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1000光年の亡命  作者: リンダ


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脱出

『1000光年の亡命』


第四章 脱出


⸻


宇宙港へ向かう車列の中で、朝倉レイは初めて“地球の空が終わっていく色”を見た。


それは夜でも昼でもなかった。

東の空には、核爆発に由来する高層大気の発光が赤黒く滲み、西には煤と塵に濁った雲が鉛のように垂れ込めている。

地平線のあちこちでは火災が都市の輪郭をぼんやりと縁取り、かつて文明の灯であったものが、今は文明の焼け跡を照らしていた。


装甲輸送車の小さな防爆窓から外を見ながら、レイはそれが現実だと何度も自分に言い聞かせた。

夢ではない。

訓練でもない。

シミュレーションでもない。

今、自分は選別された者の一人として、宇宙へ向かう車に乗っている。


その事実は、胸の奥に冷たい金属片のように刺さっていた。


車内には白石凛、高峰悠真、鷹宮美咲、そして他にも十数名の搭乗確定者がいた。

子どもたちは別車両に分乗させられている。

それは安全上の配慮であり、同時に、泣き叫ぶ親と引き離される場面を互いに見せないためでもあった。


誰もしゃべらなかった。


装甲車の天井に、何かが断続的に当たる音がしていた。

灰か、煤か、遠くで燃えた何かの破片か。

高峰がそれを聞きながら、膝の上で握った端末を一度も起動しないまま見つめていた。


「……まだ見ないの?」

凛が低く聞く。


高峰は顔を上げずに答えた。

「見たら、たぶん吐く」


レイは彼の横顔を見た。

高峰悠真。

核弾頭管理コンピュータの誤作動を最初に理解し、それでも止められなかった男。

今や彼もまた、アーク計画の中枢技術者として乗船する側にいる。


生き残る資格があるからではない。

船の航行補助システムと冗長AIの再構築に、彼が必要だからだ。


必要。

またその言葉だとレイは思った。


必要な人間から先に生き残る。

国家も企業も軍も、結局はそうして機能してきた。

だが、地球が死につつある日にまで同じ原理を適用することが、果たして“人類の未来”なのか。

答えはどこにもなかった。


⸻


宇宙港は、かつて“地球圏外縁有人航行拠点第三基地”と呼ばれていた。

それが今では、別の名前で呼ばれ始めていた。


最後の門。


正式名称ではない。

誰かがそう呼び、それが広がった。

地球を離れるための門。

生者と死者を分ける門。

選ばれた者と、そうでない者を断ち切る門。


この宇宙港は赤道近傍の海上人工島群と地上接続基地から成る複合施設で、通常なら民間貨客輸送、軌道エレベーター補給、外縁ドック支援を担っていた。

だが今、そのすべては停止している。

残っているのは、アーク計画関連の最優先輸送だけだった。


車列が最終検問を越える直前、先頭車両から緊急停止の指示が飛んだ。


全員の身体が前につんのめる。


「何があった?」

コリドー通信で護衛隊長の怒声が飛ぶ。


数秒後、前方ドローン映像が各車両に転送された。


宇宙港外周フェンスに、夥しい数の人が押し寄せていた。


