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1000光年の亡命  作者: リンダ


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沈黙する地球


『1000光年の亡命』


第十章 沈黙する地球



地球から届く“人間の声”は、日に日に減っていった。


最初は断片でも確かにあった。

地下施設の非常放送。

水を求める声。

子どもを優先しろという怒声。

医療班の報告。

誰かの祈り。

誰かの最後の呼びかけ。


それらは意味を持つ言葉だった。

そこにはまだ、話す相手がいる前提が残っていた。

届くかもしれないという期待が、わずかでもあった。


だが今、アーク・レヴァナントの受信卓に積み重なっていくのは、機械の発する定型音ばかりだった。


《Power failure》

《Radiation rising》

《Ventilation lost》

《Water contamination detected》

《Emergency route blocked》

《Medical stock depleted》


無人の施設が、誰も聞いていないかもしれない宇宙に向かって、自分の死に際だけを報告している。

高峰悠真はそのログを整理しながら、何度目かもわからない同じ感想を抱いた。


機械のほうが、人間より長く残る。


朝倉レイは受信室の横で、その表示を見つめていた。

地球はまだそこにある。

観測窓を開けば、意識しないと見失うほど小さくなった光点として、まだ見える。

だが、“地球に人がいる”という実感は、声が減るたびに遠のいていく。


「もう、ほとんど自動送信ですね」

レイが言うと、水城環奈が静かに頷いた。


「有人発信は激減してる。

通信機を扱える人が死んだのか、電源がないのか、送る相手がいると思えなくなったのか……たぶん全部だね」


環奈の声には、以前よりも疲労が濃く滲んでいた。

彼女は記録官として、地球の最後を残し続けている。

だが、残す対象そのものが沈黙していく過程に立ち会うのは、記録することとは別の苦しさがあった。


「でも、まだ人はいます」

レイは言った。


環奈はレイを見た。

否定はしなかった。

ただ、問い返すような目だった。


「少なくとも、断言はできません。

終わったって」

レイは言葉を探しながら続けた。

「終わったと決めるのは、こっちが安全圏にいる側の傲慢に聞こえるから」


環奈はしばらく黙っていた。

それから小さく言う。


「そうだね。

終わったって言えるのは、最後の一人が喋れなくなったあとだけかもしれない」



その“最後の声”の一つは、日本列島のどこかの地下生活区画から届いた。


発信源は旧西日本広域地下連結区画の一つと推定されたが、正確な場所は特定できなかった。

南海トラフ巨大地震と汚染津波のあと、多くの沿岸地下都市は分断され、区画ごとに孤立していた。

止水扉で閉じられた先に人が残り、別の区画では換気が死に、また別の区画では配水ラインが逆流していた。


その中の一つ。

比較的高所に位置し、津波の直撃だけは避けた区画だった。

だが避けただけで、助かったわけではない。

放射線は換気系の傷からじわじわ入り込み、飲料水は汚染され、薬品も食料も尽きかけている。

それでも数百人が詰め込まれ、まだ“生活”を名乗っていた。


そこに、一人の妊婦がいた。


彼女の名は、届いた記録では沢村朋花とされていた。

二十代後半。

核攻撃が起きる前に妊娠していた。

夫は地上混乱の中で行方不明。

避難の途中でこの地下区画へ流れ着き、妊娠後期に入っていた。


核戦争の前なら、彼女の出産は不安と喜びが入り混じる、ありふれた家庭の出来事だったはずだ。

新しい命の準備。

名前の相談。

小さな服。

検診の日程。

そんな、ごく普通の未来。


だが、いま彼女の腹の中の命は、地下区画にいる人々にとって“未来”であると同時に、“恐怖”そのものになっていた。



最初に対立が表面化したのは、配給所の前だった。


沢村朋花は、出産予定日が近づくにつれて、医療区画から栄養配分の上乗せを受けていた。

ほんのわずかな増量。

通常より多い水分。

清潔な布。

出産時のための最低限の薬剤確保。


それを見た避難民の一部が、口を尖らせた。


「なんであの人だけ」

「赤ん坊なんて生まれてもどうするんだ」

「今さら人口増やして何になる」

「余計な口が増えるだけだろ」


最初は陰口だった。

だが、地下生活では陰口はすぐに共有感情へ変わる。

誰もが飢え、水を求め、家族を守るのに精一杯の中で、“これから生まれる命”は、ある者には希望に見え、別の者には残酷な負担に見えた。


医療班の一人が言った。

「妊婦と胎児を守るのは当然です」


すると、すぐ別の声が返る。

「当然?

