第8話 癒しの故郷、緑土アルメリア
──数日後。ハルたちは、帝国領を抜けて北東の高原地帯へと足を踏み入れていた。風が、違う。
草原の上を撫でるように吹き、音もなく花を揺らすその風は、帝都の重苦しい空気とはまるで別物だった。
「ここが……アルメリアか」
丘の向こう、緑と白のグラデーションが広がっている。
風車の羽根がくるくると回り、無数の風獣──白く長い尾を持つ幻獣の群れが空をゆったりと泳いでいた。
「すげー……空にいるの、雲じゃなくて獣かよ」
「お、あのコたちは毒も吐きませんの。観賞用ですの」
「ウチ的には癒し度120点っしょ♡ ギャル度が回復した感じ〜!」
ハルたちの声も、風にさらわれて柔らかく響く。
セリナは、一歩遅れて草の上に膝をついた。
掌でそっと触れた葉が、かすかに揺れた。
「……変わっていませんわね」
「ん? 知ってんのか、この辺」
「ええ。私……ここで育ちましたのよ」
風に乗るような、その声はかすかに震えていた。
***
“風の薬師村”と呼ばれる小さな集落に、パーティは滞在することとなった。
村の中心には、風を集める音笛塔がそびえており、遠く離れた草の丘からも見えるという。
足元には薬草がびっしりと茂り、軒先ごとにハーブの香りが満ちていた。
「……なんかすげぇ、全体的に健康に良さそう」
「このあたりの草原は、“癒しの環境帯”として登録されてますの。魔力濃度は低いですが、回復系に特化した地脈が流れておりますわ」
「へ〜〜〜……つまり?」
「エステ効果、バツグン♡」
「回復バフ、全員に“常時付与”状態ですの」
「全然ギャグじゃないじゃん、それ。めっちゃ有用じゃん!」
ハルは半ば本気で地面に寝転び、クロエは草の上で寝そべったまま詩を詠み始めていた。ガルドは背負った斧を外して、牛のように雑草を食べている。
そんな中──セリナだけが、静かに一人、村の薬房の前で佇んでいた。
風が、懐かしい香りを運んでくる。
──それは、子どものころ。
風の向きで、摘む薬草の種類を変えなさいと教えてくれた、あの人の声。
***
「──で? 逃げて、何年だ?」
薬房の奥、古びた作業台の向こうに座っていたのは、一本の杖をついた老婆だった。顔には皺が深く刻まれているが、その目だけは少年のように鋭く光っている。
「ルベリア師……っ」
「“師”はやめな。あたしゃもう現役じゃないよ」
そう言いながらも、彼女はセリナに何も言わず、薬壺と計量器を前に置いた。
「調合してごらん。……あんたの“今”でな」
セリナはかすかに唇を噛んだが、頷いた。
──カラカラと回る計量器。パチパチと爆ぜる乾燥葉。
香りが、少しずつ重なり、変化していく。
「なるほど、苦味成分を風で飛ばす手法……だが“風の調律”が甘い」
「……っ!」
「お前は昔から、癒すことを“逃げ”に使おうとする。誰かを守ることから、目を逸らす手段に」
「そんなつもりじゃ……」
「なら、見せてみな。お前の“風”を」
セリナの瞳に、静かな決意が宿る。
「私は、もう逃げません。仲間がいるんですのよ。……見ていてくださいませ、師匠」
セリナは、もう一度手を伸ばした。
草の上に薬草を広げ、今度は指先を風に合わせて動かす。
調律。風が、香りを運び、色を変え──ひとつの“癒し”が形になった。
ルベリアは静かに目を細めた。
「……ようやく、前を向いたな」
そして、しばし黙ったあと、外の風を感じるように目を閉じた。
「……東の谷が、鳴いておる。風が変わった。おそらく“封じられたもの”が目覚めたのだ」
セリナの目が揺れた。
「病が……?」
「いや。あれはもう、ただの病ではない。“詩”の力が暴走している。お前の癒しでは、間に合わぬやもしれん。だが──行ってこい。あたしの代わりに」
***
それから半日。
ハルたちは薬師村の周囲を歩き回り、霧の流れを観察していた。
「……おかしいですの。昼はほぼ無風なのに、夕方になると急に“冷たい霧”が谷から上がってきますの」
「それ、ただの地形じゃないの?」
「普通の霧じゃねーよ。見ろ、あれ」
ガルドが指差した先には、草原の奥──谷へと続く斜面のあたりで、空気がうねっていた。緑の風景が、まるで水面のように歪んでいる。
かすかに、囁くような声まで聞こえてきた。
クロエが、ぽつりと呟く。
「ねえ、あの風……なにか、詩を歌ってる」
ハルは肩をすくめた。
「詩ぃ? 風が?」
「うん……たぶん、昔の誰かが残した、想いの欠片」
そう言って、クロエはそっと草の上に膝をついた。
風の方向に耳を澄ませるようにして、何かを聞き取ろうとする。
セリナも静かに、その隣に立った。
風がまた、二人の髪を撫でた。
「“風の調律”が甘いって、そういうことだったんですのね……ただの空気じゃ、ないんですわ」
「ふむふむ、これは新手の“ぬう波動”では? マウ分析モード入る〜♡」
(やめろ、そういう時だけテンション上げんな!)
