第9話 流民
あの日の炎を
俺は一度も忘れたことがない。
王国の兵が村に来たのは
秋の収穫祭の翌朝だった。
前の晩は村中で歌い、踊り
森で採れた木の実の酒を酌み交わした。
辺境の集落だったが
俺たちにとってはそこが世界の全てだった。
目を覚ましたのは悲鳴のせいだ。
家を飛び出すと
村の入口から武装した人間の兵が
列をなして押し入ってくるのが見えた。
先頭の騎馬が松明を振り上げ
手前の家に火を放った。
「逃げろ!」
隣の家から飛び出してきたのはあいつだった。
俺と同い歳で頭ひとつ分背の高い幼馴染。
同じ緑の肌に厳めしく曲がった角を持つ同族で
物心ついた頃からずっと一緒にいた。
あいつが俺の腕を掴んだ。
俺は足がすくんで動けなかった。
村の広場に仲間が引きずり出されていた。
長老が何か叫んでいた。
兵が剣を振り下ろすのが見えた——
そこから先は見ていない。
あいつが俺の頭を押さえて
裏山への道を走り出していたからだ。
走りながら
背後で何度も悲鳴が聞こえたが
やがてそれも途切れた。
裏山の洞穴に辿り着いた時
俺たちのほかに逃げ延びた者は
二百人ほどだった。
集落には千五百の同胞が暮らしていた。
「戻らないと」
誰かが言った。
年嵩の女だった。
声が震えていた。
「だめです、戻ったら殺される」
あいつが言った。
その声に震えはなかった。
ただ目だけが
暗い洞穴の中で悲しく光っていた。
俺は岩陰から村のあった方角を見下ろした。
赤い炎が夜の底を照らしていた。
俺が生まれた家も
あいつと遊んだ川辺の大木も
長老が祈りを捧げていた祠も
すべてが燃えていた。
理由はわかっていた。
王国は昔から俺たちを嫌っていた。
緑の肌。額から伸びる角。
人間とは違う見た目を持つ俺たちの一族は
辺境に追いやられてひっそり暮らしていた。
人間の街に近づかず
税を取り立てられても従い
できる限り静かに生きてきた。
それでも足りなかったということだ。
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「東に行こう」
あいつがそう言ったのは
洞穴で二晩を明かした翌朝だった。
「東には共和国がある。
色んな種族が暮らしている国だと
長老が言っていた」
エルフ、ドワーフなど
様々な亜人が人間と共に暮らす
多民族の国だと。
「あそこなら俺たちも受け入れてもらえるかもしれない」
あいつの目には迷いがなかった。
生き残った者たちの顔を
一人ひとり見回して言った。
「ここにいても王国の兵がまた来る。
西と北は王国の領内だ。
南は山脈で越えられない。
東に行くしかない」
異論はなかった。
というより
他に選択肢がなかった。
七日かけて山を越えた。
王国の巡回兵を避けるために
獣道ばかりを選んで歩いた。
食料は山で採れる木の根と
運良く罠にかかった兎だけだった。
二百人の列は山中で日ごとに縮んでいった。
まず足を引きずる者が遅れ始めた。
焼き討ちで火傷を負った者や
逃げる途中で兵に斬りつけられた者も脱落していった。
手当てする薬もなく、傷口が膿んで熱を出し
そのまま動けなくなる者が相次いだ。
三日目に老人が数人まとめて倒れた。
衰弱だった。
埋葬する時間も余裕もなく
せめてと石を積んで先を急いだ。
五日目。
崖沿いの細い道で落石が起きた。
列の後方を歩いていた何人かが巻き込まれ
助けに降りることもできない谷底へ落ちていった。
あいつは崖の縁に立ち尽くし
しばらく動かなかった。
七日目。
ようやく国境の峠が見えた頃には
誰ひとり口を開く力も残っていなかった。
国境を越えた時
百八十人ほどが残っていた。
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共和国の国境に近い街は
王国の辺境とはまるで違う賑わいだった。
石畳の大通りを
様々な姿の者たちが行き交っている。
尖った耳のエルフが露店で果物を選び
がっしりした体躯のドワーフが
鍛冶場から金属を打つ音を響かせている。
獣の耳と尾を持つ獣人の子供たちが
人間の子供と一緒に走り回っていた。
「すごいな」
俺は思わず声を漏らした。
こんな光景は見たことがなかった。
人間と亜人が同じ通りを歩いている。
殴られもせず、石も投げられず
ただ当たり前のように隣り合って暮らしている。
