十八「忘れないで」
足取りが重い。
息が詰まる。
恐怖が襲う。
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俺は呑気に今日の買い物楽しかったなぁなんて、女子軍団からハブられたことは記憶の片隅においやっることによって現実逃避していた。せっかくバニアのお着替えイベントとか諸々を回収しようと息巻いてお出かけに望んだのにこの仕打ちはあんまりでは無いだろうか。
とか不満は尽きないけれど、バニアが楽しめていたならそれでいいとも思うのだった。さあ、帰路についた俺の眼前に見えるのは、半日ぶりなのに随分と懐かしく思われる自宅。職務を放棄して外出していた俺が本来あるべき場所へと舞い戻ったのだ。
ただいまもそこそこに急いで自室へと戻る。
ああ、やはりこの空間ほど落ち着くものは無い。唯一にして至高の空間、我がマイルーム。
疲れたので少しだけ、本当に少しだけ睡眠を、いや仮眠をとろうとベットに潜り込んだ俺だが、その意思は本物でありながらこのまま寝たらきっと起きられないだろうとも理解しつつ、それでも一応は「一時間だけ...」と言い訳がましく呟いて、意識は深く沈んでいった。
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私は決意しました。
きっと今のままズルズルといっても、何も起きずに、ただゆっくりと私は忘れ去られてしまう。
だからその前に、最後の会話を。
私は彼の部屋の扉をノックしました。
今は遅い時間だが彼ならば起きているはずだ。そう思って扉を開けると彼は横になって寝ていた。服装から察するに、帰ってからすぐにベットに直行して、「一時間だけ」とか思いながら寝てしまったのでしょう。
よく考えれば自然なことです。買い物に付き合って、その後あんな事件に巻き込まれたし...。
あのタイミングで私の能力を使うかどうかは迷ったけれど、彼のためでもあり、他ならぬ私の気持ちのために迷ったでしょうけれど、どうせあそこで使わなくとも緩やかに「それ」は進行していたのだから、だったら、能力を使って彼の不安を取り除いた方がマシだっただろうから。
それにしても綺麗な寝顔です。
とても可愛らしくて、
とても愛らしい。
整った輪郭に凛々しい目つき、穏やかな口元に綺麗な肌。彼は意識していないようだけれど、おおよそモテる要素は全部詰まっていると思います。
私が好んでいるのはそこだけじゃないけれど。
私が彼に惹かれたのは、彼の優しい性格故に。
だらしないくせに、時折かっこよくて、誰よりも真剣で、きっと他人のためにならなんでも頑張れる彼の性格のせいで、私はこんなに辛い気持ちになっているのでしょう。かと言って彼を責めてるわけじゃないです。むしろ感謝しています。
叶わなかったけど、私に夢を見させてくれたこと。彼に出会って、私の思いが伝わって、その後のことを勝手に想像しただけとことを、あたかも大層なことのように、夢、と表現するのは図々しいかもしれないけど、それでも。
彼の顔がもっと見たくて、私は彼の上に馬乗りになりました。この夜が明けても私は彼の顔を見ることが出来ますが、彼が私の顔を見てくれることは無くなるのだと思うと泣いてしまいそうになるけれど、でも結局ずっと、私の能力の代償がなくとも、ずっとずっと彼への思いは私からの一方通行だったでしょう。
だから何も変わりません。
だから別に悲しいことじゃないんです。
会えなくなるわけじゃないです。
認識されないだけで、消えて無くなるわけじゃ無いんだから、きっと悲しいことじゃないはずです。
私は馬乗りになった彼へ顔を近づけた。
私自身この行動の意図は図りかねます。単純に彼の顔を見たかったのか、それとも──忘れられるとわかっていながら、それでも忘れられないように、その目に私という存在を主張しようとしていたのか。前者も恥ずかしい理由ですけど、後者だとしたら笑えてきます。
本当に笑えてきます。
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みんな落ち着くんだ。
落ち着け。
まず落ち着け。
いいから落ち着くんだ。
状況を冷静を飲み込み、脳の回転をフルスロットルで思考を加速させるんだ。そうすれば自ずと状況に適した解が見つかるはずだ。
もう一度確認しようか。俺は今目覚めたばかり。そして俺の上には知らない美少女が一人。再確認、やっぱり知らない美少女が一人。
なんだ、刺客か? 俺の身動きを封じるため、俺の動揺を誘うため、俺の上に馬乗りになっているのか?
