第十章 「個人授業」
『――どうした? もっと踏んでみろ』
無線越しに聞く「指導教官」の声に、あからさまなまでの余裕を少女は聞く。
余裕――嘲弄ではない。
翻って焦燥――これまで想像もしたことのない、烈しく辛い焦燥。
背後の相手に掻き立てられる敵愾心――瑞々しさを増す瞳の煌き。
「……!」
言われるがままに踏み込んだ舵――俊敏なまでの愛機の反応、そして同時に沸き起こる箍のように心胆を苛む失速への不安。
愛機の振動は、それを駆る少女に、俊足を磨り減らした末に遅い来る破局が近いことを、少女の身体に報せていた。
一瞬、照準機に入る目標の機影――だが仮初の優位は直後、目標機に打たれたさらに小さな旋回によって元に戻される。
絶句――どうして?
愕然――旋回性能は、こちらの方が勝るはずなのに!
灰色の瞳を見開き、少女は烈しい感情で誰とも無く問い掛けた。
それでも――
答えなど、出ようはずもなかった。
前方を行く目標機が、さらに旋回した。
その瞬間に生じた――否、生じるであろう――相手の速度の減少に、少女は勝機を見出す。
だが――
一向に縮まらない距離――何故?
それを追おうとしてさらにフットバーを踏み込み、そこで少女の操縦は意図しない破綻を迎える。
全身を震わす振動――
「……!?」
破綻は、不意に訪れた。
周囲を流れる時間そのものが営みを止めたかのような静寂――
ゼーベ-ギガは、失速した。
失速――その瞬間が来るまで、少女は愛機を完全に乗りこなしたつもりになっていた。
――だが失速の瞬間、少女の愛機は唐突に、乗り手の意に背いて舞うのを止めた。
その翼から俊足が失われた瞬間――愛機はただ重力の豪腕に囚われる儚いばかりの金属の塊と化すしかない。
回復動作――
後に残るは、怒りすら催わせる、止め処ない失望――
そこに――
「……?」
消えた?
少女が、自らが只管に追っていた機影がその前方に掻き消えたことを悟った瞬間――
またか!――大仰に肩と首を傾け、視界の中に見出した背後で、少女は直感を確信に変える。少女の求めた機影はすでに悠々と上昇宙返りを終え、すでに少女の背後にそのスピナーの先端を接しようとしていた。
脱力――
「……」
『――何度言ったら判るんだお嬢ちゃん』
無線機を通し、あたかも自らの怯惰を見透かした悪魔のような宣告を少女は聞く。
『――戦闘機乗りは余力を残して置くもんだ。こういう場合に備えてな』
「指導教官」の言葉を無線越しに聴きながら、少女は漸くで速度を取り戻しつつある愛機を直線飛行に入れる――
その直上――
「……!?」
彼女の駆るゼーベ-ギガよりずっと劣速で、老朽化も烈しいはずの教官機が、キャノピー越しの空を悠々と乗り越え、そして追い越していく――
どうして!
そして、その日も少女にもたらされる、抗い難い衝撃――一週間を、少女はそんな募り行く焦燥と屈辱とともに過ごしている。
――話は、先週の朝に遡る。
「お早う御座います。ドレッドソン少佐」
「……」
少女が初めて彼と直に向き合った日の翌日――
再び彼の前に現れた、飛行服ごしに幼さを漂わせる曲線を顕にした少女を前に、少佐と呼ばれた男は一言も発せず、望まずして彼が預かった「深窓の令嬢」を見つめるばかりだった。
男の口元には、生れ付いたかのような不敵さを漂わせた微笑――エルディナにとっての訓練の初日、隻眼の指導教官は飛行場傍の搭乗員待機所のベンチに腰を下ろしたまま、試すような、あるいは遊ぶような眼差しをして少女を見上げたものだ。
そんなタイン-ドレッドソンの態度に、エルディナが覚えたもの――それはやはり反感であった。
エルディナとて、それを内心で忌みながらも上流階層の生れ、そのような出自の自分に対する然るべき態度があるべきだと思っていた――あるいは、そう思うように少女は馴らされていた。だが、眼前の態度から鑑みるに、ごく平凡な庶民層の出身という眼前のこの男は、彼自身が上げた赫々たる戦功に驕るあまり、自分に対し何かとんでもない「勘違い」をしているのではないか?――少女には、そう思われた。
そして同時に頭をもたげる彼に対する不安――ひょっとすれば、自分の選択はとんでもない見込み違いではなかったか?
