欠落 ―ロスト・メモリーズ―
優しいそよ風は未だ冷気を感じさせる4月の頭。
深夜ともあれば若干肌寒いので、羽織るものは手放せない。
少し厚着をしてやってきたのは僕だけが知る世界。
天ノ峰の樹海の奥にある、かなり大きな広場みたいな平原。
小川のせせらぎと、そよ風に煽られた草木のささやきが聞こえる。
それが僕への歓迎なのかなと、少し調子付いたことを考えながらいつも横たわる場所を目指す。
少し駆け足で入り口から中央の芝地へと向かう。
広場の真ん中にかかる手すりのない木造の橋を見ると、髪の長い女の子が川面を見つめて立っている。
こんなところに人が居るのも珍しい。
これまで両手で数えきれないほど何度もこの場所に来たが、決して一度たりとも人と出会うことはなかった。
だから誰かがいる状況が新鮮で、僕は歓喜の声を漏らしかける。
だが、寸前で口を閉じ、左手で鼻も封鎖。
敏感な僕は怪しさも感じている。
月明かりがあるとはいえ、どうしてこんなに暗いはずのこの場所で、鮮明にあの子が見えるのだろう。
よく「天然だね」と言われることが多い僕だが、自分でそうは思っていない。
違和感は違和感として感じられ、ちょっとした変化にも敏感なのだ。
だけど口に出してばかりだと怖がられたり、嫌われたりしてしまうから、あえて言わないのだけれど。
どこが天然だというのだろう。
さておき、そんな違和感を感じる『センサー』のようなものが、僕の中で僅かに反応している。
いいやもっと警戒すべきか。
でも、気になる。話しかけてみたい。
およそ普通ではない人が少し遠くに居るという事実に驚きと警戒と、そして好奇心を感じさせられる。
そうしてわたわたと、遠くから少し近づいたり離れたりを繰り返す。
するとやがて、その髪の長い女の子が奥の方へ歩いていく。
奥には不思議な像がある。
像……? それとも祭壇かな。どちらの呼び方が正しいかは分からない。
だけどそうとしか呼べない、古くからありそうな人工物だった。
あの女の子はそれについて何か知っているのか、それともあまり知らずに、ただ見に来ているだけなのか。
興味が湧いてくる。
一体何者なのか。そして、ここについてどれほど詳しいのか。
僕は駆け足でついていく。
既にあの子に対する恐怖心は脳裏に隠れ、単なる関心だけが表に出ている。
沸騰した心に惑わされてしまい、橋に差し掛かった辺りで思いっきり転ぶ。
「うわぁっ!」
他人が聞いたらあまりに恥ずかしい声を出しながら。
木が少しばかり湿気を帯びていたことで滑りやすくなっていたらしい。
「いてて……」
倒れたまま前を見ると、誰かのつま先が見える。
そのまま不意に起きあがろうとしつつ顔を上げると、そこには先ほど見ていた少女が……。
……無表情で僕を見つめている。
「あ、その、ごめんなさい!」
反射的に謝ってしまう。
僕自身がひっそりと追いかけようとしていたこともある。
だがそれ以上に女の子のその冷えたような表情が、僕の心にトゲを打ち付けられたような気がしたからだろう。
川の音も風や木々の音も、何もない。
あるのは起き上がった僕と、それを正面に見据える女の子だけ。
折角なので気になることを聞くことにしよう。
「えっと、よくここには来るの――」
「なんべんも来てる」
「――あ、そ、そうなんだ!」
女の子は表情を変えず、割り込むようにして返してくる。
話の途中に割り込んで自分の意見を述べるタイプの人はクラスメートに何人か居たが、その類だろうか。
「ここで何して――」
「待ってた」
「――へ?」
また被せられた。
会話をしているようで、していないような気分にさせられる。
まるで覚えた言葉をそのまま発しているかのように、そこに意識を感じられない。
「そ、そうなんだ。え、でも初対面だよね」
「…………」
女の子は初めて間を置いている。
「ルイ。あなたは、夜天ルイ」
女の子から発せられたそれは僕の名前だ。
突然すぎて驚くしかない。
「どうして名前を知ってるの?」
「…………」
「……あの?」
「そして私は——」
答えにくい質問だったらしい。
女の子が話している最中、僕はがっくしと肩を落とす。そのせいで名前は聞き逃した。
「それと、さっきの初対面かどうか……だけど、あなたにとってはそう。私はなんべんも会ってるんだけど」
「え? どういうこと?」
「……もし、最後まで進めたなら教える」
「……最後?? うーん、頭が痛くなりそう」
「私のことを、そしてこの世界のことをもっと知れたら」
「君と、世界のこと……」
女の子は僕に背を向けると、そのまま歩き出す。
呆然としている僕は、追いかけることが出来ないでいる。
「——忘れてくれてもいい。私を単なる変な人だと思ってもいい」
そう言いながらこちらを見ることなく、女の子はさようならと軽く手を揺する。
「また、会える?」
「もし、貴方が覚えていたなら……きっと」
ふと、風を感じる。
草木が揺れる音と、澄んだ小川のせせらぎが聞こえる。
「……あれ」
女の子はもう、どこにも居ない。
まるでそこには何も無かったかのように。
そして、存在などしていなかったかのように。
「何だったんだろう」
ボソリと独り言を呟く。
自然は何も答えてはくれないのに。
このゾワゾワした気持ちを打ち消すには、やはり星空を眺めるのが一番だ。
いつもの芝生で寝転がろう。あわよくば寝てしまおう。
などと考えつつ、僕は芝生に駆け寄り寝転がる。
しばらく空に見惚れていると、心が落ち着くのを感じる。
やはり僕にとって星空は拠り所なのだ。
「……くしょん」
僕はそっと起き上がり、隣に置かれたバッグからポケットティッシュを取り出す。




