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1000光年の亡命  作者: リンダ


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最後の産声の記録

『1000光年の亡命』

第十一章 最後の産声の記録


沢村朋花と、名もつかなかった女児の記録は、最初はただのファイル番号だった。


断続的な地下区画音声。

分娩時記録。

医療班の短い報告。

死亡確認。

周辺区画での治安悪化。

それらが時系列順に並べられ、ひとつの事案として処理されていた。


アーク・レヴァナントの文化アーカイブ室で、白石凛はそのファイルを開いたまま、しばらく手を止めていた。

分類上は「地球最終期・地下生活区画・出生事例」。

だが、そんな項目名で済ませていいはずがなかった。


朝倉レイがアーカイブ室を訪れた時、凛はまだ同じ画面を見ていた。


「寝てない顔してる」

レイが言う。


「寝てない」

凛は正直に答えた。

「これ、どう残すか決められなくて」


レイは彼女の隣に立ち、端末の表示を見た。

事実だけなら短い。

沢村朋花。

核戦争前妊娠。

地下区画で出産。

母子とも死亡。

その前後に資源配分と出産是非を巡る対立が激化。

治安崩壊。

一見、記録としては十分だ。


だが十分ではない。

それでは、この母子が“崩壊した地球で発生した一件”に還元されてしまう。


「事実だけじゃ足りないよね」

レイが言うと、凛は目を伏せたままうなずいた。


「でも感傷に寄せすぎると、今度は地球を美化する。

あの地下区画では確かに、命を守ろうとした人もいたけど、同時に“増やすな”って怒鳴った人もいた。

その対立も残さないと、また嘘になる」


レイは少し考えた。

「両方残すしかないんじゃないかな」


「希望と絶望を?」


「ううん。

もっと嫌なものを」

レイは静かに続ける。

「正しさ同士がぶつかって、でも結局どちらも放射線の前では無力だったってこと」


凛はそこでようやくレイを見た。

「その言い方、きついね」


「きついけど、本当だから」


レイの声は平坦だった。

自分でも驚くほど平坦に言えたのは、もうあまりに多くの喪失を聞き続けて、悲鳴の音域ではものを考えられなくなっていたからかもしれない。


凛は端末に新しい項目を追加した。


“最後の産声の記録”