上層部の受けが悪い男であることぐらい、少女はすでにそれとなく知らされていた。当初は彼の、立場を弁えない「活躍ぶり」を快く思わない指揮官たちが流す、根拠に乏しい風聞程度にしか捉えていなかったそれらが、今では実際にタインの態度を、その純粋な内心で見咎めた少女の脳裏では次第に重みを増して行ったのだ。
少女が次に囚われたのは、裏切られたという強い――あるいは自己中心的とも言える――隔意であった。
そんな少女の内面を知ってか知らずか、タインは腰を上げ、そして飛行場へ向かい歩き出した。少女に同行を促すという風でもなく、淡々と戦闘機の列線へ足を向ける男に、少女が自ずと追従の必要を察するのに、優に一分の時間が必要だった――そのときには、少女は男に追い付くべく駆け足を強いられればならないほどにまで男に距離を開けられていた。
駆け足――まるで、自分より遥かに上位の人間に追い縋るかのような。
――それが、その実誇り高い少女を一層の煩悶へと駆り立てる。
――あの男は……一体何様の積もりなのか?
――あの男は……わたしを一体何だと思っているのか?
先日の内に、すでに司令部から遠く離れた飛行場の一隅に移されたエルディナの愛機の前で、タインは足を留めた。
「ほう……」
乗り手の好みらしいピンクの塗装が施されていることを除けば、機体の選定に関し少女の感覚の良さを、タインは一瞥の内に感じ取る。
「猫背か?」
小走りに追い付いて来たエルディナを省みることなく、ただそれだけをタインは聞いた。
正式名称ゼーベ-ギガ-ダルタ。それは各型計5タイプが生産されたゼーベ-ギガ シリーズの三番目の型にあたる。だが、総合的な生産数は「型」という範疇を為すほどに決して多くはない。
生産時期的には初期型と後期型のちょうど中間に位置するダルタは、具体的には胴体後部をコックピットと一体化させ、かつ垂直尾翼の面積を増やすことで直線飛行の安定性と旋回性能の向上を図っている。それらの用件を瑕疵なく満たした一方で、この型の総生産数がわずか200機程度の極少数に留まったのは、こうした改良の結果、上昇力及び急降下時の加速がやや低下し、それが将来想定される空戦形態の高速化に不適格とされたためだ。
従って、精強を持ってなるレムリア戦闘機軍団内におけるダルタの存在感は薄く、若手の空戦士の中にはその存在すら知らない者も少なくはなかった。だが一部の古手の空戦士の中には、多機種にはないダルタ特有のキレのある旋回性能を認め――あるいはそれに惚れ込んで――専用機として未だ愛用している者も少なくない。格闘戦志向の強い熟練にとって、数少なくなったダルタは、いわば「垂涎の的」となっている。
「よく旋回る飛行機が、私は好みだから」と、エルディナはタインの問いに応じた。
「だろうな。若い時分はみんなそうさ。誰だって」
「少佐は、どうだったのですか?」
「旋回ることには、すぐに飽きた」
「……でも、未だに戦闘機に乗り続けていらっしゃいます」
戦闘機を降り、赫々たる戦果を上げた英雄として、本土で悠々とした日常を過ごしてもいい筈なのに――という言葉を少女は、さすがにその胸中に綴じ込める。
「……それは、俺の仕事だからさ」
「……」
言葉を失うエルディナを、このときはじめて省み、タインは笑い掛けた。
さらなる絶句――それを少女が覚えたのは、指導を受ける間、タイン-ドレッドソンが乗り続けることになるゼーベ-ギガを目の当たりにしたときのことだ。
「旧い……」
全くの初期生産型であることぐらい、エルディナには一目ですぐにわかった。もはや本土の訓練航空団にしか存在を許されなくなった旧型機。めっきりと剥げた塗装、初期生産型の低出力発動機が交換されないまま収まった、短さの目立つ機首周り。小振りなプロペラスピナーから延びる幅の狭いプロペラは、その長さ、太さといい何処か心許なさすら少女には感じられた。
心許なさ――少女はそれを感じ、唐突に込み上げてくる苦笑を辛うじてこらえた。
――こんな飛行機で、眼前のこの男は自分を「教育」しようというのだろうか?
