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終章 光風霽月の夜




―――いちゃん……お爺ちゃんってば?


 耳慣れた声にゆっくり重い瞼を開ける。顎に濡れた感触。涎が炬燵布団の端を汚していた。今度天気の良い日に洗濯しないと……。

「炬燵を点けたまま横になっては駄目です。風邪が余計悪化しても知りませんよ」

 声の方を見上げるとバイトから戻って来た孫娘、那美が呆れ顔をしていた。

「ああ……お帰り、柚芽」

 言いつつ炬燵に手を入れ、コードのスイッチを切る。

「お帰りじゃありませんお爺ちゃん。しかも寝惚けてお婆ちゃんの名前言ってるし。薬、ちゃんと飲んだんですか?」

「あ……あぁ、済まん。朝からずっと寝てた。今何時だ?」

「もう夜の七時ですよ。もう……しょうがないなあ」

 那美は苦笑しながら炬燵の上の蜜柑を剥き、一房口に入れる。

「どうせまたばっちゃさん達の夢でしょう?あんまり柚芽お婆ちゃんを妬かせないで下さいね」

「今日はちゃんと婆さんも出てきたさ、ん」「はいはい」

 半分貰う。甘酸っぱい果汁が渇いた口腔内に広がる。

 死んで数年経つのに、夢の中で会う妻は何時も結婚前の姿をしている。親父もずっと初老で……ばっちゃが死んだ時点で脳内時間が止まっている良い証拠だ。

 あの後俺は茶道の教室、親父は死ぬ間際まで骨董屋を家で営んだ。二足の草鞋と子育て、その調整に柚芽は愚痴一つ言わず良く頑張ってくれた。まぁストレス解消で偶に小悪党共へ鉄槌を喰らわし警察の御厄介になる事もあったが、それぐらいは覚悟の上。御愛嬌だ。

 顔は遂に知らないままだったが、曲林兄はその後も懲りずに事件を起こし、とうとう絞首刑に。一方弟の境は柚芽の脅しが効いたのか、犯罪から一切足を洗った。環紗の実家に戻り、散々苦労を掛けた母親の面倒を見ながら、腕の良い番傘職人として慎ましく一生を終えた。尤も酷い女性恐怖症で、作業場に籠もっては傘に話し掛ける変人振りだったらしいが。

 上半身を起こし、寝巻きの上から尻をボリボリ掻く。尻尾を出っ放しにしているため、床と擦れてしばしば痒くなる。ただでさえ炬燵の中は乾燥するから余計だ。

「明日も仕事か?ここの所行き詰めじゃないか。無理はするなよ」

「平気ですよ五日ぐらい。それに今日までは栗花落さん達とスキーに行っていたんですから、半分休暇みたいな物ですよ」

「楽しかったのか?」

 すると何故か一瞬、苦虫を噛み潰したような顔になった。まぁ、あのベルイグ氏と孫の相性は最悪だ。無理も無い。

「そうか。それは残念だったな」

「?いえ、別に先生が我儘の限りを尽くしたとかそう言うのでは……いや、少しはそれもあるんですけど、旅先でちょっとした事件があって」

「ほう」

「先輩やクラン達も丁度居合わせて、何とか解決はしたんですけど……うぅ」ギリッ、歯軋り。「選りに選ってクランに弱みを握られるなんて……もしかして、あの子が一番の悪なんじゃあ……」

