危機 一
「今日もデボのお乳、売り切れだって。」
家に帰ってくるなりミーナが嘆く。今日は、学舎がない日なのでミーナとお休みのお父さん、お母さんは朝から買い出しに出かけていた。染色に必要な桶や鍋などの道具を工房に頼んでおいたらしく、それを取りに行っていたのだ。力がなくて歩くのが遅い私は、お留守番。
この数週間で草木染めは下町中に広まった。それ以降、材料のミルクがすぐに売れて手に入らない。この世界もミルクは飲食する文化だけれど、冷蔵庫などないので傷みやすいミルクを大量に仕入れるということはしない。元々仕入れ量は多くないので、その結果、供給は据え置きなのに需要が跳ね上がってしまい、即売れ切れという状況だった。
「ちゃんとナイルが言う通り豆を買ってきたよ。」
ということで対策として、ミルクがないなら豆乳で代用しようと豆を買ってきてもらったのだ。この国は豆をよく食べる。そら豆のような大柄なものから大豆のようなものまで様々な種類がある。少し手間だが、これなら売り切れる事もないだろう。他にも染料に使えそうな食材も貰ってきている。
昼食を食べた後、私が説明しながら豆乳作りをしていると来客があった。お母さんが対応するために玄関へ向かう。
「南門の衛士ゲイルの家はこちらでよろしいか。」
見た事のない人だったが服装や雰囲気から騎士団の人であるのはすぐに解った。
長身でかなり体格が良い。顔付きは少し強面だけれど、話し方や立ち振る舞いは柔らかで紳士的な印象を受けた。
お母さんに代わってお父さんが対応する。私はその内容に聞き耳をたてていると、騎士団が探してくれていた新居の用意ができたとのことだった。
そして、その話がひと段落すると今度は私の名前が出てくる。どうせ、豆乳作りは半日はかかる。私は豆を水に浸けてから、作業を中断して玄関に赴いた。
「君がナイルか。唐突で申し訳ないが副団長が呼んでいる。私と一緒に騎士団まできてもらえないだろうか。」
そう言った彼は表情の表情は優しくなかなかな男前だ。強面だけれども。
騎士団に習事のために通う約束はしているが「詳細は追って指示する」と指示されていた。それに前回までは事前に日程の通知がきてから、こんな唐突なのは初めてのことだ。事前通知なしとはよほど急ぎの要件なのだろうか。
私とお父さんは急いで外出の準備をする。といってもお父さんは先ほどまで外出していたし私が服を外行きのちょっとだけキレイなものに着替えるだけだ。
家の玄関を出ると先ほどの騎士さんが待っててくれていた。どうやら一緒に付いて来てくれるらしい。3人揃って騎士棟のある街の北東まで歩く。大人の2人なら15分ほどの距離だけれど歩幅は私に合わせてくれているので半刻ほどは、かかりそうだ。
道すがら2人は引っ越す予定の新居の話をしてるけれど、どうやらこの辺らしい。…って、ここって元貴族街なのだけれど…
「それと職場の話だが半月後から君は東門での勤務となることになった。立場は衛士長として迎えることになっている。」
衛士長は門を守る衛士をまとめる立場の役職だ。何かあった時に騎士団や軍と話を繋ぐ立場でもある。つまりはお父さんは昇任ということになるのだけれど、何故かお父さんはあまり嬉しそうではない。
「それからナイル、私はマレーと言う。これから宜しく頼む。」
「こちらこそ宜しくお願いします。マレー様。」
「様は、よしてくれ。そういう柄じゃないのでな。」
口上こそ騎士口調だが、その話し方は威圧感など感じず柔らかい。そして気さくだ。強面だけど。
「ではマレーさんとお呼び致しますね。」
そこでふと気がつく。マレーさんは「これから」と言った。どういうことだろう?