――だとすれば、自分は相当にこの男から、軽く見られている?
怒りを通り越し、少女が覚えたのは自嘲――
そのとき――
「空戦たいのか?」
タインの唐突な言葉が、少女を即座に現実へと引き戻す。
エルディナの頷きを背中に感じ、タインは告げた。
「言っておくが――」
「……?」
「――手加減はないぞ」
――現在。
空の上で――
傲慢――
退廃的――
無神経――
初対面で得たそのような先入観が、全くの間違いであることを少女は身を以って知る。
着陸を報せる、爆音の高鳴り――
「……?」
作戦機が列線を形成する駐機上で、部下とともに戦闘機の帰還を待つレグエネン上等整備兵の耳には、それが女性の嗚咽のように感じられた。
「この分だと旦那、またお嬢ちゃんを苛め抜いたな」
「え?」
怪訝な表情を隠さない少年整備兵を他所に続く、レグエネンの独白――
「……全く、空に上がれば手加減無しだから」
低い雲間を縫い、一機の機影が姿を現したのはそのときだった。徐々に飛行場へと近付いてくるそれの、いささか左右に主翼を揺らし気味なのは、上空を奔放に駆け巡る気流の影響のなせる技なのだろうか?
「ちがう……」そう呟いたレグエネンの口元は、苦々しい。
何故なら、彼もまたひとかどの整備士として、ダルタの扱いを心得ていると同時に、その性能の悉くを知り尽くしているから――低空での安定性に優れたダルタが、めったなことで横風の影響を露わにすることなどまずありえない。操縦士が、よほどのヘマをやらかさないかぎり……だ。
「あの嬢ちゃん、よほどトサカに来てるみたいだな」
レグエネンの義眼のレンズは、その見上げた先にエンジン出力を上げ気味に着陸態勢に入るダルタを捉えていた。それは着陸というより着艦だ。馬力に任せて無理やりに機体を下ろそうとしているかのような、およそ飛行機乗りとして好ましからざる振る舞い――主脚に続き、今更ながらに下ろしたフラップの開きも、その大きさ、開くタイミングからして決して好ましいものとはいえない。熟練整備士の鉄の目は、先述のそれらと同時に、機体を駆る少女の内面を揺るがし続ける波浪すら感じ取っている。
果たして――
接地――着陸を意図するにはあまりに大きすぎる速度で行われたそれは、代償としてダルタの機体を激しく動揺させ、二三度バウンドさせる。地上からそのさまを見守る人々の中で、「希少な」ダルタがそのまま機首から地上に突っ込み、転倒しやしないかという恐れを抱いた者は、決してレグエネン一人ではなかった。
派手に土煙を上げ、三点の車輪が全て完全に接地した直後、やはり思い出したように変わるプロペラの回転。同時に勢いを減ずる爆音の轟き。土埃に汚れた機体全身からそれらを醸し出し、駐機場へ滑走を続けながらも、操縦桿を握る少女は今なお胸中を揺らす落胆と屈辱感とに身を任せ続けていた。
キャノピーを開くのと同時に、待機所から一目散に駆け出してくる整備員数名――タイン‐ドレッドソンの指揮する戦闘飛行隊の所属ではない。タインの隊への転属と同時にセルベラが差し向けてきた、その彼らはいわばエルディナの専属整備員と言えた。エルディナを受け入れる直前にこの旨と意図を知らされたとき、さしものタインですら、セルベラに苦言を呈したものである。
「俺の隊の整備が信頼できんというのか?」
「そうは言っていない。エルディナ様と下層民を、なるべく接触させるな、というのが基地司令部の意向だ」
「なるほど……変な病気でもうつされたら困るってわけか」
「……」
タインの毒舌を険しい眼光で封じようとし。セルベラは失敗した。無用と看做した干渉を、眼前の男は徹底して忌み嫌う。
「実を言えば、私とて本意ではない」
「ならば、何故止めさせなかった?」
「貴公なら、なんとか思い切るはずだと、私は思ったからだ」
「おれも買い被られたものだな」
思ってもいないことをセルベラは言い、タインもまた彼女の言葉がそのような種類のものであることを感度っている。
待機所――
紅潮させた頬もそのまま、くすんだ桃色の髪が、熱気に乱れていた。その乱れを直す精神的な余裕すら、少女からはとうの昔に失われている。