事案番号ではなく、そう題をつけた。

それが地球への礼儀だと、彼女は思った。


その記録が、限定的に船内共有されたのは翌日だった。


全乗員ではない。

まずは教育、医療、文化アーカイブ、航行中枢、人口管理班、心理班。

しかし、その内容はすぐに広がった。

亡命船の中において、**「地球では最後の地下区画で赤ん坊が生まれ、母子ともに死んだ」**という事実は、あまりにも重く、あまりにも象徴的だった。


最初に反応したのは、医療区画だった。


橘沙月は記録を最後まで読んだあと、端末を机に伏せた。

数秒黙ってから言った。


「こうなるの、わかってた。

わかってたけど……やっぱりきつい」


対面にいた若い医療補助員が、小さな声で言う。

「先生……その赤ちゃん、もしこっちにいたら助かったんでしょうか」


沙月はすぐには答えなかった。

医者としては、軽々しく“助かった”とは言えない。

高線量被曝、母体栄養不良、地下環境、医療資源欠乏。

仮にアーク・レヴァナントの設備があったとしても、どこまで救えたかはわからない。

まして過去に遡れるわけでもない。


「助けられた可能性は、地上よりずっと高かった」

沙月はようやく言った。

「でも、だから余計にきついの。

助けられる環境にいる側が、その記録を読むのは」


一方で、人口管理班と長期生存計画班では、まったく別の議論が始まっていた。


アーク・レヴァナントはただの避難船ではない。

レオニス系に到達した先で、人類集団として再定住しなければならない。

そのためには世代継承が必要であり、いつかは船内でも新しい命が生まれる。

それは計画上、避けて通れない前提だった。


だが、“最後の産声の記録”が共有されたことで、その前提が急に生々しくなった。


「我々は、出産をいつから許可対象とみなすべきか」


人口管理班主任がそう切り出した時、会議室の空気は一気に重くなった。


「許可って言い方がまず最悪だな」

白石凛が低く言った。


主任は眉をひそめた。

「言い方の問題ではありません。

閉鎖環境、有限資源、長期航行、遺伝管理、医療負荷。

これらを考えれば、自然発生的な妊娠出産を完全自由にするのは非現実的です」


「非現実的でも、それを“許可対象”と言った瞬間に、人間を飼育単位として扱うことになる」

凛の声は静かだったが鋭かった。


「違います。共同体維持の計画です」


「共同体維持の名目で、人間の生殖と家族形成を管理してきた社会が、地球にいくつあったと思ってるの」


レイはその応酬を聞きながら、胸の奥にひどく嫌な感覚が広がるのを感じていた。

必要性は理解できる。

船内資源は有限だ。

妊娠・出産は医療負荷を上げる。

子どもの養育は教育区画と食糧計画に影響する。

しかも、もし遺伝的多様性の維持を考えるなら、無計画な偏りは避けなければならない。


その全部が正しい。

だがその正しさは、一歩間違えれば“生まれていい命と、まだ生まれるべきでない命”を管理する論理へ変わる。

そしてその光景は、つい昨日地球で起きた対立と地続きだ。


「私は」

レイが口を開いた。


室内の視線が集まる。


「少なくとも今この段階で、“船のために産むべきだ”という議論と、“船のためにまだ産むべきではない”という議論を、同じ土俵で扱いたくありません」


主任が言う。

「ですが、いずれ必要になります」


「必要になります」

レイは認めた。

「でも、だからといって今それを“推進”や“制限”の対象として語ると、地球で起きたことを船内で言い換えるだけになる。

あの母子の記録を読んだ直後に、私はそれをやりたくない」


久我颯人はずっと黙っていたが、そこで初めて口を開いた。


「朝倉の意見を支持する。

この船は人類の継続を前提にしている。

だから出産や次世代の議論は避けられない。

だが、それを“生産計画”として始めた瞬間に、人間の共同体ではなくなる」


彼は一拍置いて続けた。


「いま必要なのは、出産を推奨することでも抑制することでもない。

“この船で新しい命をどう守るか”について、まず倫理と医療と共同体の土台を作ることだ」


その言葉で、議論は一度収まった。

解決したわけではない。

ただ、少なくとも“今すぐ船の人口政策を決める”という方向への暴走は止まった。


教育保護区画では、子どもたちには記録の全容は伏せられた。

だが、何かがあったことは伝わってしまう。


ユイが美咲に聞いた。

「地球で、赤ちゃん生まれたん?」


美咲は数秒迷ってから、頷いた。

「うん。生まれた」


「今は?」

ハルトが小さく聞く。


美咲は嘘を選ばなかった。

「……亡くなった」


そのあと、しばらく誰も喋らなかった。


ミオは意味を完全には理解していない顔をしていたが、空気の変化だけは感じている。

ソウタは「赤ちゃん、何も悪くないのに」と言って唇をへの字にした。

リクはノートに何か書いたが、すぐに消した。

コハルはスケッチブックの端に、小さな丸を一つ描いて、そのまましばらく動かなかった。


レンがぽつりと言った。

「生まれたのに、死んだんや」


その言葉には、子ども特有の余計な装飾のなさがあった。

だからこそ鋭かった。


レイはその場にいて、何か言わなければと思った。

けれど安っぽい慰めは言いたくなかった。

迷った末に、彼女はこう言った。


「その赤ちゃんは、短い時間だったけど、生きてた。

だから、なかったことにはしない」


子どもたちは黙って聞いていた。


「地球で何が起きたかを忘れないことと、これから生きることは、両方やっていいんだよ」


それが正解かはわからなかった。

でも、少なくとも嘘ではなかった。


その日の後半、アーク・レヴァナントでは“最後の産声の記録”をどう保存するかが正式に決まった。


白石凛の提案で、記録は二層構造で残されることになった。


一つは事実記録。

日時、場所、環境、対立、医療状況、死亡確認。

冷たいが、検証可能な形で残す。


もう一つは、地球終末期における象徴記録。

核戦争後もなお命が生まれようとしたこと。

それを守ろうとする者と、絶望の中で拒絶する者がぶつかったこと。

そして最後には放射線と崩壊した環境が、そのどちらの願いも踏みにじったこと。

そこまで含めて、人類の最終期の実相として残す。


「美化しない。

でも、無機質な統計にも落とさない」

凛はそう言った。

「この二つを両立させないと、地球をまた都合よく切り取ることになる」


レイは、その方針に深く頷いた。

たぶんそれしかない。

きれいにまとめることは裏切りだし、ただ惨状として積み上げるだけでも違う。

人間の矛盾ごと残すしかない。


そして、その章の終わりに来たのが、“完全沈黙”だった。


高峰悠真が受信卓から顔を上げ、艦橋にいた全員へ告げた。


「有人通信、ゼロです」


室内が静まり返る。


「どの地域も?」


「少なくとも、いま受信可能な全帯域では。

自動送信、異常値通知、施設警報、機械の残響だけ。

人の声は、いまのところ入ってない」


レイは前面スクリーンの向こうを見た。

地球は小さい。

あまりにも小さい。

それでもまだ、そこに何十億の記憶が詰まっている星だ。


完全沈黙。

それは“誰もいない”証明ではない。

だが、“こちらへ届く声は尽きた”という現実ではあった。


誰かがまだ地上で生きているかもしれない。

地下のどこかで。

山間の避難施設で。

閉ざされた研究区画で。

海を避けた高地で。

けれど、その人がこちらへ声を送れる保証はもうない。


地球は、通信としては沈黙した。


水城環奈が、ほとんど独り言のように言った。


「これで本当に、記録だけが相手になるんだね」


レイは答えなかった。

答えられなかった。


その夜、朝倉レイは記録端末を開いた。


今日は、地球の最後の産声の記録を残した。

核攻撃前に宿った命が、地下区画で生まれ、母子ともに死んだ。

守ろうとした人たちもいた。

これ以上地獄を増やすなと叫んだ人たちもいた。

どちらも放射線と崩壊の前に敗れた。

そして今、地球からの有人通信は完全に途絶えた。

終わったと断言はしない。

でも、こちらへ届く人間の声は尽きた。

地球は沈黙した。

だからこそ、記録を残す。

最後まで人間が生きていたことを、最後まで命が生まれようとしたことを、未来の誰かが知らずに済ませないために。


書き終わると、レイは端末を閉じた。


観測窓の外には、見慣れぬ星々。

“ゆりかご”がある。

“橋”がある。

“灯台”がある。

子どもたちがつけた名前たち。

それらがいまは、地球の沈黙に対する小さな抵抗のように見えた。


生まれた命は死んだ。

地球は沈黙した。

それでも、この船の中ではまだ、空に名前がつけられている。


それが救いかどうかはわからない。

けれど、完全な終わりではないと信じるための、かすかな作業ではあった。


第十一章・終

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