 あの金髪の眠そうな娘さんか。確かに得体が知れない。腕力に物を言わせる『鬼憑き』には苦手極まりない相手だろう。

「沢山滑れたのか?」

「ええ。色々あって結局遊んだのは最終日だけですけど。午前中は普通に滑って、ランチの時にセミアちゃんが、折角だから皆でレースをしようって言い出したんです」

「ほう、それは面白そうだ」

 闘争本能の強い孫娘の事。きっと内心手放しで提案を喜んだだろう。

「ええ。私より巧いのはラント先輩だけですし、見た感じレイ君達はまだ初心者でしたから、充分一位の可能性はあったんです」

「『は』?」

 二つ目の蜜柑を取り、幾分乱暴に剥きながら話を続ける。

「完全に油断していました。まさか不参加のクランが、味方の被害も構わずあんな恐ろしい妨害工作を仕掛けてくるなんて……」

 拳に合わせ、炬燵の天板がガタンッ!と鳴る。

「にしても、まさかゴール直前の落とし穴に嵌るなんて。あれでは『鬼憑き』を発動する隙もありません。あぁ、まだ脳震盪の後遺症でクラクラする……」

 側頭部を押さえ、心底悔しそうに呻く。

「じゃああの、大学の聖書研究会の先輩も?」

「四天使の研究です。どちらもやってる事に大差ありませんけど、本人が聞いたらショック受けますよ。あれで結構繊細ですから」

 確かに一度家へ来た時も、街の教会が大事にされていないとかでかなり落ち込んでいた。

「ええ。結局アス君以外全員脱落です。その彼もスキー板が半分折れ、ストックも片方落として半死半生でしたけど」

「そりゃ凄い」

「全員で問い詰めたらあの子、何て言ったと思います?―――だって普通に滑るなんて退屈でしょ?皆巧いからこれぐらい余裕綽々で避けられると思ったの、ですよ。しかも運悪く嵌まった他のスキー客にも一言一句同じ理屈で通すし」

 橙の果実を一気に半分口へ放り込み、もぐもぐしながら拳を掌に叩き付ける。

「でも、今度は負けません。『鬼憑き』と宝家の名に賭けて、必ず彼女をギャフンと言わせてやります」

 そう。顔も異能も似てはいるが、孫は祖母とこの点で明らかに異なる。那美の方が純粋無垢に、信じる正義のために躊躇い無く能力を活用していた。馬鹿とも言う、勿論良い意味でだ。

(本当に強いな、この子は……)

 ほんの一時期とは言え、同じ境遇の柚芽と暮らしたせいかもしれない。


―――庚、那美はもっともっと強くなるよ。私と違って、あの子の鬼は他人を必要としているから。


 お前の言う通りだ、柚芽。那美には多くの仲間がいる。生憎猪突猛進過ぎて、まだ気付いてさえいないがな。何時俺が死んでも、この子はきっと大丈夫だ。

「お茶淹れて来ますね」

「ああ」

 祖母に似た彼女が炬燵を一度抜け数分後、点てたばかりの抹茶を二つ置く。芳醇な香りが頭の隅に残った眠気を晴らした。

「風邪にはカテキンです。どうぞ」

「ありがとう」

 ずずっ……まだ鼻が奥で詰まっているのか、苦みも旨味もいつもの半分程度しか感じなかった。今年の風邪は本当に長いな。

「今日も綺麗な月ですね」

 どれだけ年月と季節が巡っても、満月はあの夜のまま静かに光輝いていた。今夜も誰かが導かれ、あの天国への橋を渡っていくのだろうか?そして自分も何時か、人知れず昇って……。

(滑って転ばないよう、せめて最後まで足腰だけはしっかりさせとかないとな)

 今はまだこの暴れん坊の孫娘が気掛かりで逝くに逝けないが、何れは迎えが来る。どちらの世にも楽しみばかりではない事が、むしろ喜ばしい。

「お爺ちゃん?」

 孫娘の手が俺の目と月の間で振られる。

「また魅入られてましたよ?本当、満月には目が無いんだから」

「ああ、済まん……」

 降り注ぐ黄色い光源から目を逸らす。途端微熱に因る関節痛や頭のだるさ、肉体の感覚が戻ってきた。……生きているんだ、俺はまだ。

「幾ら綺麗でも、近付けばただの大きな岩の塊ですよ」

「相変わらず那美はロマンが無いなあ」

 苦笑して一度大きく背伸びする。老年の身体中からベキベキ骨が鳴った。


(やれやれ……まだ当分そっちには行けそうにないよ、皆)


 生の実感を愛おしく思いつつそう心中で呟き、少し冷めた炬燵に潜り込んで再び横になった。


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