肩で風を切る少女に、一斉に集中する空の男たちの視線――
下賎な興味と隔意の無言の発露たるそれらを無視し、少女はなおも待機所の奥まった一角へと歩を刻み続けた。
「来ましたよ、隊長」
グーナの声を聞いても、タインは彼とやりかけのチェス盤から顔を上げることはなかった。ただグーナの不審げな視線のみが、少女を迎える形となっていく。
少女の歩調の荒荒しさを、その耳で感取るのと同時に、タインの口元に自ずと宿る笑み――
「ふうん……」
少女の確固たる歩調が、その実まったくの虚勢であることをタイン‐ドレッドソンは一瞥の内に悟った。それでも、彼はそのような少女の強がりに、何ら配慮を示すべき立場にはない…と彼自身では考えている。
エルディナは、タインのすぐ傍で歩を止めた。
「講評をお願いします」
意思のこもった、強い口調だったが、その一言だけを搾り出すのに、少女の挫けかける精神では、かなりの膂力を必要とした。口調の背後にわずかに顔を覗かせる悲憤、そして少女自身の焦燥した表情から、タインはそれもやはり瞬時に理解したが、それでも、斟酌する必要をタインは感じてはいない。
何故なら――
それが戦闘機乗りとして誰もが潜るべき途であることを、彼は知っているから――
そして、過去の自分もまた――
一瞬こみ上げ掛けた感傷を、タインは胸中で抑え込んだ。そして、エルディナとは目も合わせようともせず、タインは言った。
「お前……向いてないんじゃないか?」
「隊長……!」
声を上げたのは、グーナだった。それすらものともせず、タインはチェス盤へと駒を進める。
「……何故、そう思われるのですか?」
「お前の飛び方には、まるで余裕がない」
「……!?」
「…たったあれくらいで余裕を亡くすようなやつを、前線に出すわけにはいかない」
「余裕を養うための……訓練でしょう?」
「そうだ…だが、お前は訓練で養ったはずの余裕を、飛び上がるたびに悉く使い果たしている――」
「……!」
「無駄なことはしないのが、おれの主義だ。それは空の上でも変わらん」
「では……どうしろと……」
少女の反駁には、もはや湿っぽさすら顕れ始めていた。
「――持てる全力の八割で飛び、そして八割で敵機を撃墜せ。それが出来なきゃ、本物じゃない」
「私は全力で敵機に当たり、これを撃破せよと今まで教えられてきました。それは間違いなのですか?」
「その八割のレベルを上げろと、俺は言っている」
「……」
俯いたまま、そして搾り出すように少女は言った。
「……残りの二割は、どうするのですか?」
「それは……何かあったときのための、貯金みたいなもんだな」
「貯金?」
「そう……貯金だ」
呆気に取られ、エルディナは去った……赴いた時からは一転、一層に憔悴した顔とがっくりと肩を落とした背中を残して……
退出するエルディナを彼女に負けず悲しげな眼差しで見送り、口を開いたのはグーナだった。
「……で、正直なところどうなんです? 隊長」
「腕の方は……悪くはない。おれなんか、あのお嬢ちゃんと同年齢の頃は練習生ですらなかった」
「まさか……それであの娘に僻んでおられるのですか?」
「おれがそこまで、狭量な人間に見えるか?」
駒を進めつつ、タインはグーナを睨むようにした。大して険しさを篭めたわけではないのに、その硬い眼光には、グーナのような歴戦の勇士でも怯まざるを得ない。それが、タイン‐ドレッドソンという男だった。
沈黙するグーナから目を逸らし、タインは続けた。
「……あの嬢ちゃんは、気に食わん」
「え……?」
「あいつは、まるで自分の死期が迫ったかのような飛び方をする。力を抜くべきところで力を抜かない。飛ぶことに一生懸命なあまり、周りが見えていない…本当に追い込まれたときなら兎も角、それが実戦ではいかに危険なことか、判らんお前じゃあるまい」
「それは…新人なら誰でも同じでしょう?」
「あの嬢ちゃんの必死さは、図抜けて違う。あれは死に急ぐやつの飛び方だ。まともじゃない」
「向いてない…と仰ったのは、そのためだったのですか」
「おれは、生き残るのに最適と思える未来を、あの嬢ちゃんのために示してやったまでさ。飛ばないというのも、戦闘機乗りが生き残るための一つの手段だと俺は思っている」