──ちょっと待てよ。俺はこの美少女を何処かで知っているはずだぞ。
そう硬直していると目の前の彼女が俺の右頬に手を伸ばしてきた。既に俺と彼女の顔は吐息がかかってしまうほどの距離まで接近している。そして俺は彼女の行動を静止するでもなく、ただ受け入れていた。
そして思い出す。
──そうだ、そうだよ、ムニじゃないか。当たり前だ、だってムニじゃないか。何故俺はムニのことをムニだと思わなかったんだ。何故、なんで、どうして、おかしいじゃないか。そうだ絶対におかしい。何故俺はさっきまでムニのことを忘れていたんだ。最低の男じゃないか。もしかして俺は寝ぼけて──そんな言い訳じゃ済まされないぞ。いつから忘れていたんだ、なぜ忘れていたんだ。違う、忘れるはずがない、忘れられるわけが無い、だってムニは、ムニは、そんな、だって。
「落ち着いてくださいウィル様」
「──」
「あなたは何も悪くありませんから、だから私の話をとりあえず聞いてくれますか」
「──ああ」
「私は、実は能力が、『天からの贈り物』が既に発現していたんです。その能力は他人の認識を操作する力です。起こったはずの出来事を忘れさせたり、他人への印象を操作したり、そんな能力です」
まるで入って来ない話を、それでも何とか噛み砕いて理解しようとする。なぜ俺がムニを今の今まで忘れていたのかは最大の疑問だけれど、取り敢えず彼女の話を理解することを優先した。
彼女はゆっくりとした口調で続ける。
「私は何回か、勝手に能力を使いました──ウィル様にも。ですがそんな便利な能力なんてあるはずがありませんでした。なんの代償もなく、何かを成し得るなんて、そんな世界の理に反したことあるはずがありませんでした。
私は、私が能力を使って他人の認識を操作すると、私自身の存在の認識が徐々に薄れていくのです」
「──つまり...どういう...」
「つまり私が皆から忘れられるということです」
あ──? それはどういう──そんなことあるはずが。でもそれを否定しようにも、さっきまで俺がムニを忘れていたこと自体がそれの証明にしかならなくて、俺は言葉を紡げない。
「──すみません、やっぱり怒りますよね。勝手にウィル様の認識を操作していたなんて」
「違う」
全然違う、そんなことは今大事じゃない。違う、そうじゃない。なんでそんなことを謝るんだ。
「違う、怒ってなんかない。俺が──俺こそが謝るべきなんだ、ムニの、ことを、忘れていたんだから──」
「ふふっ、やっぱり優しいですね、ウィル様は。それは私の自業自得だって言ったじゃないですか」
なんでそこで笑うことができるんだ。なんでそんなに受け入れた態度でいられるんだ。
「おかしい、なんで、忘れられてしまうんだぞ。俺からだって、みんなからだって──なんで」
ムニが美しく、悲しく、そして儚く微笑んだ。とても優しい笑顔で。
「だからあなたに会いに来たんですよ。最後にあなたに会いたかったから」
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言いたいことは沢山あっただろうに、私の言葉で、私が思っていることの大半を察してくれたみたいだ。すごい人だと思う、
そう、私はここに彼を混乱させるために来たわけでも、何とかして対策を練ろうとして来たわけでもない──ただ彼と一緒にいたかったから来ただけなのです。
数秒目を瞑った後、落ち着いた様子で「いつまで上に乗ってんだよ」と、私を軽く後ろに押した彼は、ベットの縁に腰掛けた。私も続けて彼の隣に座った。
「──さっき認識がどうのこうのって言ってたけど、俺には今ムニがはっきりと見えてるぜ」
「それはですね、私が最後の燃料でブーストをかけているからですよ。わかりづらいですね。私が認識できる、という認識をウィル様にかけていて、それの影響でどんどん私に対する認識が薄れていって、でもそれ以上の認識をウィル様に与えていって──つまり最後の悪足掻きです。
このまま緩やかーにフェードアウトしていけば、あと数ヶ月くらいは頭の本当に隅っこの方で私は覚え続けられていたんでしょうけど、そんなの忘れられてるのと変わりませんから」
「うーん、シャンプーなくなりそうな時に水を付け足して混ぜて全部使うみたいな感じか?」
「そうです、これはメイドならではの生活の知恵を使って私を認識させているんです」
「どうリでおかしいと思ったぜ。全く掃除してないのにいつの間にか綺麗になってたりしてたとこあったもんな」
「ウィル様の部屋も勝手に掃除していました」
「えっ」
「私が忘れられてからは、毎度ウィル様のちょっと...えっな本を机の上に出して置いて、帰ってきてから『あれっ、もしかして誰かに見つかった? でも誰も言ってこないし、うっわ恥ずかしいー』状態をつくりあげてあげます」
「最悪の実用法だよ! もっとナイーブになっとけよ!」
ああ、久しぶりだなこうやって話すの、こんなに幸せな事だったなんて知らなかったです。こう私を受け入れられてしまうと、もっと...もっと...。私はその思いを頭をブンブン振って消した。
「そういや、俺の記憶取ったって言ってたけど、それって大事な記憶──だよな?