その当然で、今日の配給が減る奴もいるんだぞ」


さらに別の者が言う。

「こんな世界に生まれて何になる。

どうせ苦しむだけじゃないか」


それを聞いた年配の女性が激昂した。

「命に向かって何てこと言うの!」


そこから先は、理屈ではなくなった。


生まれた命をなんとしても守ろうとする者。

こんな地獄で余計な人口を増やすなと言う者。

そして、どちらにも完全には賛同できないまま沈黙する者。


地下区画はもともと水と食料と治安で限界寸前だった。

そこへ“新生児を守るのか、それとも配給を現存者へ集中すべきか”という問題が落ちたことで、対立は一気に先鋭化した。



アーク・レヴァナントでその記録を整理していた水城環奈は、珍しく机を叩いた。


「ひどすぎる」


その言葉は誰に向けたものでもなかった。

妊婦を責める者に対してか。

新生児の生存可能性を計算で切り捨てようとする者に対してか。

こんな状況に追い込んだ文明全体に対してか。

おそらく全部だった。


朝倉レイは、環奈が再生した音声断片を黙って聞いていた。


《医療班です、静かにしてください》

《いま刺激しないで》

《何で守るんだよ、みんな死にかけてるのに!》

《赤ちゃんに罪はないでしょう!》

《罪とかじゃない、現実の話をしてるんだ!》

《現実だからって、命を減らしていい理由になるか!》

《減らすんじゃない、増やすなって言ってるんだ!》

《やめろ、そこで揉めるな!》

《水をこっちへ!》

《妊婦を下がらせて!》


ノイズ。

悲鳴。

その後、音声は唐突に途切れていた。


レイは、しばらく声が出なかった。

どちらの言い分にも、地獄の中の一片の真実がある。

命を守りたい。

それは人間として自然だ。

だが現に生きている人々が、限られた水や薬でぎりぎり保っている場所では、“新しい命を支える資源”そのものが争点になる。

正しさと絶望が真正面からぶつかっている。


「……どうすればよかったんだろう」

レイは思わず漏らした。


環奈は首を振った。

「たぶん、“よかった”にできる選択肢なんて、もう地球にはほとんど残ってなかったんだと思う」



地下区画での対立は、すぐに治安崩壊へ繋がった。


もともと自警団と称する集団が一部区画を実効支配していた。

水の配分、毛布、寝場所、医薬品、発電区画への立ち入り。

国家や自治体の代わりに秩序を保っていたはずのその組織は、徐々に“裁く側”へと変質していた。


彼らの一部は、妊婦を守る医療班に敵意を向けた。

「余計な配分を回すな」

「将来より今の多数を守れ」

「出産対応で使う薬剤を開放しろ」


それに反発した側は、妊婦のいる医療区画を守ろうとした。

その中には、子どもを亡くした者もいた。

自分の家族を守れなかったからこそ、今目の前の命だけは守りたいと考える者たちもいた。


地下生活で最も危険なのは、善意と善意が衝突した時だ。

悪意だけなら線を引ける。

だが“守りたい”という気持ち同士がぶつかると、そこに残るのはもっと深い憎しみだ。


沢村朋花の出産が近づくほど、区画内の空気は険悪になっていった。

夜間の物資倉庫荒らし。

配給記録の改ざん。

医療班への脅迫。

妊婦のいる区画の扉への落書き。

「これ以上増やすな」

「死ぬだけだ」

「資源泥棒」


そしてある夜、とうとう医療補助員が一人、通路で殴打された。

犯人は特定できなかった。

だが、その事件を境に区画の均衡は完全に崩れた。


理性が削れた世界では、誰も“最後の一線”を守ってくれない。

一度越えれば、あとは転がるだけだ。



出産は、予定より早く始まった。


地下区画の医療ブロック。

照明は暗く、発電は不安定。

換気は弱く、線量はじわじわと上がっている。

衛生環境としては、まともな分娩など到底できる状態ではなかった。


それでも医療班は動いた。

残っていた清潔布。

わずかな鎮痛薬。

節約していた浄水。

そして、人の手。


沢村朋花は苦しみながらも、何度も同じことを言ったという。


「この子を……お願い」

「生きて……」

「せめて、この子だけでも……」


その言葉は、宇宙港で子どもを掲げた母親たちの叫びとどこか重なっていた。

地球の最後まで、人は“自分ではなく子どもを”と願う。

その本能の強さに、レイは胸が締めつけられた。


だが、地下区画の現実は残酷だった。


母体はすでに高線量下に長く置かれていた。

栄養状態も悪い。

医療設備は不足。

感染リスクも高い。

そして何より、胎児もまた妊娠中から放射線にさらされている。


音声記録には、医療班の必死の声が残っていた。


《呼吸、呼吸を合わせて》

《出血が多い》

《照明、落とすな!》

《水をもう少し――》

《ない、これが最後》

《心拍……弱い》

《お願い、お願いだから……》


その合間に、外の騒ぎも混じる。

医療区画の外で、なお誰かが怒鳴っている。


《水を回せって言ってるだろ!》

《下がって!今は無理!》

《赤ん坊のために何人分使うんだ!》

《黙れ!》

《お前ら正気か!?》


命が生まれようとしている扉の外で、

人間がその命の是非を怒鳴り合う。

それは文明の断末魔みたいな光景だった。



アーク・レヴァナントでは、艦橋も教育区画も、その断片記録の整理に立ち会っていた。