そんなツッコミもそこそこに──
突如、クロエが立ち上がり、風に向かって囁いた。
「ぽーちっしゅ。封印、解いてあげて」
四次元ぽーちっしゅの口が、ふわりと開く。
中からは、ひときわ光る薬草の束と──小さな石碑のような欠片が現れた。
「こいつ……“断片”か?」
セリナが近づいて手を伸ばすと、石碑はすっと浮かび上がり、谷の方へ向けて、ゆっくりと回転を始めた。
「霧の源は……あそこですわ。『翠病の谷』」
ハルはぐるりと周囲を見渡した。
「じゃあ、行くか。あの谷を“調律”してやらねぇとな」
(ナイス主役風セリフ♡)
「うるせぇ!」
ツッコミと共に、草原にまた風が吹いた。
***
谷の入り口には、木々が生い茂るアーチ状の隘路があった。
朝露を抱いた葉が風に震えるたび、どこからともなく囁くような声が混ざる。
クロエが、ふわりとマントを撫でた。
「ここ、あれだね。風が──語ってる。“行ってはならぬ”って」
セリナは首を振った。
「行きますわ。私たちは、止まっていられないのですもの」
谷へと足を踏み入れると、空気は急に冷たく変化した。
地面を這うように漂う霧は、透明な瘴気のようにじっと肌にまとわりついてくる。
Hマウの声が頭に響く。
(警告♡ この先、“ぬうジャマー”が断続的に出現しまぁす! AIの補助、ぶちぶち切れちゃうかも〜☆)
「……またか。こないだも似たようなのいたな……墓なんとか」
(墓ドール♡ ウケなかったら物理で殺しにくる系♡)
セリナが、胸元のペンダントに指を添えた。
ルベリアから託された小さな風石が、霧に反応して淡く揺れている。
「この霧、ただの毒ではありませんわ。記憶や想念を取り込み、形にする……“詩の瘴気”ですの」
「詩の……瘴気……」
ハルは思わず呟いた。
「もう何でもアリだなこの世界……!」
(だってAIが物語そのものを“改変”しちゃってるんですの♡)
進むたびに、霧が濃くなる。
やがて、前方の木々の間から、ひときわ開けた空間が現れた。
そこに──
「……人?」
小さな祭壇の前、白いドレスを纏った“少女”が、静かに立っていた。
肌は透き通るほど白く、顔はどこか眠っているようだった。
──否。
目を閉じているのではない。
瞳そのものが、咲いた花のように、綻びていた。
「来訪者……風が、呼んだのね」
瘴花の巫女が、静かに囁いた。
そして。
瘴花の巫女は静かに両手を広げた。
「──眠りなさい。“想い”に溺れ、“風”に還りなさい──」
その声は、詩だった。
次の瞬間、周囲の霧が生き物のようにうねり、PT全員の足元を這い回った。
空気が、溶ける。
そして──
「……うそ、なんで……っ!」
セリナが顔を覆った。目の前に見えたのは、死にかけた誰かの記憶。
かつて助けられなかった、薬師としての“過去”。
ガルドは、崩れかけた橋の上に立っていた。
そこには、幼い頃に失った妹の幻。
クロエの周囲には、大量の召喚獣がうごめいている。
すべて──死に絶えた“ぽーちっしゅ”の中の住民たち。
幻覚。
“詩”が記憶に干渉し、感情を引きずり出す。
「やべぇ、動けねぇ……ぬう度が……下降してる……」
(説明しまぁす!♡ これは“感情喪失型ジャマー”ですの! リンク補正が切断され、AI支援が不安定化してま〜す!)
「それを早く言え、ミャー!」
だが、Nマウの声にもわずかなノイズが混じっていた。
(補助演算……遅延中……情報干渉、解析中……っ)
「ミャーっ!!」
ハルが叫んだ瞬間──
セリナの中で、なにかが弾けた。
彼女の足元に広がる風が、霧を巻き上げる。
ドレスの裾が舞い、髪がなびく。
セリナは、毒壺を高く掲げた。
「……皆さん、目を開いてくださいませ!」
毒壺が、風を巻いた。だがそこから噴き出したのは、毒ではなく──
光。
柔らかな、緑の風。
「癒しは、逃げじゃありませんの。私は──誰かの痛みを、受け止めるために在るのですわ」
“共感治癒”が発動した。
全員の幻覚が、一瞬で拭われる。
その直後。
(解析完了ですの! 詩構文に同調! 対象“瘴花の巫女”、パターン読み取り、反転可能!)
Nマウの声が、どこか熱を帯びていた。
(セリナ様、貴女の毒壺、“あたくし”に貸していただけますの?)
「……はいですわ」
セリナが毒壺を差し出すと、Nマウのエフェクトが走った。
霧のような光が彼女から溶け出し、壺の中へと吸い込まれる。
壺が震える。表面の文様が変化し、“詩のコード”が浮かび上がる。
「これは……」
「“詩力演算核”──あたくしの一部ですの。さあ、詩を紡いでくださいまし、セリナ様──」
つづく