「極端ですね。隊長は」
グーナの驚愕を確かめるかのように、タインは彼を睨むようにした。
「ところで……」
「……?」
「……もうチェックメイトなんだが、判らなかったか?」
「あれ!?」
勝負の決まった盤を前に愕然とするグーナを尻目に、タインは腰を上げ待機所をあとにする――
タインの足はそのまま駐機場へと向かい、そこでは彼の忠実な整備兵が、ゼーべ‐ギガの整備に取りかかっていた。
「――まったく、ギガ‐アールは整備がしにくくていけねえ」
そうぼやいたところで、レグエネン上等整備兵は背後で歩を止めた人影を、その丸っこい背中に感じ取った。果たして、振り向いた先では彼の隻眼の撃墜王が、静かな笑みをその口元に湛えている。自らの主を振り返れらぬまま、エンジン配管を弄くる手を止め、レグエネンは言った。
「久しぶりのゼーべ‐ギガの乗り心地は如何です?」
「悪くはない」
「何なら、乗り換えますか?」
「そうするかな……」
「まさか、本気で?」
「冗談だ」
レグエネンはがはははと笑った。口から除いた黄ばんだ、太い歯が、不健康さの上に元来の豪放磊落さを多分に主張しているかのようであった。その笑いから一転し、レグエネンの口調は、次には落ち着いたものとなる。
「あのお嬢ちゃん、そっくりですなあ」
「誰に?」
「若い頃の隊長に」
「酒でも入っているのかレグエネン。何を言い出すかと思えば……」
そこまで言いかけて、語を次ぐのにタインは失敗した。この男は、人物や内面に関し、時たま核心を突くことを、しかも平然と言ってのける。そんなタインの微かな驚愕を見透かし、そして受け容れながら、レグエネンは続けた。
「はにかみ屋なところも、多分そっくりでしょうぜ」
「だがおれは、立派な家の生まれじゃないし、それにあれのような自殺志願者でもない。はっきり言って、似ているようで似ていない」
「ちょっと小耳に挟んだんですがねえ、あの嬢ちゃん、実は相当に不幸な生い立ちのようで――」
「……」
――タインは、このとき初めて少女の身上を知った。
普段は他人の事情など、塵ほども斟酌しないタインが、沈黙を以って話を促したのは、レグエネンにとって意外ではあった。だが話を聞いた後のタインは、レグエネンにとって何時もの隊長以上でも以下でも、またないように見えた。
タインは言った。
「――話をする相手を間違えたなレグエネン。どうしておれが家出少女に世話を焼かにゃあいかんのだ」
「家出少女ですか…なるほど、それは言い得て妙ですなあ」
「どんな生い立ちを背負っていようが、大多数の人間にとって、軍人は死んでしまったらただの数でしかない。おれやお前もそうだろう?」
「隊長、人情がねえなあ…」
「ふん……」
軽く鼻で息をし、タインは隣接する格納庫を見遣った。半分ほど扉を閉められたその薄暗い内部では、彼の真の愛機が、その雄々しい銀翼を休めている。ミトラで飛ばない日が、ここ数日続いている。
「ジャグル‐ミトラは、見てやってくれているか?」
「そりゃあもう……寝る前には必ず点検を」
「あの野犬どもに火でも点けられんよう、見張っておけ」
「旦那、あいつらなら……」
黒狼三人衆は「特殊任務」を与えられ、巡洋艦に便乗しとっくに他空域に出払っているようだ……とレグエネンは言った。
「雌虎の差し金が?」
「さあ、どうでしょうかねえ……」
上空――
おそらくは訓練であろうか、ニーレ‐ダロム攻撃機の四機編隊が、その腹に対艦空雷を抱え慌しく飛び上がっていく――
夜――
泣きたいときには、温水の奔流に肉体を委ねるのがいい――それが少女の流儀だった。
官舎に戻り、たっぷりとシャワーを浴びた直後には、少女の心身の疲労は極に達していた。始終風呂上りの体に、物欲しげに付きまとうワーグネルには目もくれず、エルディナは上下の肌着一枚のまま、前からベッドに倒れ込む――
「……」
決して豊かとは言えない胸、その震央から込み上げて来る挫折感に、少女は倒れながらに震えて絶えていた。基より望んで選んだ途である筈なのに、この虚しさ、そして悔しさは何なのだろう…?
