のまま終わるか、新しい文明の最初の住人になれるかは、ここからの選択にかかっている。

 獅子座の方向にある星は、希望というより責任だ。

 あの星へ着いたとき、地球を言い訳にしないこと。

 ここで地球を繰り返さないこと。


 書き終えても、心は軽くならなかった。

 それでいい、とレイは思った。


 軽くなってはいけないものが、この船には多すぎた。


 観測窓の向こうで、地球はさらに小さくなっていく。

 それでもまだ、故郷だった。

 そしてその向こうには、まだ見ぬ空がある。


 アーク・レヴァナントは進む。

 逃げるためではなく、

 置いてきたものを忘れないために。

 そして、もし新しい星に立てるのなら、今度こそ“人間でいる”ために。


 第五章・終

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