覚えていないから分からないけれど、きっと、ムニが迷って、悩んでそうした方がいいって決めたことなんだろうけど、でも、それは俺がちゃんと受け止めなければ行けない記憶だと思うんだ」
...実はいい所見せるために先生に対して
『ムニは成績優秀』とかいう認識操作していたなんてのは置いておくにして。確かに私が彼から記憶を取ったのは間違いだったかもしれない。彼はもっと強い人間で、ちゃんと向き合える人間で、それを私が信じていなかっただけなのかもしれない。けれど──
「ごめんなさい、でも、それだと。私が能力を使った意味がなくなってしまいます。私が無意味なことをして、無意味に、忘れられていくことになってしまいます。
こんなの我儘だって...わかって...いるんですけど...」
段々と声が萎んでしまった。泣きそうにすらなってしまった。自分の我儘加減にか、それともやるせなさにか。
いや、多分きっとただ単純に、忘れられる、ってことを再認識してしまって泣いてしまったのだ。散々今日まで考え続けて覚悟は決めたと思っていたのに、結局覚悟なんて決まっていなかった。
「いいよ、俺の黒歴史消してくれたって思っておくから。ボヤーっと曖昧に覚えているよりも、全く思い出せないって方がスッキリするし。
そうだ────────────、あ────────えっと────────」
彼がそう詰まって、即座に「その言葉」を言わなくていい言い方を模索して、言おうとします。──思ったよりも早かったですね。
「私の名前はムニです」
「あ──」
彼が辛そうな、自分を責めるような表情になる。そんな顔をしなくてもいいのに。
******
忘れたくない記憶が、ポロポロと崩れ落ちてゆく。目の前の彼女の名前すら曖昧になり、話そうとしていた話も忘れてしまい、彼女に関する話を探しても思い出せない。
忘れたくない。
目の前の彼女は「ムニ」。
「ムニ、ムニ、ムニ、ムニ、『ムニ』、『ムニ』、『ムニ』、『ムニ』、『ムニ』──」
途中からその言葉が持つ意味すら分からなくなってしまう。でも大切な、大切な記憶。
******
もう時間がありません。
最後くらい私のしたいこと、どうせ忘れられてしまうのなら──本当は決まってた。いいじゃないですか、これくらいのことしたってバチは当たらないはずです。私のささやかな願いくらい許されるはずです。
「ウィル様、私はあなたのことが好きです」
「俺は。俺は──『ムニ』を...」
その言葉の先は紡がれない。わかっている、忘れていく記憶のせいと、彼の優しさのせいと。でも私も答えは知りたくない。
知ってしまったら、この先長い年月なにを糧に生きていけばいいのかわからなくなる。
だから、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。最悪な私をどうか、許してください。
──彼の瞳が溶けていき、彼の頬が高揚して紅く染まってゆく。息が荒くなって、私とじっと目を合わせる。
ごめんなさい。私の勝手で、あなたの心を無視して。ごめんなさい。でも、きっとこれで私は思い残すことなく忘れさられることができるから。
──彼の手が私の背中に回る。がっちりとした腕だが、確かにそこには優しさが、温もりがあった。彼の顔がゆっくりと近づいてくる。そして、
──そして、私は世界で一番悲しい口付けをした。
******
目の前の彼女のことが思い出せない。覚えていなくてはいけないということは覚えているのに、肝心の彼女のことが思い出せない。
諦めるな、思い出せ。
目の前の彼女の名前は『ムニ』。
うちの『メイド』。
『べーレと仲がいい』。
『無口かと思わせておいて意外とノリがいい』。