「ここなら大丈夫だ」
誰かが後ろで安堵の声を上げた。
俺もそう思った。
だが——
街に足を踏み入れた途端
空気が変わった。
通りを歩く者たちの視線が
俺たちに集まった。
獣人の商人が目を逸らし
人間の女が子供の手を引いて足早に去った。
エルフの男がこちらを一瞥して
露骨に顔をしかめた。
緑の肌。額の角。
俺たちの姿を見て
人々の表情が凍りついていくのがわかった。
「あの、すみません」
あいつが近くの商人に声をかけた。
「俺たちは西の辺境から来ました。
王国に村を焼かれて逃げてきたんです。
この街で暮らすにはどこに届け出ればいいでしょうか」
商人は——ドワーフだった——
一歩後ずさりしてから
気まずそうに目を伏せた。
「あんたら……魔族か」
「魔族? いや、俺たちは——」
「角が生えてるだろう。肌も緑だ。
ここでは魔族って呼ばれるよ、あんたらみたいなのは」
魔族。
初めて聞く呼び名だった。
俺たちは自分たちの一族をそんな風に呼んだことはない。
「悪いことは言わない。
この街にはいない方がいい」
ドワーフは声をひそめた。
「俺も亜人だからわかるんだ。
この国は確かにいろんな種族を受け入れてる。
だがな、限度ってものがある」
「限度?」
「エルフやドワーフは見慣れてるからいい。
だがあんたらみたいな……その、見た目が
人間と離れすぎてる種族は話が違う。
魔物と区別がつかないって言われるんだ」
あいつは黙って聞いていた。
表情は変わらなかったが
拳がかすかに握られていたのを俺は見ていた。
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ドワーフの忠告を無視して
俺たちは街の役所に向かった。
受付の役人は人間の中年男だった。
俺たちの姿を見た瞬間
明らかに怯えた顔をしたが
それでも職務として対応はしてくれた。
「王国での迫害を逃れてきたと」
「ああ。集落を焼かれた。
千五百人いた同胞のうち
逃げ延びたのは二百人足らずだ」
あいつが淡々と述べる。
役人は書類に何かを書き付けながら
ちらちらと俺たちの角を見ていた。
「……お気の毒ですが
現時点で居住許可を出すのは難しい。
まず身元の確認が——」
「身元を証明するものは全て焼けた」
「であれば保証人が——」
「知り合いはいない。
俺たちは今日初めてこの国に来た」
役人は困った顔で上司を呼んだ。
上司も困った顔で更に上を呼んだ。
最終的に出てきた白髪の管理官は
俺たちをじっと見てこう言った。
「共和国は亜人を広く受け入れている。
だがそれは秩序の中での話だ。
身元不明で保証人もいない集団を
住民の不安を押してまで受け入れる余裕は
今のこの街にはない」
「俺たちはただ住む場所が欲しいだけだ」
あいつが言った。
「ここがだめなら他の街でもいい。
畑でも鉱山でも何でも働く。
子供と年寄りがいるんだ」
管理官は目を伏せた。
良心の呵責がないわけではなさそうだった。
だがその答えは変わらなかった。
「……南の街にも問い合わせてみるが
期待はしないでほしい。
率直に言えば、どの街も同じ答えだろう」
その夜、俺たちは街の外の野原で夜を明かした。
焚き火を囲んで誰も口を開かなかった。
子供たちは疲れて眠っていたが
大人たちは誰ひとり眠れなかった。
「なあ」
俺はあいつの隣に座って言った。
「この国もだめなのか」
あいつは膝を抱えて火を見つめていた。
「……あのドワーフの言った通りだったな」
「エルフはよくてドワーフもよくて
俺たちはだめか。
何が違うんだ」
「見た目だろう」
あいつは静かに言った。
「耳が尖ってるくらいなら人間も許せる。
背が低くて頑丈なくらいでも許せる。
だが肌の色が違って角が生えてると
魔物に見えるんだとさ」
その声に怒りはなかった。
あるいは、怒る気力すらなかったのかもしれない。
「この世界に俺たちの居場所はないのかもな」
俺がそう言うと
あいつは首を振った。
「ないなら作る」
「作るって——どうやって」
あいつは東の方角を見た。
夜の闇の向こうに
黒々とした森の稜線が広がっている。
「魔獣の森か」
「人間も亜人も近づかない場所だ。
追い出されることはない」
「正気か。
あの森に入って生きて出てきた奴はいないって
旅人が言っていたぞ」
「出てくるつもりはない。