レイは息を呑んだ。


群衆。


ただ多いのではない。

数の感覚を失うほど、多い。

軍用トラックの荷台から飛び降りてくる者。

徒歩で何十キロも来たらしい者。

幼児を抱えた親。

負傷者を担架で運ぶ者。

手製のプラカードを掲げる者。

銃を持つ者。

石を投げる者。

泣いている者。

怒鳴っている者。

フェンスに取りすがる者。


誰かが情報を流したのだ。

あるいは、噂が噂を呼んで、ここが“選ばれた者の乗船口”だと確信されてしまったのだ。


「まずいな」

高峰がつぶやいた。


“まずい”では済まなかった。

これが暴動になれば、輸送そのものが止まる。

宇宙港に流入した群衆を排除するには、軍は発砲せざるを得ない。

発砲すればさらに増幅する。

しかも、ここにいる人々の怒りには理屈がある。

彼らは単に暴れているのではない。

生き残りたいだけなのだ。


それがいちばん止めにくい。


⸻


前進命令はすぐには出なかった。


車列は人工の防潮壁の陰で停車し、上空では武装ドローンと監視機が忙しく旋回し始めた。

地下指揮回線が開き、宇宙港統制本部、ワシントン残存司令部、護衛部隊、アーク計画運用責任者が同時接続される。


レイたちの車内にも、その音声が流れた。


《外周第三区画、フェンス突破の兆候》

《群衆の中に武装者確認》

《Bゲート、封鎖維持困難》

《医療搬送を装った接近車両あり》

《宇宙港職員家族が内部認証を要求》


「職員家族?」

美咲が顔を上げる。


《一部の内部スタッフが、自分の家族を優先搬入しようとしている模様》


凛が苦く笑った。

「選別が、現場まで来たね」


いや、最初から現場だったのだ、とレイは思う。

紙の上の名簿はただの予告に過ぎなかった。

本当の選別は、こうして門の前で行われる。

フェンスの内側に入れるか。

輸送車に触れられるか。

認証コードを持っているか。

武器を持つ兵士が、あなたを通すか。


それだけだ。


装甲車の別回線が開く。

護衛指揮官、神谷誠司の声だった。


「レイ、聞こえるか」


「聞こえています」


「最悪の場合、予定搭乗者を優先して強行搬入する。車列は分散、必要なら護衛射撃も入る。子ども車両は俺たちが守る」


レイは一瞬、返事ができなかった。


必要なら護衛射撃。

つまり、群衆に向けて撃つということだ。


「……それで本当に出せるんですか」


神谷の声は低いままだった。

「出すしかない」


「民間人です」


「知ってる」


「乗れなかった人たちです」


「それも知ってる」

神谷は一拍置いた。

「だが、ここで止まれば、乗れるはずだった子どもも医師も技術者も、全員地上で死ぬ。俺たちが今やってるのは正義じゃない。選んだ結果を実行してるだけだ」


レイは唇を噛んだ。

その言い方が、あまりにも残酷で、あまりにも正確だった。


⸻


混乱の中でも、アーク計画の本来の核心は動いていた。


宇宙港地下の戦略航法室では、最新観測データが最終統合されていた。

目指す先――

獅子座方向、地球から約1000光年。

最新の長基線観測、分光観測、重力微動解析、惑星通過データの照合により、太陽によく似たG型主系列星の周囲に、少なくとも一つの地球型惑星が存在することが判明していた。


