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4-2 突き進む

「・・・もう八時か」


 一ノ瀬はあくびを噛み殺しながら、重い足取りで階段を降りる。


「一ノ瀬さん、おはよう。よく眠れた?」

「早紀さん、おはようございます・・・。すいません、私の分まで朝ごはん作ってもらっちゃって」


 星野早紀が立ち働くリビングには、出汁の効いた味噌汁の匂いが満ちていた。ここ数カ月、硝煙と薬品の刺激臭に麻痺しかけていた鼻腔には、それがひどく新鮮で、どこか泣きたくなるほど穏やかな香りに感じられた。


「いいのよ。そんなこと考えなくて」

「・・・助かります。あ、先輩は?」

「いつも通り。一時間前に、工房の掃除に行ってるわよ」

「本当にすごい体力ですよね」


 そんな会話を交わしていると、玄関の引き戸が、乾燥した冬の音を立てて開いた。


「おはよう、一ノ瀬。定刻だ。コンディションはどうだ?」

「おはようございます。・・・最悪ですよ。昨日の調合データの夢を見てうなされました」

「理想的だな。脳が睡眠中もデバッグを続けている証拠だ。今日も頑張ろう」

「そうですね。頑張りましょう」


 燈弥は淡々と答えると、居間に安置された父・聡の仏壇の前へ歩み寄った。

 毎朝欠かさない。静かに、しかし短く手を合わせるその背中は、祈っているというよりは、今日の進捗を「報告」する上司への態度のようにも見えた。


 星野早紀を巻き込んだこの奇妙な共同生活は、しかし、驚くほど冷徹な効率で回り始めていた。


「よし。一ノ瀬、混合比の最終確認だ。昨日の試作第十二号、酸化剤の粒径にムラがあっただろう」

「あぁ、あれですね。粉体を混ぜるというのは、言葉で言うほど単純じゃないですね。どの程度混ぜたらいいのか?どれほど混ざったのか?など測定する方法がここにはないんです」

「・・・液体や気体とは違うからな。」


 日中の工房での作業内容は変わらない。だが、早紀による家事の全面バックアップにより、二人の実働時間は物理的に三時間以上、純増していた。

 夜になり、早紀の作った夕食を三人で黙々と食べる。それが、二十四時間の中で唯一許された、思考のクーリングタイムだった。


 そして食事が終われば、二人は再び、冷え切った工房という名の戦場へと戻っていく。


 そんな生活が一カ月を過ぎた、ある夜のことだった。


「ふぅー寒い寒い・・・」


 一ノ瀬がコーヒーを片手に一息ついていると、工房の隅、裸電球の心許ない明かりの下で、燈弥が古い分厚いアルバムを広げているのが見えた。普段、設計図と配合表以外には目もくれない彼が、珍しいこともあるものだ。


 ページをめくる指先は、どこか慎重で、慈しむようにも見える。

 それは、幼い頃の燈弥と、若き日の父、そして母が、三国の海岸で笑っている写真だった。


「・・・珍しいですね、先輩が思い出に浸るなんて」


 一ノ瀬は、少しだけ揶揄うような、そしてどこか安堵した気持ちで声をかけた。

 だが、燈弥がゆっくりと顔を上げた時、その瞳に宿っていたのは、一ノ瀬が期待したような感傷ではなかった。


「思い出? 違う。これは『観測記録』だ」

「え・・・?」

「一ノ瀬、ここに来い。この写真の解像度を見ろ」


 燈弥は手招きし、いつの間にか手元に用意していたルーペを栞に手渡した。


「これは親父が20代の頃の作品だ。当時のフィルムカメラで撮られたものだが、現像が丁寧だ。見ろ、この火花の末端。光の粒子がどういう減衰曲線を描いて消えていくかが、この露光時間から逆算できる」

「・・・」

「こっちの写真は、打ち上げ失敗の瞬間のものだ。玉が割れるタイミングがコンマ数秒早い。だが、それ故に内部の『星』が燃焼し始める初期段階のスペクトルが、背景の闇に綺麗に浮き出ている」


 燈弥は、写真の中の米粒よりも小さな光の点を指差しながら、早口でまくし立てた。


「俺の記憶は、ガキの頃の曖昧なバイアスがかかっている。だが、物理的な結果は、こうして過去の写真の中に『データ』として固定されているんだ。打ち上がった形、光の広がり方、星が引きずる尾の色――。この家にあるアルバムは、親父が遺した、世界に一つだけの『非公式技術ログ』なんだよ」


 一ノ瀬は、呆れを通り越して、感嘆の息を漏らした。


「・・・三カ月。その期限までにゴールへ辿り着くためのリソースは、感情も含めてすべて使い切る。やるしかないぞ」

「・・・そうですね」


 ーーーーーーーーーー


 さらに一カ月が経った。


 三国の冬は容赦なく、工房の温度は氷点下に近づいていた。作業台に向かう二人の吐く息は常に白い。


 指先は火薬の微粒子で黒ずみ、もはや何度洗っても爪の間から消えない硝煙の匂いが、彼らの皮膚そのものに染み付いていた。かつて首都の最上階でスマートにキーボードを叩いていた面影は、もうどこにもない。


 失敗作の数は、すでに数百を超えている。

 乾燥の段階でひび割れたもの、配合がわずかに狂って点火すらしないもの、途中で異常燃焼を起こしてただの黒煙に化けたもの。その度にデータを書き換え、また最初から火薬を練り直す。


 そして、その夜だった。


 立て付けの悪い窓が、日本海からの強風でガタガタと悲鳴を上げている。

 作業台の上で、燈弥がそっと手を離した。ピンと張り詰めた静寂の中で、彼が小さく息を吐く。


 「・・・一ノ瀬。これ、形になったんじゃないか?」


 その声には、歓喜も高揚もなかった。あるのは、限界まで思考を回し続けた果ての、張り詰めた平熱だけだ。


 一ノ瀬は手元にあったコーヒーカップを置き、吸い寄せられるように作業台へ歩み寄った。

 裸電球の心許ない明かりの下、小さな小皿の上に、それは鎮座していた。

 これまでの歪な失敗作とは、明らかに佇まいが異なっていた。


 それは、泥と煤にまみれた二人が、何万回ものシミュレーションと挫折の果てに、ようやく泥の中から強引に掬い上げた結晶だった。

 一ノ瀬が恐る恐るルーペを覗き込む。

 酸化剤と還元剤の粒子が、肉眼では捉えきれないほどの精度で、均一に、隙間なく噛み合っているように見える。

  完璧な製品ではない。大量生産ができるわけでもない。

 だが、確かにそれは命の鼓動を宿しているかのように、一粒の、黒く艶やかな「星」として呼吸していた。


「すごい。これなら花火になりますよ!!」

「ああ。理論上、これなら途中で立ち消えすることなく、最後まで燃焼曲線を描き切るはずだ」


  燈弥はピンセットでその星を持ち上げ、小さな木箱へと納めた。ゴトン、と乾いた小さな音が響く。


「これでやっとスタートラインだな」


 達成感に浸る暇などなかった。三カ月の猶予は、もう残り少ない。乾燥の時間を考えればあと半月で、花火玉を作りきらなければならない。

 二人はすぐに次の作業に取り掛かるべく、冷え切った手を擦り合わせながら、再び火薬の山へと向き直った。

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