八章 診療所にて
再び学校に通い始めて数度目の休日。俺とばっちゃは二人きりで“赤の星”オルテカに降り立った。財布やパスの他に、彼女は例の楽器が入った専用ケースを提げている。
「悪いね、折角の休みに付き合わせちゃって。一時間ぐらいで終わるから、後で庚の好きな所行こうよ。何処か希望はある?」
「え……あ、いや俺は……」
正直その頃、俺はばっちゃにすっかり参って、つまり年の差を完全にすっ飛ばして惚れてしまっていた。何せ一緒にいたいがために、四爺さんに無理を言って同行を代わってもらったぐらいだ。正真正銘の初恋。俺は女性の好みまで爺むさかった。
「別に何処でもいいんだよ。映画館とかゲームセンターとか、あんたの年頃なら楽しめる所がこの街には沢山あるの。興味無い?」
全然。大体、金が掛かる遊びは貧乏人の習性で無意識に忌避してしまう。でも折角ばっちゃが出してくれた提案を撥ね付けたくはない。しょうがないな。
「じゃあ映画観たいかな。ばっちゃは最近のに詳しいのか?」
「全然。でもこれから行く所に詳しそうな奴がいるから、そいつに訊けばいいよ」
「ふーん」
案内されて三十分後。辿り着いた先は、オフィス街とスラムの境目にある小奇麗な一階建ての白い建物だった。入口上に掲げられた看板には『ビトスメンタルクリニック』とある。精神科?いつも元気溌溂なばっちゃに、治療が必要だとは思えないが……。
入口の扉に近付いてみると、何故か中からはギターとハーモニカの音色?が聞こえてきた。
「先客がいるみたいだね。―――邪魔するよ、ケルフ」ガチャッ。
外観と同様清潔な院内は、本当何処にでもある病院だ。しかしその待合室は、本来なら存在しないある物で散らかっていた。
「ようアイザ。今日は随分早いな」
Tシャツの上から皺くちゃの白衣を申し訳程度に着こなす男が、ギターコードに掛けていた手を外して気さくに呼び掛ける。年齢はばっちゃと同じぐらい。溌剌と笑って白い歯を見せた。
「まだ予約時間まで二十分近くあるぞ。ん、そいつは?」
「前に電話で話した庚だよ。今日の付き添い」
じーっ。何なんだこの男、看護師か?
「いつもは四のオッサンなのに、何か都合悪かったのか?」
「お腹痛いから休んでるってさ。当たるような物でも食べたのかな……?ま、偶にはいいでしょ。休日もメール出したりとかで結局休んでないもの」
爺さん、バレないからって如何にもテキトーな嘘吐きやがって。
ギター以外にも床にはカスタネットやトライアングル、トランペット、オーボエ、クラリネット等々が所狭しと転がっている。奥にはトドメとばかりに音楽室ばりのグランドピアノがデン!と構えていた。
自分の楽譜立てを横にどけ、悪いな、ちょっと早いけど今日はおしまいだ、隣のクッションに座る少女の楽譜を畳んで手渡す。
「お前、龍族なんだろ?その年にしては上手く変身出来てるな」
「いや、服の下は結構手を抜いてるよ。一日中完璧は流石に疲れるから」
シャツの裾を捲り、深緑色の鱗の出た腹を見せる。
「そりゃそうだ。ところでアイザ、二胡はちゃんと練習してきたのか?」
「当たり前じゃない、もうバッチリよ。そうそうケルフ。最近面白い映画ってある?後でこの子と行こうと思うんだけど」
「映画?俺もここ半年行ってねえよ、色々忙しくて。理南は知っているか?」
話を振られた俺の二、三歳年上の少女、楽譜とハーモニカを鞄に片付けている最中の、は顔を上げ首を横に小さく振る。
「そっか。じゃあ無難にアクションでも観ようか、庚?あんたぐらいの男の子ってそう言うの好きでしょ?」
「そう、だな……うん、ばっちゃに任せるよ」
ホラーよりは多分マシだろ。出来ればあんまりグロくないの希望。
「忙しいって、また新しいアルバムの収録してるの?」
「まぁな。今日もクリニックが終わったらスタジオ直行で録音作業だよ。来週中にはCD会社に渡さないといけないからな。だからここしばらく睡眠不足でさ、昨日もあんま寝てないんだ」
お疲れの看護師はそう言って大欠伸を掻き、ソファにだら~んと寝そべる。
「理南。先生少し寝てるから、ちゃんと妹さんと一緒に帰るんだぞ?あと、次回までに宿題をちゃんとやってくる事。分からなかったら何時でも携帯に電話してこい」
「はい、オーキス先生」
仄かな笑みを浮かべて返事をする彼女。あれ、この顔誰かに似ているような。それに何処かで聞いたような名前……。
「え?理南ちゃん?嘘、髪随分切ってたから全然気付かなかった!可愛くなったね!」
ばっちゃの知り合いだったのか。照れた表情を見せ、鬱陶しくて一昨日美容院でバッサリやってもらったの、と呟いた。しかし別人だと思うぐらいって、どんだけ伸ばしていたんだこの子。まだ前髪の先端は目のすぐ上だぞ。
「ここのクリニックはどう?ちょっと家からは遠いけど。今日で三回目かな?」
「はい。先生達も前の所と違って優しいし、カウンセリングの効果で大分楽になりました。今から妹と何処かでお昼ご飯を食べてから帰るつもりです」
姉妹揃って治療に通っているのか、大変だな。でも彼女、多少大人しいぐらいで、至って普通に見えるんだが。
「いいね。アタシ達も映画の後で何か食べに行こうか」
頷く。やった、二人で外食だ!