恒星コードは長く無機質だったが、すでに搭乗者たちのあいだでは別の呼び名が生まれていた。


レオニス第3惑星。


第三軌道。

液体の水が安定存在し得る温度帯。

推定重力は地球の0.97倍。

磁場存在の可能性あり。

そして何より、大気分光データ。


窒素 75%

酸素 23.5%

二酸化炭素 0.5%


数字だけ見れば、地球よりやや酸素濃度が高く、二酸化炭素も多い。

そのまま長期適応できるかは不明。

微量成分、病原体、生態系、化学毒性、現地生命の有無――

何一つ保証されていない。

だが、少なくとも“完全な死の星”ではない。


それは、核で傷ついた地球から見れば、奇跡に近かった。


朝倉レイは、そのデータを初めて正式ブリーフィングで見た時のことを思い出した。

あのとき、室内には奇妙な沈黙が流れた。

誰も歓声を上げなかった。

未来の星を見せられているのに、心から喜べる者がいなかったからだ。


それでも、数値は明るかった。


太陽に似た恒星。

呼吸可能性の高い大気。

水の存在可能性。

地表温度の適正域。

夜空の向こうに、まだ人間が立てるかもしれない大地がある。


その事実だけが、辛うじてこの計画を“ただの逃亡”で終わらせない。


⸻


宇宙港外周の膠着は、四十分しか続かなかった。

それ以上は持たなかったというべきかもしれない。


外周Bゲートで爆発。

手製爆薬。

フェンスの一部が吹き飛ぶ。

群衆の一部が雪崩れ込む。

続いてCゲートでも突破未遂。

警備ドローンが低高度威嚇飛行に入る。

音響制圧。

閃光弾。

それでも押し返せない。


「強行搬入」

神谷誠司の声が全車両に伝わった。

「ルート・デルタを使う。全車、間隔維持。停止するな」


エンジンが唸る。


装甲車が再び動き出した。

防潮壁の陰から出た瞬間、レイは外の世界を真正面から見た。


人。

人。

人。


叫び声は防音車体越しでもくぐもって聞こえた。

窓を叩く手の平。

何かを書いた紙を押しつける女。

幼い子どもを高く掲げる男。

「この子だけでも」と口が動いているのが読めた。

泣きながら土下座する人。

逆に、石を投げつける人。

兵士に掴みかかる人。

銃声。

どこで撃たれたのか、一瞬ではわからない。

群衆が波のように傾き、また押し寄せる。


レイは息を呑んだまま動けなかった。


これが選ばれなかった人たちの顔だ。

名簿の“不採用”の向こうにあったものだ。


装甲車の前に、ひとりの女が飛び出した。

胸に幼児を抱いている。

運転席で急制動。

車体が揺れる。

後続がクラクションを鳴らす。


「動け!」

神谷の怒声。


だが女は動かない。

泣き叫びながら、子どもを窓へ押しつける。

乗せて。

それしか言っていないのに、そう聞こえた。


レイは立ち上がった。

だが高峰が腕を掴む。


「開けるな」


「でも!」


「一人開けたら終わる!」

高峰の声も震えていた。

「ここで終わる!」


前方から兵士が走ってきて、女を抱えて退かそうとする。

女は抵抗し、子どもを離さない。

さらに周囲の人間がそれを見て押し寄せる。

車体が揺れる。

誰かが外板を叩く。

次の瞬間、短い発砲音。


女は撃たれていない。

地面への威嚇射撃。

だがその音で、群衆は一瞬だけひるんだ。


「前進!」

神谷。


装甲車が再び動く。


レイは振り返った。

女は兵士に抑えられ、子どもを抱えたまま崩れ落ちていた。

その表情は見えなかった。

見えなかったのに、一生忘れられないとわかった。


⸻


内部搬入ゲートを通過した時点で、まだ終わっていなかった。


宇宙港内部でも、認証をめぐる騒ぎが起きていた。

整備主任が、自分の配偶者を貨物区画へ紛れ込ませようとして拘束。

生物圏管理補助員が、双子のうち片方しか搭乗許可がないと知って発狂。

軍枠で入った将官が、リスト外の親族十数名を伴っていて通行拒否。

医療班では、重症だが適格者の外傷処置を優先するか、非搭乗者の子どもを治療するかで対立が起きる。


宇宙港はもう港ではなかった。

巨大な濾過装置だった。

人間を、未来へ行く者と地上に残る者とに、物理的に分ける装置。


レイたちは厳重警備の通路を抜け、最終上昇シャトル棟へ案内された。

そこから軌道ドックへ上がり、アーク第三船へ乗り移る。


シャトル棟の待機区画で、子どもたちと合流した。