あそこに住むんだ」
あいつの目は本気だった。
炎に照らされたその顔を見て
俺は言葉を飲み込んだ。
その顔に浮かんでいたのは冗談でも虚勢でもない。
あいつはこの時すでに覚悟を決めていた。
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魔獣の森は
噂に違わぬ地獄だった。
足を踏み入れた初日に
巨大な蟲の群れに襲われた。
「固まって!子供を真ん中に!」
あいつが叫び
動ける者たちが武器になるものを手に取った。
木の枝。石。拾った骨。
まともな武器など一つもなかった。
十数人がやられた。
蟲を追い払った時には
もう手遅れだった。
「……くそ」
俺は血まみれの手で拳を握った。
ここまで生き延びた仲間だ。
集落の焼き討ちを逃れ、七日の山越えを耐えて
共和国に拒まれてなお歩き続けた仲間が
こんな森の蟲に殺された。
あいつは死んだ仲間の前に膝をつき
額を地につけた。
そのまま少しの間動かなかったが
顔を上げた時その目に涙はなかった。
「進もう。
もっと奥に入れば蟲の縄張りから出られるかもしれない」
二日目。
森の奥から低い唸り声が響き
木々の間を巨大な四足の獣が横切った。
俺たちは息を殺して岩陰に隠れ
獣が去るのを待った。
三日目。
毒のある花の群生地に踏み込んでしまい
十人近くが高熱を出した。
手の施しようもなく
そのうち何人かは夜を越せなかった。
四日目。
川を見つけた。
澄んだ水が岩の間を流れ
周囲には魔獣の気配が薄かった。
川沿いの岩壁に
雨風をしのげそうな大きな洞窟があった。
「ここにしよう」
あいつが言った。
俺たちは百五十人ほどになっていた。
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あの洞窟で過ごした最初の夜を
俺はよく覚えている。
焚き火を囲んで座る仲間たちの顔は
疲弊しきっていた。
誰もが傷を負い
誰もが誰かを失っていた。
「本当にここでやっていけるのか」
年嵩の男が呟いた。
腕に蟲に噛まれた痕が生々しく残っている。
「水はある。
森には果実も木の根もある。
魔獣さえ気をつければ
死ぬことはない」
あいつは穏やかな声で答えた。
「王国では殺される。
共和国では追い出される。
だがこの森には
俺たちを追い出す奴はいない」
「代わりに食い殺す獣がいるがな」
俺が言うと
あいつは少しだけ笑った。
この逃避行の間で
あいつが笑ったのはこれが初めてだった。
「獣は俺たちを憎んで襲うわけじゃない。
腹が減ってるだけだ。
憎しみで殺しに来る人間より
よほど付き合い方がわかる」
誰も笑わなかった。
だがその言葉には妙な説得力があった。
俺は洞窟の入口から外を見た。
木々の隙間から星が見えていた。
森の奥で何かの獣が遠吠えをしている。
故郷は焼かれた。
共和国には拒まれた。
二百人いた仲間は百五十人に減った。
だが——
生きている。
俺たちはまだ生きている。
そしてここには
俺たちを殺しにくる人間の兵はいない。
あいつが俺の隣に座った。
「なあ」
幼馴染の声だった。
魔王でも指導者でもない
あの村で一緒に川で魚を追いかけた頃の声。
「悪かったな。
俺がもっとうまくやれたら
こんなところまで来なくて済んだ」
「馬鹿言え」
俺は即座に返した。
「お前がいなかったら
あの村で全員死んでたよ」
あいつは何も言わなかった。
しばらく黙って星を見上げていた。
「……ここを私たちの場所にしよう」
やがてあいつは呟いた。
「誰にも追い出されない
私たちの場所にするんだ」
それは誓いだった。
故郷を奪われ
どこにも受け入れられなかった俺たちが
人の踏み入らぬ魔獣の森の奥で立てた
静かな誓い。
俺は隣に座る幼馴染の横顔を見た。
焚き火に照らされた緑の肌と
闇に浮かぶ角の輪郭。
こいつとならやれるだろうと
俺はなぜかそう思った。
根拠はない。
ただ一緒に走って逃げて
一緒に山を越えてここまで辿り着いた。
それだけで十分だった。
「俺も手伝うよ」
あいつが振り返った。
暗がりの中であいつの目がかすかに光っていた。
俺は村が焼かれた夜に逃げ込んだ
洞穴の中で見た幼馴染の目を思い出していた。
「お前ならそう言ってくれると思ったよ」
それが
後に魔王国と呼ばれることになる国の
始まりだった。