キィッ……。「終わったよお姉ちゃん。早く帰ろ………こ、庚!!!何で………!!?」
奥のドアから出てきた着物姿の柚芽は、今にも倒れそうな程真っ青な顔で叫んだ。その細い手を、更に蒼褪めた顔の理南さんが握り締める。
「え、ま、まさかこの子が例の……?あぁ柚芽、ごめん。ごめんなさい、私また……取り返しの付かない事」
次の瞬間、今にも号泣しそうな様子で謝罪する姉を、柚芽は全力で振り払う。肉親が転ぶのも構わず、そのまま入口から外へ飛び出して行った。
バタンッ!「柚芽、待って!!」ボロボロッ。「ど、どうしよう……このままじゃあの子、また……」「お姉さん、俺が捜して来る!」
喫茶店の赤色が脳裡を過ぎ、思わずそう叫んで後を追った。
勘を頼りにスラムの通りを駆け抜け、碧色の着物を捜し回る。
(頼む、ヤバい事になる前に間に合ってくれ……!!)
「いた、柚芽!!」
行政の管理の手を離れて久しい公園。同級生は錆びたブランコに乗り、白い脚をブラブラさせたまま虚ろな目で天井のドームを眺めていた。良かった、取り敢えず被害者は出なかったようだ。
「人の顔見るなり出て行くなよ。俺はお化けかっての」
「だ、だってあんな所で庚と出くわすなんて……思わなかったもの」
その後、急に白かった頬が赤くなる。
「今日は小母様の付き添い?」
「ああ。お前は姉さんの」
睨まれて言葉を止めた。
「そうよ。お姉ちゃん引き籠りなの。境みたいな、人の皮被った馬鹿連中に散々虐められたせいでね」
そして加害者共を、この柚芽がボコボコのギッタンギッタンにした。
「だから治療よ。ここの先生の腕は確かだわ。最初は夢療法なんて、頭を掻き回されて余計おかしくなったらどうしよう、って主に母さんが不安がっていたけど。終わる度にどんどん良くなってるの。昨日なんて、同級生に遅れててもいいからまた学校に行きたい、って言い出したわ。凄い回復振りよ、環紗の心療科の時とは大違い!」
一気に捲し立てた彼女の呼吸は荒い。危険な兆候だ。
「小母様には本当、感謝してもし切れない。姉さんが良くなる度に父さんも母さんもとても喜ぶわ。最近は毎日ニコニコしてる」
言葉と裏腹に彼女は余り、いや全く嬉しそうでない。
「そりゃ良かったじゃないか。このまま順調に行けば、お前の苦労も少しは減るだろ」
「ええ!私の事さえ無ければ万々歳だったのにね!」
ブランコの鎖が超強力な握力によってピシピシッ!罅割れる。
「柚芽、お前はマトモな、普通の優等生だ。だから落ち着け」
「―――庚も私が怖いの?」
わなわな震えながら不安そうに問う。
「父さんも母さんも、お姉ちゃんでさえ私を腫れ物のように扱うわ。あの事が原因で」
そりゃあ常軌を逸した事件だったんだ。根本原因が不明であるだけに、余計周囲の恐怖心を煽った。止めに入った俺だって本気で命の危機だったのだ。無理も無い。
「今日はお姉ちゃんの後に初めて診察を受けたの。カウンセリングと、夢療法を十分ぐらい……お姉ちゃんと違って、一回じゃ効果は特に無かったけれど」
唇を噛み締める彼女の手を掴む。
「同級生をどうして怖がる必要がある?何があったかは知らないが、俺は大丈夫だ」
勿論半分は嘘だ。俺は現場に居合わせ、理性のブッ飛んだ彼女に危うく腕をへし折られかけた。
「―――慣れない強がりは似合わないわよ」言いながら手に頬を擦り寄せる。「ごめんなさい、庚」
「弱気だな。いつもの才女らしくないぞ」
「学校の方がおかしいの。今が本当の私」
それでも潤んだ目には、いつもの優しい光が戻りつつあった。
「庚のお陰ね、ありがとう」
「?」
「いた!二人共!!」
公園内へ走ってきたばっちゃは息を乱しながら、良かった、すぐに見つかって……、そう呟いて手を差し出した。
「柚芽、理南ちゃんが心配しているよ。ほら、一緒に帰ろう」
「小母様……御迷惑掛けて済みませんでした」
「他人行儀は止めてよ。前言ったでしょ、もうあんたとは家族みたいな物なんだからって」
幽霊蔵の帰り道の話だろうか。クリニックの紹介といい、ばっちゃは色々彼女のためにやってくれているみたいだ。
大きくてがっしりした手を取る同級生。自然にもう片方の手は俺へ。
「庚も行こう」
「あ、うん」
熱いぐらいの小さな手に引かれ、ちょっとドギドキしながら来た道を引き返した。