青葉ハルトはもう泣いていなかった。

逆に泣いていないことが痛々しかった。

立花ユイはミオの肩を抱いている。

湊レンは何かをこらえるように口を真一文字に結んでいた。

小宮サラは目が赤い。

早瀬リクは手に小さなノートを握っている。

七瀬コハルはスケッチブックを離さなかった。


「大丈夫?」と美咲が聞いた時、

ソウタが小さな声で言った。


「ママ、来ないの?」


その場にいた大人たちの誰も、すぐに答えられなかった。


搭乗資格を持っていた親は一部だけ。

持っていても、搬入途中で群衆に阻まれた者もいる。

負傷して医療区画に回された者もいる。

あるいは最後の最後で、子どもを行かせて自分は残る決断をした者もいた。


美咲は膝をついて、ソウタの目線に合わせた。

「……ここに来られる人は、もう少しだけ待とう」


それは答えではなかった。

でも、それ以上の言葉は残酷すぎた。


⸻


軌道上のアーク第三船は、レイが想像していたより静かだった。


巨大であることは数字で知っていた。

全長、居住リング直径、推進モジュールの出力、農業区画容積。

だが実際にシャトルの窓から見上げた船体は、もはや“乗り物”というより人工の世界だった。


暗い宇宙に浮かぶ、白と黒の細長い巨体。

中央軸から伸びる複数のリング。

艶のない外板。

微かな姿勢制御噴射。

無数の小窓のかわりに、分厚い遮蔽壁。

装飾は一切ない。

美しさより、生存性だけを追求した姿だった。


シャトル内で、レイはその船を見上げながら思った。

これが人類最後の船になるのかもしれない。

最後にして、最初の船でもある。

故郷を失った種が、別の太陽を目指す最初の方舟。


船名はすでに決まっていた。


アーク・レヴァナント

――残されたものたちの方舟。


重い名だとレイは思った。

希望よりも、亡霊に近い。

だが確かに、この船は地球の残響を丸ごと運ぶのだ。


⸻


乗船は混乱の中でも進められた。


生体認証。

放射線簡易検査。

病原体スクリーニング。

手荷物制限。

凍結睡眠群と覚醒当番群の振り分け。

子どもの保護割当。

各区画への誘導。


その最中にも、地上からの更新が入る。


《外周フェンス全面突破》

《護衛部隊、後退》

《第二便シャトル、発進不能》

《港湾南側で銃撃継続》

《搭乗予定者の一部取り残し》

《追加搬入は物理的に不可能》


不可能。

その言葉が、静かに区画内へ沈んでいった。


レイは乗船手続きを終えたあと、一等航海士区画への案内を受けた。

艦橋へ上がる途中、彼女は何度も後ろを振り返った。

まだ人が乗り込んでくる。

まだ家族を探している。

まだ名簿を持って走っている。

だが、その流れはどこかで終わる。

終わらせなければ、船は出られない。


艦橋で待っていたのは、正式船長の久我颯人だった。

主任操縦士にして、アーク第三船の初代船長。

その顔は青白く、しかし声だけは安定していた。


「来たか、朝倉」


「はい」


「これより乗船率を最終確定する。君は航法主系統を預かれ。非常時の指揮継承順位第一位はすでに共有済みだ」


レイは短くうなずいた。


久我は彼女を見た。

「地上、見たか」


「……はい」


「忘れるな」

久我はそれだけ言った。

「忘れない奴だけが、この船を間違えずに飛ばせる」


その言葉は、凛の言ったこととどこか重なっていた。


⸻


最終離脱の十五分前。

地上との映像回線が一時的に開かれた。


搭乗済みの者に限り、一分間だけ。

家族と接続できるかは不明。

回線は不安定。

映像は乱れる。

音声も切れる。


レイは接続しなかった。

つなぐ相手がいなかった。

正確には、つなげてしまうと二度と立てなくなる気がした。


だが周囲では、一分間の宇宙がいくつも生まれては壊れていた。


「聞こえる? 聞こえる!?」

「あなた、先に行って……」

「だめ、戻る、戻るから!」

「来るな!」

「ママ、どこ?」

「ユイ、いい子で……」

「約束する、必ず……」

「嘘つき!」

「愛してる!」

「置いていかないで!」

「時間切れです、切断します!」

「待っ――」


切断。


その繰り返しだった。


早瀬リクは、結局一度も回線に向かわなかった。

青葉ハルトは誰にも見られない場所で壁に拳を打ちつけた。

ミオは泣き疲れて眠ってしまった。