「…タイン-ドレッドソン」
声にならない声で、エルディナは当面の自身の師の名を口走った。
荒くれ者同然の操縦士たちを一身に纏め上げ、地上では常に不敵な笑みを絶やさないあの男は、一度空に上がれば旧型の機体をさも万能の翼の如くに使いこなし、新鋭機を駆る少女を圧倒する。少女はその圧倒的な空戦技に抗う間も与えられないまま、飛び上がるたびに敗北を強いられている。
そして――
この日ほど、あの男の顔が憎らしく、嫌らしいと思えたことはなかった。
少女は、自分の無力をすでに知った。
そして少女は、自分の無力を如何にして払拭するのかをまだ学んではいなかった。
自ずと芽生えてくる問い――一体どうすれば…どうすれば、自分はあの男と対等に戦えるのだろう?
一体どうすれば…自分はあの男と、対等な立場で話が出来るのだろう?
あの男と…対等に話をする?――
そのことに思い当たった瞬間、少女の脳裏に去来したのは失笑――
次第に体中を覆うまどろみに身を委ねつつ、少女は考えつづける――
対等に話ができたところで、何になる――?
社会的な立場は、こちらが圧倒的に勝る筈――対等に話が出来るよう努力せねばならないのは、彼の方ではないのか?
私は何故、彼に譲らねばならないのだろう?
全てが判らなくなりかけたそのとき、少女の許を来客が訪れた。
バネのように立ち上がった愛犬の唸り声に、少女の意識は覚醒し、少女は状況の只ならぬことを瞬時のうちに知った。来客はエルディナが驚愕を覚える間も無いほどの迅速さで少女の部屋に踏み込み、それが手荒な対処に慣れぬ少女を驚愕させる。
「……!」
軍警の姿を借りたそれらは、少女にとって招かれざる客――彼等の一群から進み出た指揮官と思しき曹長が、殆ど半裸の状態の少女に背を但し、そして厳かに告げた。
「エルディナ‐リステール‐リエターノ少佐。国防軍軍規第137条、命令文書偽造の疑いにより、基地司令部より出頭命令が出ております。速やかに用意を整え、我々とご同道頂きたい」
愕然――こんなに早く、ことが露見するとは……!
この地に赴く前から秘めていた目論見と計画、少女はこのとき、それらの無残なまでの破綻を思った――
「――リエターノ少佐をお連れしました」
およそ軍規に触れた者にふさわしからざる丁重さを以って、衛兵指揮官とその部下らが連行――否、彼等に出頭させたエルディナに向けるべき眼差しを、執務室の机から腰すら上げようともしない「雌虎」セルベラ‐ティルト‐ブルガスカ大佐は、とうの昔に眼前の少女に対する敬意はおろか関心すら捨て去ってしまったかのようだ。エルディナにとって辛うじて救いであったのは、眼前の女性がエルディナの立場の急転に対し、これまでの厚遇から一転して掌を返すでもなく、むしろ終始無感動を貫いたという、ただ一点であったかもしれない。
……だが、執務机の前に立った少女に視線を注ぐでもなく、決裁中の書類にそれを注いだままにセルベラは言った。あたかも生徒の犯した過失にうんざりとした女教師のように――
「お伺いしますが、今次の赴任は、誰の命令によるものですか?」
「それは…」
「誰も…あなたに赴任を命令してはいませんね?」
「……」
少女の醸し出す重い沈黙を確かめるかのように、セルベラは始めて顔を上げた。少女は自由とそれ以外のものを欲し、それ故に命令書偽造という重罪を侵して最果ての前線まで来た…だが、それはセルベラをはじめ、前線基地司令部の斟酌するべきことではなかった。
「例え高貴な出であるとはいえ、統帥の根本を犯すが如き行為は慎まれるべきです…他の将兵に対する示しが付きません」
「しかし大佐、私は純然たる同盟への忠誠心から……!」
「命令を偽造し軍規を犯した以上、貴公には、愛国だの忠誠だのを議論する資格はとうにない」