『魚より肉が好き』
こんなのどうでもいい。一番大切なのは、『俺がムニのことを──』
ムニが口を開いた。
「ちゃんとこの事は忘れてくださいね」
「忘れなんてしない! 絶対にお前のことを忘れなんてしない。覚えているから。能力の代償なんて知らない。俺からお前の記憶なんて奪わせやしない」
多分俺の顔はぐしゃぐしゃだ。ああ、ちゃんと彼女の最後の時間を大切にしようと思ったのにダメだった。自分勝手に泣き喚いてしまっている。そんな俺を見つめて、優しい笑顔で答える。
「無理なんですよ、忘れてしまうんです」
笑顔とは真反対に、声色には悲しさが乗っていた。
「ずっとお前のことを思い出し続けていれば忘れないはずだ! お前のことを忘れた瞬間にお前のことを思い続けていれば忘れない!」
「だからっ!!」
遮るように、彼女は顔を俯けて大きな声を出した。
「無理なんです」
その言葉はとても弱々しかった。
「もう十分あなたからご褒美は貰いましたし、それにウィルが忘れてしまっても、私はずっと覚え続けています。大丈夫、それだけで大丈夫です。
私はウィルの傍らにいつでも居続けます。忘れてしまったって関係ありません。私とウィルはいつでも一緒です」
目から伝う涙が、その言葉が本心を隠すための、自分自身に言い聞かせるための言葉だと告げていた。
******
ずっと覚えている、と言ってくれるのは本当に嬉しいことですけど、無理なことなんです。
でも私は気にしていません。
覚悟はできていますから、だからあなたもそんなに泣かないで下さい。
私は最後にあなたと喋れて、あまつさえ口付けさえできて、これ以上なく満足です。きっと今が私の人生の最高潮でしょう。
この能力を憎んで、使った私を呪ったこともあったけど、この能力がなければあなたと口付けするなんて出来なかったでしょうね。
ごめんなさい。
ファーストキスだったら本当に申し訳ないなと思う反面、ファーストキスだったらいいなと思ってしまう私が嫌になります。
「離さないから、だからいなくならないでくれ、お願いだから」
ウィル様が私を抱きしめます。
ああ、さっきとは違ってとても力強い抱擁で、さっきよりも触れ合う体の面積が多いです。
私はとても幸せです
忘れられても、あなたの横に居られれば──それで。
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夜中に目が覚めてウィルは起きる。
ウィルは時計を確認して、通常時とはかけはなれた時間帯に起床したことを確認。それが昨日、帰ってからすぐ寝たせいだと判断する。
ウィルは喉の乾きを覚える。
キッチンに水を取りに行こうと、体を動かすためにまず意識を覚醒させるため、目を擦った。するとウィルは違和感を覚える。目を擦ると、指が引っかかるのだ。そう、それはまるで、涙が乾いたあとのような感じだった。
まるで。
あくまで、まるでである。
ウィルには、昨日泣いた記憶などないのだから。また、悪夢を見た記憶もない。そもそもここ数年、あくびなど生理的現象を除いた、感情の揺さぶりによる涙など流した覚えがない。
だから、これはただの違和感。
別に深く考える必要も無い。
彼は布団から出て扉から出る。
ムニはそんな彼を見ていた。ただ眺めていた。見つめていた。目からは大粒の涙を流し、目の前に最愛の人がいるのにも関わらず、嗚咽を漏らしていた。
諦めたはずの事は本心から諦めていたわけではなかった。ひょっとしたら彼なら、覚えていてくれるのではないかと、根拠も現実味もないことを、心のどこかで淡く望んでしまっていた。
ウィルが部屋を出ていき、行き場のない悲しみだけがその部屋に残った。
「嘘つき」