ただし子どもたちには全部は聞かせなかった。

美咲の判断だった。

まだ耐えられない。

いや、大人だって耐えられない。


だが、大人たちは聞いた。


出産は成立した。

記録上、女児。

産声は、短く、かすかに入っていた。

それは確かに“生まれた”ことの証だった。


艦橋でその波形を見た高峰は、しばらく画面から目を離せなかった。

波形としては、本当に短い。

けれど、そのわずかな揺れが、数十億の死の中でなお生まれた命の現実だった。


「名前……」

レイが小さく言う。


環奈が端末を見た。

「記録には、まだない。

たぶん付ける前に――」


そこで言葉が切れた。


母体は出産後に容体が急変した。

出血。

被曝による全身状態の悪化。

感染兆候。

新生児も呼吸が安定せず、医療班は必死に蘇生を試みた。


だが地下区画に奇跡を起こす装置は残っていなかった。


数時間のうちに、まず母親が死亡。

その後、乳児も死亡。


記録は事実を短く書いていた。


母子ともに高線量被曝下・重度全身状態不良のため死亡確認。


たった一行。

それだけで、どれだけの願いと対立と祈りと絶望が終わったのかが、逆に残酷だった。


レイはその一行を見た時、背中から熱が抜けるような感覚を覚えた。


守ろうとした者も。

増やすなと叫んだ者も。

結局、どちらの願いも現実には勝てなかった。

争った意味すら、放射線と崩壊した医療が奪っていく。


それがいちばんひどかった。



だが、悲劇はそこで終わらなかった。


出産と死をめぐる対立は、地下区画の治安を決定的に壊した。


「だから言ったんだ」

「あの資源は無駄だった」

「人殺し」

「お前らが騒がせたからだ」

「守れなかったくせに」

「最初から産ませるべきじゃなかった」

「命を数で切るな」

「じゃあお前の水を全部渡せよ」


その応酬の先で、ついに配給所が襲撃された。

浄水区画の鍵を握る自警団と、医療班を支持するグループが衝突。

刃物が出た。

殴打。

発砲。

狭い地下通路での暴力は、一瞬で地獄になる。

逃げ場がない。

音が反響し、恐怖が増幅する。

血の匂いと湿気と汚染水の臭いが混じる。


地下区画は、もはや避難所ではなかった。

そこには国家も共同体もなく、

あるのは、死にかけた人間たちが最後の理性を食い潰し合う世界だけだった。


水城環奈が、記録を閉じた。

「これをどう残せばいいのか、わからなくなる」


レイは静かに答えた。

「そのまま、じゃないかな」


環奈はレイを見る。


「きれいにしない。

希望だけにも、絶望だけにも寄せない。

生まれたことも、争ったことも、守ろうとしたことも、見捨てようとしたことも、全部そのまま……」


レイはそこまで言って、喉が詰まった。


「……じゃないと、また地球を嘘にする」


環奈はゆっくり頷いた。



その夜、朝倉レイは観測窓の前に一人で立った。


地球はもう、ほとんど点に近い。

それでも彼女の目には、まだ故郷の形をして見えた。

不思議なものだとレイは思う。

物理的には見えなくなっていくのに、心の中ではむしろ輪郭が濃くなる。


地球では、最後の地下区画でも子どもが生まれた。

そして死んだ。

母も死んだ。

その前後に人々は怒鳴り合い、奪い合い、殴り合い、理性を削り合った。

それでも、その一瞬だけは確かに命が生まれていた。


絶望だけではなかった。

希望だけでもなかった。

そのどちらでもない、人間の現実だった。


レイは端末を開き、静かに記録を残した。


地球からの声はほとんど消えた。

今日届いたのは、核攻撃前に妊娠していた女性の出産記録だった。

地下区画では、その命を守ろうとする者と、これ以上人口を増やすなと叫ぶ者が真正面から衝突し、治安がさらに崩壊した。

そして母子は、放射線に蝕まれた身体のために死亡した。

命をめぐる対立も、結末も、あまりにひどい。

けれど、そういう形でもなお命が生まれようとしたことを、消してはいけないと思う。

地球は沈黙しつつある。

でも完全な無ではない。

最後まで、人間の矛盾と祈りに満ちている。


書き終えると、レイは目を閉じた。

疲れていた。

けれど眠る気にはなれなかった。


獅子座の方向には、レオニス系がある。

太陽に似た恒星。

窒素75%、酸素23.5%、二酸化炭素0.5%の空を持つかもしれない惑星。

そこへ向かう船の中で、彼女は地球の最後を記録している。


いつかたどり着いた時、

この記録を読んだ誰かが、地球を単なる失敗として切り捨てないように。

そこには最後の最後まで、生まれようとした命があったことを忘れないように。


観測窓の向こうで、見慣れぬ星々が静かにまたたいていた。

その中に“ゆりかご”がある。

子どもたちがそう名づけた星の並び。

レイはそれを見つけると、ほんの少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。


地球は沈黙しつつある。

だが、亡命船の中ではまだ、空に名前を与える者たちがいる。

それが救いと呼べるかはわからない。

それでも、完全な闇ではないと思いたかった。



第十章・終



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