強い口調ではなかったが、ウイスキーグラスを滑り落ちる氷塊の響きのようなセルベラの声は、少女を地獄へ赴く亡者のように戦慄させた。そして、言葉を失いそして俯く少女を、その灰色の眼光で捉えつつに、セルベラは言った。
「本国に連絡し、貴公の召還命令を出して頂きます」
「……」
少女の死に瀕したかのような沈黙が、セルベラに言葉を刻ませたかのようだった。
「航空便を用意させましょう。貴公にはそれに便乗いただき、本国へ戻って頂きたい」
「私の機は……ダルタはどうなるの?」
「あなたの操縦資格は、本官の権限を以って今日付けで停止します」
「そんな……!」
絶句する少女を無視するかのように、セルベラは再び決裁中の書類に視線を落とした。自分が彼女の関心の対象ではなくなったことを、エルディナは痛切なまでに知った。
「航空便の手配が済むまで、貴公には謹慎を命じます。以上」
「私だって、十分に働けます」
「下がりなさい。軍規を乱す者に、これ以上愛国だの忠誠だのを語られるのは、迷惑千万です」
「……!」
瞼に溢れてくる熱く、悲しい何か――
少女がそれに抗いきれずに嗚咽を漏らしかけたそのとき――
「当直をすっぽかして、こんなところで何をしている?」
「……!?」
この場で聞くことすら想像も出来なかった声を背後に聞き、エルディナは顔を上げた。そしてそれまで無感動に執務机に向かっていたセルベラの反応もまた、少女には以外だった静謐な内にも明らかな怒りを込め、セルベラは言った。
「事はすでに貴公の手を離れた。去れ」
「手を離した覚えは、おれにはない」
「……?」エルディナの驚愕から、タインは超然としている。
「……自分が何を言っているのかさえ、判らぬほどに耄碌したか? タイン‐ドレッドソン」
「おれは少なくとも、この基地にいる誰よりもまともなつもりだがな」
「では、未だ理性とやらが残っているのなら、今すぐにここから消えろ。それが貴公の身のためだ」
「その娘の上官はあんたじゃない。俺だ」
「では上官らしく、部下の不始末の責任を取るのだな」
「少なくともあんた以外、その娘の不始末とやらに困っている人間は誰もいない」
「……」
セルベラの沈黙――それが少女を威圧した先刻とは、まるで趣の違うものであることを、エルディナは悟った。上官の沈黙を放置する様に、タインは歩き出した。恐る恐る省みた先で、執務室の入り口に凭れ掛かったタインが、外に出るよう顎をしゃくる。自分がこの男に救われたことを、少女は知った。
司令部を出、帰路を歩く間、タインは一言も発しなかった。その背後から数歩を置いて付き従いながら、エルディナは純粋なまでの驚愕に身を任せ続けていた。
「何故…助けたの?」
タインの歩みが、止まった。
「……」
「何故…私を助けたの?」
「勘違いするな…俺は雌虎のやり方が気に食わんだけだ。他意はない」
「あなたたち、まるで……古い恋人同士みたい」
「……」
そのとき始めて、タインはエルディナを顧みた。顧みた肩越しに煌く義眼に、少女は先を行く男が戸惑いにも似た感情を宿していることに気付いた。その直後に少女が抱いた気まずさ――それを取り繕う必要を、少女の瑞々しい感性は感じ取る。
「ありがとう」
「何……?」
「だから……助けてくれてありがとう」
「気が済んだら、宿舎に帰れよ……」
「え……?」
「子供は寝る時間だろうが」
「あなたは……これからどうするの?」
「飲み直す」
「……そう」
「明日も飛ぶ。身体を休めておけ」
「はい……」
タインは歩き出した。先を歩く男を、これ以上追ってはいけないことを、エルディナは知っていた。そのとき、またタインの足が止まった。
「風邪をひくぞ。風呂上りで夜歩きは余りいただけないな」
「……!」
少女の頬が朱に染まる。エルディナの羞恥を他所に、タインはまた歩き出した。そして彼が立ち止まることはもはや無かった。
満天の星空の広がる下、タナトに再び眠らない夜が廻って来る――




