第2話「朽ちた温室と微かな温もり」
重苦しい沈黙が、部屋に充満している。
窓から差し込む光の角度が変わるのを見て、ノアは一日が経過したことを悟った。
食事は与えられていない。
空腹は限界に達し、胃液が喉の奥を焼くような感覚がある。
扉には鍵がかかっていない。
しかしこの広大な城から逃げ出せるはずもなく、ノアは部屋の中に閉じ籠っていた。
いつアルカディアが現れ、自分を喰らうのか。
その恐怖が、飢えよりも強くノアの足を縛り付けている。
だが、二日目の夜が明けても、王は姿を見せなかった。
放置されている。
その事実に気づき始めた時、恐怖よりも焦燥が勝り始めた。
生贄として捧げられながら、ただ飢え死にするのを待つのか。
ノアは重い身体を引きずり、扉のノブに手をかけた。
冷たい真鍮の感触だ。
ゆっくりと回し、回廊へと足を踏み出す。
静寂。
自分の呼吸音さえも異音に感じるほどの静けさだ。
石造りの壁は冷たく、指先で触れると微かに湿気を帯びていた。
当てもなく、ノアは広大な城内を彷徨い始めた。
埃をかぶった甲冑。
色褪せたタペストリー。
全てが何百年も時を止めたまま、朽ちていくのを待っているかのようだ。
ふと、廊下の突き当たりに、ガラス張りの大きな扉を見つけた。
他の扉とは違う、植物の意匠が施された美しい鉄格子がはまっている。
引き寄せられるように近づき、隙間から中を覗き込んだ。
視界に飛び込んできたのは、広大な温室だった。
しかし、そこに生命の息吹はない。
ガラスの天井はところどころ割れ、外の冷気が入り込んでいる。
かつては美しく咲き誇っていたであろう花々は、完全に干からびて茶色く変色し、土に還る寸前だった。
枯れた蔓が、支柱に虚しく絡みついている。
ノアは扉を押し開け、中へ入った。
乾いた土の匂いが鼻腔を突く。
足元で、枯れ葉がカサリと音を立てて砕けた。
部屋の隅に、錆びついたジョウロと、柄の折れたスコップが転がっている。
ノアはゆっくりと歩き回り、干からびた土の表面を指で撫でた。
冷たく、硬い。
命の欠片もない土壌だ。
しかし、部屋の中央にある大きなプランターの奥で、ノアは微かな緑色を見つけた。
枯草の山を慎重に取り除くと、そこには一本の細い茎が、かろうじて土にしがみつくように生えていた。
葉は萎れ、先端は茶色く変色しているが、確かに生きている。
ノアの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
自分と同じだ。
死を待つだけのこの場所で、それでも生きようと足掻いている。
気がつけば、ノアは錆びたジョウロを手に取っていた。
水を探さなければならない。
温室の奥にある小さな扉を開けると、そこは荒れ果てた中庭へと繋がっていた。
石造りの水汲み場があり、蛇口を捻ると、赤錆混じりの水が細々と流れ出した。
ジョウロに水を満たす。
その重みが、なぜか心地よかった。
温室に戻り、乾ききった土にゆっくりと水を注ぐ。
水は弾かれ、なかなか染み込んでいかない。
ノアは土を指でほぐし、空気を入れ込むように慎重に作業を続けた。
土で指先が汚れ、爪の間に泥が入り込む。
しかし、その冷たい泥の感触が、自分が生きていることを実感させてくれた。
空腹も、恐怖も、土に触れている間だけは忘れられた。
柄の折れたスコップの先を使い、硬い土を少しずつ耕していく。
額に滲んだ汗を手の甲で拭う。
植物の世話は、村でもノアの仕事だった。
誰からも顧みられないΩの少年が、唯一心を通わせられるのが、言葉を持たない植物たちだったのだ。
作業に没頭するうち、窓の外はすっかり暗くなっていた。
土に十分な水分が染み渡り、細い茎が少しだけ立ち上がったように見える。
ノアは満足げに息を吐き、泥だらけの手をズボンで拭った。
その時。
背後に、冷たい気配を感じた。
心臓が早鐘のように打ち始める。
振り向くことができない。
背中の産毛が逆立ち、圧倒的な威圧感がノアを包み込んでいた。
アルカディアだ。
足音も立てず、いつの間にか温室の入り口に立っていた。
月光を背に受け、その表情は暗く沈んで見えない。
ただ、冷徹な赤い瞳だけが、ノアを射抜いている。
殺される。
ノアは身をすくませ、硬く目を閉じた。
靴音が、ゆっくりと近づいてくる。
逃げ場のない温室の中で、ノアはただ震えることしかできなかった。
足音が、ノアのすぐ背後で止まった。
氷のようなアルカディアの体温を、背中に感じるほど近い。
「何をしている」
低く、抑揚のない声。
怒りでもなく、呆れでもない。
ただの事実確認のような響きだった。
ノアは恐る恐る振り返り、土のついた両手を隠すように後ろに回した。
「……花に、水を」
掠れた声が、乾いた空気に溶ける。
アルカディアの視線が、ノアから足元のプランターへと移った。
微かに息を吹き返した小さな緑色の茎。
アルカディアはしばらくそれを見つめていた。
永遠とも思える沈黙。
やがて、アルカディアは短く息を吐いた。
「無駄な真似を」
冷たく吐き捨てると、アルカディアは身を翻した。
漆黒のマントが弧を描き、暗闇の中へと消えていく。
ノアは、膝から崩れ落ちた。
深く息を吸い込み、乱れた呼吸を整える。
無駄な真似。
その言葉が、ノアの胸に重くのしかかった。
確かに、この光の届かない城で植物を育てるなど、無意味かもしれない。
それでも、ノアは諦めることができなかった。
見捨てられた命に、自分の姿を重ねていたからだ。
◆ ◆ ◆
翌日も、ノアは温室に通った。
城の厨房を見つけ、干し肉と硬いパンで飢えをしのぎながら、大半の時間を土いじりに費やした。
土を耕し、水をやり、枯れた葉を取り除く。
その単調な作業の繰り返しが、ノアの心をわずかに平穏に保っていた。
数日が過ぎた。
細い茎は少しずつ太さを増し、新しい葉を広げ始めた。
それは微かではあるが確かな生命の輝きだった。
ノアの指先には土が染み付き、洗っても落ちなくなっていた。
アルカディアは、あれ以来姿を見せない。
生贄としての役割を放棄されたのか。
それとも、血を吸う価値すらないと見なされたのか。
不安と安堵が入り交じる中、ノアはただ植物との静かな時間を過ごしていた。




