第1話「冷たい月光と絶対者」
登場人物紹介
◇ノア
暗い森の奥の村から生贄として捧げられたΩの青年。
絶望の淵にありながらも、微かな生への執着と強い芯を隠し持つ。
恐怖に耐えながらも、アルカディアの瞳の奥にある孤独に触れ、次第に彼を理解しようと距離を詰めていく。
◇アルカディア
数百年を生きる吸血鬼の王。
圧倒的な力と威圧感を持つα。
永遠の命と引き換えに感情を摩耗させ、ただ静かな絶望の中で生きている。
冷酷に見えるが、本質は不器用で、ノアに対しては深い優しさを垣間見せる。
鋭い冷気が皮膚を容赦なく突き刺す。
枯れ葉の沈む重い音が、深夜の森に等間隔で響いていた。
ノアの細い手首には、分厚い麻縄が深く食い込んでいる。
背中を乱暴に突かれ、ぬかるんだ土の上を這うように歩かされた。
視界を覆うのは、黒々と枝を広げた広葉樹の群れだ。
木々の隙間から、青白い月光が鋭い刃のように差し込んでいる。
吐き出す息は白く濁り、夜闇の中へ溶けて消えた。
血の滲んだ裸足が、鋭い石の角を踏みつける。
痛覚はとうの昔に麻痺していた。
ただ、胃の腑を握り潰されるような恐怖だけが、腹の底で冷たくとぐろを巻いている。
背後を歩く村の男たちは、誰一人として言葉を発しない。
松明の炎が風に煽られ、彼らの無表情な顔を不気味に照らし出している。
生贄の儀式。
それは数百年もの間、この村が生き延びるために守り続けてきた残酷な契約だった。
森の奥深くに君臨する吸血鬼の王へ、若く美しいΩの命を捧げる。
その対価として、村は外敵からの庇護と、細々とした安寧を約束される。
孤児であったノアが選ばれたのは、必然だった。
誰にも庇われることなく、ただΩという特異な性を持って生まれたがゆえの結末だ。
微かな土の匂いが、夜露に濡れて濃密に漂ってくる。
あと少しで、自分の命は終わる。
実感のないまま、ノアはただ機械的に足を動かし続けた。
◆ ◆ ◆
やがて、視界が開けた。
切り立った崖の縁に、巨大な建造物がそびえ立っている。
天を突く尖塔、月光を反射して青白く光る石積みの壁。
荒涼とした古城は、まるで巨大な墓標のように森を見下ろしていた。
門前に着くと、男たちは無言のままノアの縄を解いた。
そして逃げるように背を向け、暗い森の奥へと走り去っていく。
残されたのは、圧倒的な静寂と冷たい夜風だけだった。
錆びついた鉄格子の門が、重々しい音を立ててひとりでに開く。
招かれている。
ノアは息を呑み、震える足を踏み出した。
敷地内に足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。
森の冷気とは違う、骨の髄まで凍りつくような死の気配だ。
石畳を歩く己の足音だけが、異様に大きく鼓膜を叩く。
広大な中庭には、枯れ果てた噴水と、首の落ちた石像が立ち並んでいる。
正面の巨大な樫の扉が、音もなく内側へ開いた。
真っ暗なエントランスホールに吸い込まれるように、ノアは足を踏み入れる。
高い天井から吊るされたシャンデリアは、埃をかぶって久しく光を失っていた。
大理石の床に、月光が四角く切り取られて落ちている。
その光の奥、大階段の中腹に、一つの影が立っていた。
ノアの呼吸が浅く凍りつく。
暗闇の中で、一対の赤い瞳が冷たく光を放っていた。
長身のシルエットが、音もなく階段を下りてくる。
足音が全くしない。
まるで重力が存在しないかのように、滑らかな動きだった。
男の姿が、月光の下に晒される。
色素の薄い銀色の髪が、夜風に微かに揺れた。
透き通るように白い肌は、血の通った人間のそれではない。
彫刻のように整った顔立ちは、一切の感情を欠き、冷酷な美しさを放っていた。
吸血鬼の王、アルカディア。
その名が、ノアの脳裏で恐怖と共に響き渡る。
次の瞬間、途方もない重圧がノアの全身を叩き潰した。
空気が密度を増し、呼吸ができない。
膝が震え、立っていることすら困難になる。
これが、絶対的なαの威圧感だ。
Ωであるノアの本能が警鐘を鳴らし、服従を強いている。
喉が引きつり、声が出ない。
ノアは床に崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、男を見上げた。
アルカディアは、ただ静かにノアを見下ろしている。
その視線には、飢えも、欲望も、哀れみすらも存在しなかった。
ただ路傍の石を見つめるような、無機質な冷たさだけがある。
「お前が、今代の供物か」
静かな声だった。
しかしそれは地を這うように響き、ノアの鼓膜を直接震わせた。
微かな埃の匂いに混じって、冷たい氷のような香りがノアの鼻腔をくすぐる。
アルカディアの放つフェロモンだ。
それだけで、ノアの身体の奥深くが微かに疼いた。
「……はい」
掠れた声で、ノアはようやくそれだけを絞り出した。
アルカディアは一瞥もくれず、背を向けた。
「ついて来い」
漆黒のマントが翻る。
ノアは震える足に鞭を打ち、冷たい石畳の上を歩き出した。
王の背中は果てしなく遠く、そして途方もなく孤独に見えた。
◆ ◆ ◆
回廊を歩く間、すれ違う者は一人もいない。
壁に掛けられた古い肖像画が、静かにノアを見下ろしている。
やがて、アルカディアは一つの扉の前で立ち止まった。
真鍮のノブを回し、扉を押し開ける。
「ここを使え」
それだけ言い残し、アルカディアは再び暗闇の奥へと消えていった。
開け放たれた扉の奥を、ノアは呆然と見つめた。
豪勢な調度品で整えられた客室だった。
天蓋付きのベッド、マホガニーの机、床には厚い絨毯が敷かれている。
生贄を閉じ込める牢獄にしては、あまりにも整いすぎていた。
ノアは部屋に入り、扉を閉める。
重い木の音が響き、静寂が戻った。
窓際へ歩み寄り、分厚いカーテンを開ける。
眼下には、見渡す限りの黒い森が広がっている。
月光が、荒涼とした世界を冷たく照らし出していた。
逃げ場はない。
ノアは窓枠に額を押し当て、冷たいガラスの感触を肌で感じた。
いつ殺されるのか。
いつ、その血を全て奪い尽くされるのか。
恐怖は形を変え、じわじわと神経を削り取っていく。
ベッドのシーツは清潔だったが、カビと古い埃の匂いが染み付いている。
ノアはベッドの端に身を縮め、膝を抱えた。
冷え切った身体は、いくら丸まっても温まることはない。
遠くで、フクロウの鳴き声が一度だけ響いた。
永遠にも似た長い夜が、今はただ静かに過ぎていくのを待つしかなかった。
恐怖の底で、ノアは目を閉じる。
アルカディアの赤い瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの絶対的な冷たさの中に、ほんのわずかな歪みを見た気がした。
それが何なのか、今のノアには知る由もない。
ただこの冷たい城の中で、自分の命が尽きる日を待つだけの生活が始まる。
微かな絶望を抱いたまま、ノアは浅い眠りに落ちていった。