私はマレーさんにそのことを尋ねようと思ったが先に騎士練に到着してしまったようだ。
受付を済ませようとするとマレーさんが受付は必要ないと言って、そのまま副団長のいる執務室まで案内される。
「マレーさん、先ほど『これから宜しく』と言われましたがどういった意味でしょうか?」
「ああ、それは私が今日から君の警護を命ぜられたからだ。とはいえ自宅から騎士練までの間だけ、ということになるが詳しくは、これから副団長から話があると思う。」
私に警護?確かに身辺に注意せよとは言われているけれど、自宅から騎士団までの間のみとはいえ護衛まで付けるとは思っていなかった。もしかして、私が思っているよりも危険性が高いのだろうか?考えがまとまる前に執務室の前に到着する。
扉を開けるといつも通りの書類まみれの机。その奥にはしかめっ面の副団長。今日は特に難しそうな顔をしている。報告書の類だろうか、いつもよりも積み重ねられている書物が多い。
「久しく存じますヴォルガ様。いかがお過ごし…」
「そういった口上はここでは良い。久しいと言っても3週程度だ。」
やはり機嫌が悪いみたいだ。挨拶もそこそこに尋問?が始まる。
「まだ3週間程度しか経っていない。我々が君たち家族の転居先を探している程度の間だ。」
それなのにと副団長は続ける。
「率直に聞く。新しい生地の染め方を広めたのは君か?」
「はい。私が家族に教えそれが広まったと思います。」
唐突な質問に少し驚いたけれど私は素直に返答する。
「街で新しい生地の染め方が流行している。それにより物の流通や物価が変化しているのは理解しているか?」
ここ最近はこの国での市場の物の価値や流通などをよく見る様にしている。この世界で生きていく限り必須の知識だ。…とはいえ下町周辺の市場だけだけども。
「えぇ、デボの乳がすぐに売れ切れてしまって手に入らなくなっているようです。塩も品薄ではあるようですが幸い、売り切れてしまう程ではないようです。」
「我が国は海が近い、それに隣国は塩の最大輸出国だからな。しかしそれだけではない。」
「君は染色は一つの工房でしか扱われていないことを知っているか?」
「…いえ、存じませんでした。」
初耳だ。お母さんから聞いていたのは色の付いた生地は高価だから富裕層の服などに使われて、下町には回ってこないということだけだ。
「そもそも10年以前までは染色は国に指定された者しか行えない事業だったのだ。君は染色で使った汚水をどうしている?」
「え、はい。下水に流していますが…」
「染色が指定工房でしか扱えないのは汚水を川に流した場合、下流の水が汚れそこでは染色などができなくなってしまって、それにより諍いが生じるからだ。」
確かに川に染色で使った汚水を流せば下流で水を取った時に既に色がついていて使えない。それに生活用水としても使えなくなってしまう。ただそれは…
「我が国はファレーズ山脈から流れる豊富な水源があるため上下水が整っている。この決まり事は元々我が国がロジェパ王国から分離した頃に決め事も引きついだだけの形骸化した法だった。だから共和制移行の際に、この法も廃止されたが一つの商会が扱っている体制は今もまだ続いている。」
つまり、昔は法で定められてて指定された工房でしか染色は行えなかったけれど、法が変わって廃止されたのに、体制は昔のまま変わっていないってことか。でも、法が廃止されているなら罪に当たらないし、私がここに呼び出された理由にはならない。
「それでは私は何故ここに呼び出されたのでしょうか?」
「君が広めた染色方法は目新しいものではないが、色落ちなどを解決していて充分に実用に耐えられるものだ。こういった平民から新たらしい文化が生まれ、一般化していくのは我が国としても望ましいことなのだが、そうは思わない奴らもいる。」
「今しがた話した通り、生地の染色は過去に国に指定されていた工房でしか扱っていない。つまり、その工房を扱う商会主の独占市場であるということだ。」
色の付いた生地は高価だとお母さんが言っていたのを思い出す。国内で市場に出回っている色付きの生地が一つの商会の独占であったならその工房主はかなりの収入を得ているはずだ。そこに一般家庭でも簡単で安価に色付きの生地を作れる方法が広まれば当然その者には都合が悪いことになる。
「つまり私は意図せずとはいえ、その独占市場に喧嘩を売ってしまったということでしょうか。」
「そういうことになる。法が廃止された時にも染色を新たに取り扱おうとした商会はいくつかあった。しかしそのいずれも廃業や商会主が行方不明になっている。」
新たに事業に参入しようとした商会がいずれもご破産になっているというのは尋常ではない。こういう昔からの事業は元貴族の人しかやっていないだろうから、それなりに権力も有しているだろう。
つまり、私は潰される側ということだ。まさか家族に喜んで貰うためにした事が権力者に喧嘩売ることになるなんて想像もしていなかった。
「今のところ新しい染色の方法が君から広まったということは特定されていないはずだ。しかし、それも時間の問題だろう。」
下町は元貴族街より沢山の人がいる。しかし、あっちの世界の探偵さんのような人を雇えば噂の元となった個人を特定できるかもしれない。
「それで私に警護を付けるということになったのですね。」
「護衛には君に合う人選をしたつもりだ。君と君の家族の安全も考え新しい住居も騎士団や衛士の目が届き易い所にした。これは君が以前に提示した要望だ。」
私は自分と家族の安全を条件に、あっちの世界で得た知識で騎士団に協力して国に貢献するという取引を申し出た。あの時はとりあえず自分の潔白を証明することが目的だったけれど、危険が近づきつつある今となっては正解だったようだ。まぁ、結局は今後も騎士団に協力して行かなかければならないことに変わりはないのだけど。
「予定していたよりも早いが翌週から君には騎士団に通ってもらう事にする。君の賢識は目を見張るものがあるが、この世界を知らなさすぎることは自他ともに危険だ。まずはこの世界について早急に学んでもらう。」
翌週から私は騎士団に通う事が決定したのだった。
あとの話で記述が出てきますがマレーはその名の通り熊さんです。
この国では商会が幾つもの工房や卸店を取り扱って一貫式の商いが普通です。生地や服飾を扱う商会は複数ありますが染色するには必ずこの商会を通します。競争相手はいないのでボロ儲けです。
意図せずも市場を独占していた商会に喧嘩を売ってしまったナイル。ちょっと後悔していますが、まだ楽観しています。
次回は帰り道、話は続きます。