小宮サラは「ママは後から来るんだよね」と何度も聞き、美咲はそのたびに胸を刺されるような顔で抱きしめた。

コハルはスケッチブックに、黒い地球の隣へ青い丸を描いた。


それが、レオニス第3惑星だと彼女は言った。


誰も教えていないのに。


⸻


離脱五分前。

地上から最後の報告。


《宇宙港内周区画にも侵入発生》

《発射管制棟への接近あり》

《シャトル第七基、占拠未遂》

《これ以上の搭乗遅延は全船喪失リスク》


神谷誠司が艦橋回線に入る。

彼の声の向こうでは、銃声と警報が混じっていた。


「レイ、久我。もう持たない。上がれ」


久我が答える。

「取り残しは」


「いる」


短い沈黙。


「だがもう無理だ。ここで待てば、お前らごと落ちる」


レイは喉が焼けるような感覚を覚えた。

取り残し。

その中には、名簿上は“乗るはずだった”人もいる。

親も、子どもも、技術者も、医者も。

選別を通ったかどうかではない。

最後はただ、ここまでたどり着けたかどうかだ。


久我が目を閉じる。

そして開く。


「アーク第三船、離脱手順に入る」


レイの身体が固まった。

でも手は動いた。

航法卓へ。

軌道計算。

姿勢制御確認。

ドッククランプ解除予告。


彼女は一等航海士だった。

船を出す側の人間だった。


それがどれほど残酷でも。


⸻


カウントダウンが始まる。


艦橋前面スクリーンには、地球が映っていた。

雲はすでに濁り、いくつもの発光点が大気圏上層を汚している。

夜側には火災の網目。

昼側には褐色の煤煙。

青かった星はまだ完全には死んでいない。

だが、死の途中にあることだけは誰の目にも明らかだった。


「ドッククランプ解除」


重い振動。

船体が自由になる。


「補助推進点火」


微かな加速。

人工重力がわずかに揺らぐ。


そのとき、地上から最後の回線が割り込んだ。

宇宙港統制本部ではない。

個人回線。

ノイズだらけ。

誰かが無理やりつないだのだ。


映像には、血と煤にまみれた神谷誠司の顔があった。


「……行け」


背景では赤い警報灯が回り、人影が走っている。


「神谷さん!」

レイが叫ぶ。


「行け、朝倉」

彼は笑おうとして、できなかった。

「誰かは残らなきゃならん。なら、誰かは行かなきゃ意味がない」


「でも――」


「座標はもう知ってるな」


レイは涙が出そうになるのをこらえた。

「……獅子座方向。1000光年先。レオニス第3」


神谷はうなずいた。

「太陽に似た恒星だ。地球型惑星が回ってる。窒素七十五、酸素二十三・五、二酸化炭素〇・五。お前らが着いた時、もしそこに海があって、空があって、呼吸できるなら……」


回線が激しく乱れる。


「……今度は、壊すな」


映像が切れた。


レイは数秒、動けなかった。

だが艦橋の機械は待ってくれない。


久我の声。

「朝倉」


レイは震える手で操舵卓に触れた。

目の前に、進路投影線が走る。

地球圏離脱。

中継跳躍点。

深宇宙航路。

獅子座方向。

レオニス系。


彼女は声を絞り出した。


「航路確定」


⸻


アーク・レヴァナントは、ゆっくりと軌道ドックを離れた。


その瞬間、船内のどこかで、子どもの泣き声が響いた。

誰かが嗚咽した。

誰かが祈った。

誰かが床に崩れ落ちた。

誰かは何も感じないように呼吸を数えた。


レイはただ前を見ていた。


地球が、少しずつ遠ざかる。


その表面ではなお光が走っている。

ミサイルか、迎撃か、都市火災か、もう区別はつかない。

それでも、あれが故郷だった。

自分たちが生まれ、愛し、笑い、争い、ついに壊してしまった星。


そしてその彼方に、まだ見えもしない未来の星がある。


獅子座方向。

1000光年。

太陽に似た恒星。

呼吸できるかもしれない大気。

まだ踏まれていないかもしれない土。


その二つの星のあいだを、人類最後の船が飛んでいく。


希望のためではない。

赦しのためでもない。

罪を抱えたまま、それでも未来を断ち切らないために。


朝倉レイはその日、ただの航海士から、本当の意味で船を背負う人間になった。


脱出とは、逃げることではなかった。

置いてきたものを永遠に背負うことだった。


⸻


第四章・終


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